色の不思議あれこれ009 2013-09-30
櫻井英嘉さんのこと
櫻井英嘉さんという画家(1935~1999)について書きたい。
先日、櫻井さんの没後14年を機に、奥様の櫻井充(みつ)さんが櫻井さんの作品集を発行された。また、これを記念して東京・茅場町のベイスギャラリーで回顧展が開催された。展覧会を訪れ、また作品集に見入りながら、久しぶりにしみじみと櫻井さんのことを思い出した。
私が櫻井さんを知ったのは1971年、東京・目白の「すいどーばた美術学院」で美大受験のために二年目の浪人をしていた時だ。櫻井さんは、隣のクラスの先生だった。ちなみに、反対側の隣のクラスの先生は高山登さん、私がいたクラスの先生は数野繁夫さん。この3人で「ブロック」と呼ばれるチームを作っていた。豪華メンバーである。
櫻井クラスではグレイの紙に鉛筆と白鉛筆とを使って小さな石膏像を克明にデッサンしていたり、高山クラスでは壁に針金のハンガーをひとつ引っ掛けて油絵を描いていたりで、いずれもちょっと“変わった”感じのことをやっていたが、数野クラスは“ふつう”のこと、デッサンは木炭で石膏像を、油絵は静物や人物・人体を繰り返し描いていた。私はぼんやりした受験生だったが、それでも両側の風変わりなクラスの様子は気になってときどき覗いていた。
ある時、階段に腰かけて『少年マガジン』を読んでケラケラ笑っている櫻井クラスの顔見知りの男に、「櫻井さんってどんな絵を描く人なの?」と尋ねてみると、その男は私には一瞥もくれずマンガのコマを追い続けながら、「櫻井さんは絵なんか描いていないよ」と言った。「絵を描いていない、って、それ…、どういうこと?」とさらに尋ねると、いかにもめんどくさそうに「チューショーだよ、チューショー」と言い、「あ、高山さんも絵を描いていないよ」と付け加えて、間をおかずマンガにまたケラケラ笑うのだった。私は、チュウショーだって絵ではないか、こいつはちょっと当てにならないのではないか、と思ったが、私のことを、どうせ田舎者だ、となめてることは分かった。だからといって、なめんじゃねえ、とかやってみてもしょうがない。田舎者なんだから。「ふーん」と言いながら、その場を離れたのだった。
私はその年の受験にも失敗し、もう一年浪人してやっと合格できた。その間に、櫻井さんと高山さんは創設された「創形美術学校」の専任の先生として転出し、受験指導はやらなくなった。
大学に入って、私は勧められるまま「どばた」(“業界”では「すいどーばた美術学院」なんて呼ばないで略称を使う。いまならDBTとか呼んでいるかもしれない)の夜間部の“雑役”のアルバイトを引き受け、大学にはあまり行かず、毎日「どばた」に通っていた。「どばた」の教官室にはときどき櫻井さんも現れて、「アトリエに冷房を入れた。とても涼しい。それがうれしくてうれしくて、ずっとつけっぱなしにしていて風邪を引いた」とか言って、みんなを笑わせていた。その頃の櫻井さんは、幾分ぷっくりしていた。
私の「どばた」でのアルバイトは一年で終わりにしたが、櫻井さんはやがて銀座のフマ画廊(当時)で大きな個展をしたのを皮切りに、活発な活動を開始した。発表のたびに見に行って、櫻井さんの作品にはずっと触れ続けてきた。ぼんやりした学生には正直難解な作品だったが、恐ろしいもので、その難解さにもだんだん慣れてくるのだった。大学院生の時、「どばた」の夏の講習会で今度は講師のアルバイトをしたが、特別ゲストの櫻井さんと一緒に講評会をさせられてひどく緊張したのを覚えている。そのとき櫻井さんはスーラの画集を示しながら熱心に受講生に語りかけた。スーラを手がかりにした、というそのことが、まさに作家としての櫻井さんの基本姿勢を物語っていたように、いまになって感じる。その姿勢は、たとえ相手が受験生であってもいい加減ではなかったように、どんな時も誰に対しても誠実に示され続けられて、けっして揺るがなかった、と思う。
そのうちいつの間にか、何故か分からないが、私は櫻井さんにかわいがってもらうようになった。松葉杖をついて足を引きずりながら私の個展に来てくれたこともあったし、顔を合わせれば飲みに誘ってくれた。二人展をやろう、と言ってくれたこともあった。さすがに恐れ多くて、二人展はお断りした。
展覧会で私がヨーロッパに出かけていた時と会期が少し重なってしまった札幌でのグループ展で、やむをえず、搬入や展示の作業を出品者の一人の友人の木島彰氏に頼んだ時には、やはり出品者の一人だった櫻井さんは現場でその様子を見ていて、あとで強く叱ってくれた。大先輩の櫻井さんから、「外国で展覧会だったから、って言うの? へえ、おまえ、いつの間にかいっぱしの作家気取りだねえ」と言われるのだから返す言葉がなかった。それだけでなく、手を変え品を変えして繰り返し叱ってくるので、本当にタジタジした。以来、自分の作品の搬入や展示を誰かに頼むことは絶対にしないようにしてきた。櫻井さんの抜群の教育力のあかしのひとつだと思う。
水で薄く溶いたアクリル絵具をサラの綿布にしみ込ませるように幾重にも塗り重ねていく作品になってから、櫻井さんは意識的に神田の貸画廊のスペースでの発表を繰り返した。そういう作品発表のやり方は、この国の状況に向けての根本的な批判を含んでいて、櫻井さんのいきどおりと自負とがないまぜになっていたものだと思う。かつて受験生に語りかけていたのと同じ姿勢が示されていた。展示されていたのは、どんな時もほんとうに精度の高い作品だった。
ある時、どこかで二人で飲んでいた時だったと思う。櫻井さんが、「俺は百回近くも、それ以上も色を塗り重ねるんだから、辛気臭い坊主みたいなもんだ」とか繰り返し言うので、ちょっとカチンと来て、生意気なことを言ってしまったことがある。
「櫻井さん、ウソの物語を作ってはダメじゃないですか。辛気臭い、なんて自分で言ってるけど、黄色を全面に塗って、赤を塗って、青を塗って、そして薄く薄く水で溶いた黄色い絵具を線のように置いていって、同じように赤い絵具を置いていって、青を置いていって…、って描いていくんでしょ? あと、使うのはせいぜい緑とか紫とか橙でしょ? そんなふうに描けば、どんな時もすごくきれいじゃないですか。百回うっとりしながらおののいていられる、と言ってもいい。そのことを言わないで、辛気臭い、とか、百回、とか言って、やっていることを作業に矮小化してしまう。どうしてそんなことばかり言ってるの? どんな時もきれいな画面を前にうっとりして、同時におののいている櫻井さんのことを語ってほしい。そうしないとだれもがみんな櫻井さんを誤解するよ」
そしたら櫻井さんは驚いたような顔をして、「おまえ、どうしてそんなことが言えるの?」 と言った。私は正直に、「だってやってみたもの」と言った。実際、やってみたのだ。やってみて櫻井さんが分かった気がしたのだ。
私の生意気な物言いに、櫻井さんは激怒するかと思ったけど、黙ってしまった。その反応が意外だった。
その後、櫻井さんは、「ベイスギャラリーでやることにした」とか、「近美(東京国立近代美術館)に作品が入った」とか、“節目”ごとに教えてくれた。やがて、腰が痛いので治療に専念している、というはがきや、相変わらずだが、制作を少しずつ再開している、というはがきが届くようになって、直接会うことはなくなった。誰かから、容態がよくないことを聞かされてからは、返事を書くのが辛かった。今勤務している学校のために書いた教科書ができた時に、近況の報告を兼ねて送ったら、途中で投げ出さずによく頑張った、というおほめのはがきが来た。はじめてほめてもらった。お見舞いに行こうと思っているうちに、亡くなった、という知らせが来た。お通夜だけにはおまいりした。あれから14年。今、ちょうど、お盆である。
ここに櫻井さんの作品をいくつか掲載してもらおうと思う。こういう誠実な作家がいたことを知ってほしい。近美だけでなく、いくつもの美術館にも作品は収蔵されている様子なので、直に作品と触れて欲しい。
奥様がまとめた櫻井さんの作品集のことはベイスギャラリーに問い合わせてみてほしい。
2013年8月12日、東京にて
立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
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