色の不思議あれこれ004 2013-06-06
冬の光(2)
冬の表日本は光がきれい、なんて書いて、バチが当たったのか、東京にもどっさり雪が降った。交通網はズタズタ、次の日になってもポイント故障で遅れが出るなど、かなりの影響があった。東京は雪に弱い。
いつになくしんとしている、と思いながら、朝起き出してカーテンを開けた時、窓の向こうが一面真っ白だと、大人だけの家でも思わず歓声が上がる。でも、今回は、次から次へと降ってくる大きな雪が、強い風で思いがけない方向へ流されているので、とてもじゃないけど、外に出る気にならなかった。祭日だったし。私は、ずっとこたつに入ってじっとしていた。
家人が、食料の買い出しに行く、と言った。上を向いて歩くと空に吸い込まれそうな気がするからやってみるとよい、とか言って送り出した。ほどなく雪だらけで帰ってきて、空を見上げるなんてとんでもない、風が強くて目を開けていられないくらいだった、と叱られた。風のことをすっかり忘れていた。くわばら、くわばら、こたつが一番。
夕方近くにやっと降り止んだので雪かきをした。拙宅は建物の前が直ちに道路なので、どこまで雪かきをすればよいのか、いつも迷う。昔は、道路の幅の半分よりすこし向こうまできちんと雪かきして、あとは向こうのウチの責任、でも、たまった雪は拙宅の側に積み上げる、そのくらいの“誠意”はあった。しかし、もう体力がない。出入り口の前だけにした。
その雪も、日が経って、日陰の限られたところ以外はすでにあらかた消えてしまった。残った雪の形が面白い。そこから道に水になって溶け出して、跡が黒光りしている。アスファルトからのわずかばかりの乱反射を、流れた水が抑え込んでいるのだ。
それで、冬の光はきれい、と感じるのはなぜか、という話である。ちゃんと理由があるはずなのだ。
冬の空の太陽の高さは低い。夏は高い。地軸が傾いているからだ。小学生でも知っている。ということは、太陽から地上に届く光が通過してくる大気の厚みも、冬と夏とでは変化する、ということだ。
大気の厚みは、地球の中心から見ればどこも一定であるが、地軸が傾いていることを念頭におけば、地上のある一点と太陽との間の大気の厚みということになると、冬は厚みが増していて、夏は厚みが少ないことになる。春と秋はちょうど真ん中だ。
空気が見えないのと同じように、私たちが「空」と言っている大気も直接は見えない。光との相互関係で「空」は見えるようになる。
晴れている時「空」が青いのは、短い波長の光が大気中に散乱するからだ、と本で読んだ。夕焼けや朝焼けの「空」が赤くなるのは、夕方や朝は太陽光が通過してこなければならない大気が昼間よりはるかに厚くなるので長い波長の太陽光が通りやすくなるからだ、とも聞いた。こんなことを考えると、夏と冬とでは太陽光が散乱してできる「空」の色の成分は異なっているのではないか、と思われる。それも含めて、夏と冬とでは地上に届く太陽光の成分比が異なっているのではないか。それが、冬の光がきれい、と感じさせているのではないか。
そんなことを考えながら、手元の資料を調べてみたが、思うようなデーターに出くわさなかった。
心理学では、空の色のような現れを「面色」と言って、ものの表面の色の現れである「表面色」と区別する。「表面色」は、確かにその色が特定の場所にある、というように見える。「面色」はその色の位置が分からない。空の色のような巨大な「面色」は地上の「表面色」に影響するのだろうか。晴れた日と曇った日とでは、北向きの窓だけの部屋のものの色の見え方が異なっていそうだが、本当はどうなのだろうか。
一方で「色の恒常性」ということがある。光の成分が多少変化しても、赤いものは赤く、青いものは青く感じる、ということである。いつか、部屋の一部を緑の照明で満たした展示を見たことを書いたが、そういう極端な場合でも、私たちは緑の照明を前提として目の前に見えている状況を補正してしまうクセ、というか、たいへんな能力がある。してみれば、太陽光の成分との相関を考えるのはなかなか厄介だ、ということにもなろう。
冬の光がきれいな理由は、もっとシンプルなところに求めるべきかもしれない。それは空気中の水蒸気の分量のことである。
冬は気温が低いので、空中の飽和水蒸気量が少なくなる。夏は反対に気温が高いので、飽和水蒸気量が多い。空中に水蒸気の微細な粒が極端に多ければそれを霧と言って、向こうが見えなくなる。霧は、気温が急激に下がると生じる。それは、気温と飽和水蒸気量との関係を考えれば頷ける。冬は気温が低く気温差も少ないので空中の水蒸気が少ない、だから、光がきれいなのである、というのではだめだろうか。
とはいえ、何人もの知り合いが、ヨーロッパの北の方に行くと青い色がとてもきれいに見えた、と言っていたことが気にかかる。イタリアできれいだと思ったものが日本ではきれいに見えない、と言っていた友人もいる。その訳がすっきり納得できないのが悲しい。
光がきれい、とか言っているが、光そのものは見えないのだ。
ふしぎなことだ。 光が特定の領域の波長の電磁波であることは学校で教わった(はずである)。私の友人のひとりは、光は電磁波である、と高校で教わった時のことを、頭を殴られるくらいの衝撃だった、と言うのである。それに比べると、私は教わったこと自体を覚えていない。なんの関心もなかったのだろう。決して自慢できる話ではない。
その友人は当然のように科学者になった。今頃になって、「電磁波」って何? と私のような怠け者が尋ねても丁寧に教えてくれる。科学者はじつに人格者である。私の方は、せっかく教えてもらっても、すぐに忘れてしまって、同じことを何度も尋ねてしまう。それでも、その友人は嫌な顔をせずに教えてくれるのだが、また忘れてしまう。メモを取るのだが、そのメモの行方が分からなくなる。ふしぎなことだ。
(2013年1月21日、東京にて)
立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
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