藤村コラム227 2022-10-03
日曜日の東京都現代美術館
MOTという略称(愛称?)の東京都現代美術館で企画展のチケットを買うと、MOTの収蔵品から選んで構成した「MOTコレクション展」が無料になる。加えて、私は老人なので企画展のチケットは割引になる。なので企画展は「MOTアニュアル2022 私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」展を選んだ。高川和也、工藤春香、大久保あり、良知暁の4名が出品しているがいずれも未知の作家たち。
まず、高川和也の映像《そのリズムに乗せて》。
ちょうど掲示の開始時刻直前だったので、真っ暗なスペースに入る。ほとんど何も見えない。おっかなびっくりで進む。少しずつ目が慣れてベンチがあることがわかった。空いているところ座ったらタイミング良く始まった。
映像には一人は作家(高川)自身、もう一人はFUNIというラッパーが登場した。むむ、苦手な、というか、何も知らないに等しい分野。一生懸命に見てしまった。
FUNIは高川を励まし、ラップについて語る。高川は昔書いた日記をラップにしてみようとする。それを聞いたFUNIは、自分もまた日記を書いていたことがあってそれが次第にラップのためのメモのようなものになってきたことを作家に示し、さらに高川を励ます。高川はある哲学者が行っているワークショップのような集まりに参加して、参加者全員に自分の日記を読んでもらって感想や意見を言ってもらう。その過程で、自分の日記をラップにできる、ラップにしてよい、という確信を得て、FUNIにラップのテクニックの教えを乞う。と、そういう筋立てである。FUNIからの具体的な指導を受けて高川が上達するのが私にも分かる。FUNIの指導は合理的に段階を追って順になされていた。高川も嬉しそうだった。かなり長い映像だが(52分)、興味深く見た。
次に見たのは工藤晴香《あなたの見ている風景を私は見ることはできない。私の見ている風景をあなたは見ることができない。》。
最初の小ぶりなスペース。床面から浮かせて水平に置かれた円形の鏡に三つの折り紙の舟が置かれている(全体が顔にも見える)。壁に地図を手書きしたものや湖を描いた絵、鉛筆で真っ黒く塗りつぶされた紙片。
次の大きなスペース。半透明の極めて薄手の白い布がカーテンのように吊るされて横切っている。上から見れば「S」の形になっているだろう。床との間には隙間がある。“カーテン”の裏表にはそれぞれ年表らしきがグレイの各ゴチック体で印字されている。極めて薄い布地なので裏側に印字された文字群も左右反転してうっすらと見えている。読めば、「優生思想」や「優生保護法」をめぐる年表である。政治や行政の年表が表側に、裏側には当事者たちの運動の年表が印字されている。全部読んでみたが、帰宅してしばらく経った今、もうほぼ忘れてしまっている(悲しい)。“カーテン”の下方に一組のスニーカーが置かれており、気がつくと壁際や“カーテン”で囲まれた中央部にソファーやテーブル、ぬいぐるみ、コカコーラのペットボトル、スニーカーなどが配されている。上方に白いTシャツが広げられて吊るされている。周囲の壁には、油絵らしき肖像画が二点、古そうな新聞の小さな切り抜き、小さな用紙にペン書きでメモされた言葉が横に等間隔で多数留められている。これらのメモも今、ほぼ忘れてしまっているが(悲しい)、目が見えない人のだろうか、障害のあるらしき「一也」、彼をめぐる介助者らしき人のメモのような印象だった。さらに、モニタに動画。これらから、どうやら相模原市の障害者施設で起きた大量殺傷事件から展開した作品か、と見当をつけた。事件そのものを扱うというより、事件をきっかけに作家が行った相模湖や優生思想、水路や当事者などについてのリサーチの報告、といった印象である。中ではやはり”年表”に見応えがあった。
モニタの映像は、作家が自ら相模湖からガラスの容器に水を汲み、横浜あたりの運河(?あるいは海?)まで歩いてその水を流し、その場所の小さな草を二本抜いて容器に詰め、もう一度相模湖へ向かう、というものである。私はそこまでは意地で見たが、きっとこれは相模湖のほとりにこの植物を植えるのだろうと見当をつけて、途中でモニタの前から離れた。私が見た映像では相模湖から横浜あたりまで歩き続け、また戻りはじめたかのような作家の姿だだったが、実際は歩き通していないのではないか。影のでき方に変化がなさすぎる。ま、相模湖から横浜まで、往復全部を実際に歩かなくてもいいわけだが、、、。
次のスペースは大久保あり《No Title Yet》。
いきなり巨大な“仮設壁の裏側”に迎えられる。金属の構造物があらわなので“裏”と書いたが、裏表はどうでもいいのかもしれない。壁はぐるりと部屋を仕切っており、大変大掛かりなインスタレーションで驚いた。“仮設壁の表側”や“側面”は石のようなテクスチャー、所々に落書き、というか手慣れたグラフィティがある。豪華なようでハリボテ状態を強調し、いささか荒んだ印象も与える設定である。そこにさまざまなテイストの「もの」たちが、什器をはじめ、スペースのあちこちに配され、四つの言語で書かれた文章が複数、壁に配されている。正直、私はどう見たら良いか分からなかった。しかし、隅々までスキがなく、照明にも細やかな配慮がなされており、ずいぶんお金がかかっただろうな、という我ながらつまらぬ詮索に支配されてしまって、作家に申し訳ない。私には集中力がなくなってしまっていた。
最後の良知暁《シボレート/shibboleth》は、これまで巡ってきたスペースと対照的で、明るくてアッケラカンとした大きなスペース。
あ、違う。その大きな部屋に入る前に細長い部屋の奥の2台のスライドプロジェクターがパウル・ツェランの言葉を壁に映写していた。しかし、私はその映写をほとんど真面目には見ず、今時、こうしたスライドプロジェクターを使うのは珍しいな、と懐かしさにばかり目が行って、私自身のスライドプロジェクターは一体どこにしまい込んだのだろう、となど余計なことばかり考えるだけで、立ち去ってしまったのである。その部屋から持ち帰った袋入りの小冊子に目を通して、あ、あの場で映写内容をちゃんと見て(読んで)おくべきだった、と後悔したが、すでに後の祭り。以下、配布されていたその小冊子からの受け売りである。
作品タイトルの「シボレート/shibboleth」(合言葉)とは旧約聖書からとっている(らしい)。ギレアド人がエフライム人を見つけ出すための合言葉。ギレアド人とエフライム人との微細な発音の違いを根拠にエフライム人を見つけ出して殺していく。同じようなことは、1923年の関東大震災後に日本人が朝鮮人を見つけ出し殺すために使った「15円50銭」、1964年、米国ルイジアナ州での投票権テストに出題された「Write righit from the left to the right as you see it spelled here.」にも現実に使われた。こうした選別と排除の機能を持った「合言葉」を、「no pasaran」(奴ラヲ通スナ)と置き換えて「連帯」の「合言葉」として転回させよ、とツェランは言った(という)。
なるほど、それであの広くて明るい部屋に「15時50分」を指して動かぬ時計が壁にかけられ、「right」の発音記号の形状をした光らぬネオンサインが壁に設営され、中央に持ち帰って良いカードが置かれていたのだ、ということがわかった。今思い起こすその‘‘宙吊り状態’‘の展示が如何にも適切に思えてくる。
その後、コレクション展を見てクタクタになった。でも、コレクション展はとっても面白かった。初めて見る作品や資料もあって、つい夢中になり、それでバテ果ててしまったのである。
日曜日だったせいか、ホールに長い列ができていた。素晴らしい! と思いつつ帰路についた。
(2022年10月2日、東京にて)
「MOTアニュアル2022 私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」
会期:2022年7月16日(土)- 10月16日(日)
休館日:月曜日
(10月10日は開館)、10月11日
会場:東京都現代美術館
開館時間
10:00-18:00(展示室入場は閉館の30分前まで)
観覧料:一般 1,300円 / 大学生・専門学校生・65歳以上 900円 / 中高生 500円 / 小学生以下無料
※ 本展チケットで、「MOTコレクション」もご覧いただけます。
※ 小学生以下のお客様は保護者の同伴が必要です。
※ 身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳・被爆者健康手帳持参者とその付き添いの方(2名まで)は無料です。
※ 予約優先チケットもございます。予約優先チケットはこちら
会場:東京都現代美術館 企画展示室3F
主催:公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都現代美術館
公式HP https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/mot-annual-2022/
画像:良知 暁《15:50》(「シボレート / schibboleth」における展示)2020-21年 (撮影:川村麻純)
立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
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