藤村克裕雑記帳

色の不思議あれこれ216 2022-04-01

「ロニ・ホーン展」にも滑り込んだ

「ロニ・ホーン展」にも滑り込んだ

  箱根、ポーラ美術館は遠かった。
 新宿バスタから乗り込んだバスに揺られ、御殿場で完全にぺったんこに見える真っ白な富士山を窓から見つけて呆れ、さらに曲がりくねった坂道を行って、とあるバス停で降り、そこに別のバスが来るのを待ってそれに乗り込み、さらにくねくね曲がる坂道を行って、やっと辿り着いたのである。
 「ロニ・ホーン展」が最終日なのであった。
 「ロニ・ホーン展」はとっても面白かった。
 会場を巡ったあと、図録を買おうとしてショップに行ったら売り切れだという。今、増刷しているところなので、予約しますか? とおねえさんが言うのであった。
 図録が売り切れるほどの感銘を観客に生んできたのは素晴らしいことである。最終日も会場には若い人がいっぱいだったし、図録の予約をしている若い人もたくさんいた。それもまた素晴らしいことである。が、図録がないのはこたえる。なぜか?
 許されていたから、会場で写真は撮ったが、その写真は主観的すぎて肝心な情報(タイトルや制作年、材料、サイズなど)が完全に欠けてしまっている。メモも取っていないし、図録もない。確か拙宅にPHAIDON社から出たロニ・ホーンの作品集はあったはずだが、例によって行方がわからない。会場に「出品目録」があったような気もするが、持ち帰っていない。あやふやな記憶だけで書かねばならない。

 まず、白いフクロウの剥製を撮った同じ(に見える)写真が2枚横並びで迎えてくれた。その左側にはB全くらいはあろうか、波が岩に打ち付けているところを撮ったモノクロームの写真(印刷物?)があった。

 最初の大きな部屋は、床が全て10センチほどかさ上げされていて灰色の無機質な素材が貼り込まれていた。その特別あつらえの床は、そこに置かれた確か八つほどのガラス製の背は低いが大きな“円柱”(あるいはなみなみと水のような液体を湛えたタライのような不思議なもの)、これらを設営するためにわざわざ作ったものだろう。ガラスの“円柱”は「キルン」と呼ばれる技法で作られているように思ったが、原型と型作りのことはもちろん、ガラスの重量と長い時間をかけて少しずつ冷やさねばならぬ設備や手間を考えると、よくもまあ作り上げたものだ。一つ一つが色や表情を違えて見応えがある。透過と屈折と反射、そして表面の形状が、相互に入り組んで、見えが撹乱され、見飽きるところがない。何かの情報からの記憶では、六面体のシリーズもあったはずだ。

 その次の部屋には、アルミ製の角柱に、象牙色の樹脂であろうか、角ゴチック体による英語のフレーズが“裁ち落とし”の状態で“象嵌”されたようなものが5、6本、壁に立てかけられている。それは合理的に考えれば角柱に“象嵌”なのだが、もしかすると、厚みを備えた角ゴチック体の樹脂を一つ一つ英文を成すように並べ、文字以外のところにアルミを嵌め込んで角柱になるように作ったのかもしれない。私なら、アルミの角柱に必要な窪みを作ってそこに樹脂を流し込んで固化させ、然るのちに研磨して表面処理を行うだろう。“裁ち落とし”されたところは、まるでバーコードのような表情を見せながら裏面につながり、裏面は“鏡文字化”したアルファベットになっているかのようであるが、そうではなく、ほとんどあり得ないことだが、各ゴチック体のアルファベットの分厚い文字をあらかじめひとつひとつ作っていたとすれば、表面と裏面が鏡文字の関係になるのは当然なのである。そういう、作り方のことはともかく、ここに展示された角柱は、まるで、アナログ(アルファベット)とデジタル(バーコード)とが共存している角柱のようであり、その角柱のエッジのシャープさは実にかっこいい。エッジ部には、観客の安全性への配慮であろうか、最小限にとどめた面取りはなされている。
 同じ部屋の窓際の床には、「箔」と言えるのかどうか、畳半畳くらいの大きさの極薄の純金の“延板”が一部分折り返しながら広げて設置されている。焼成してあるとかで、普通の金色よりもっと橙色の色味になっている。それが重いのか軽いのかわからないし、表面に生じているシワというか凸凹が不思議な様相を生じて輝いて、名状し難い。ヘリに沿った方向に一定の間隔を置いて何本かの並行な直線になるように刻印がある。折り返しの部分の内側にはギラリと光る広がりが湛えられているのが反射で見える。退屈しない。ふと見れば、おや、埃を認めてしまった。最終日だからやむを得なかったのかも。

  次の部屋にはドローイング。アイスランドの地図、極小の活字文字の英文や手書きの英文が、直線状にカットされ、やはり“象嵌”のような表情を見せながら構成されている。実に手間のかかる仕事だ。これらも見飽きると言うことがない。
 同じ部屋の二つの壁面には、本の作品が紹介されている。ロニ・ホーンは意識的に本の姿をした作品のシリーズを作り続けてきているのだ。二つの壁面に展示されているそれはそれ自体が作品のように構成されている。

 次の大きな部屋には180センチくらいの高さに横一線の多くのカラー写真。アイスランドで撮ったものらしい。アイスランドに住む老夫婦、海、鳥、鳥の巣、部屋、テレビ番組からの女や男の姿や灯台、、、など。一巡、二巡、逆回りなどしていると、撮影したロニ・ホーンのアイスランドでの息遣いや眼差しのようなものが生き生きと感じられてくる。いくつかの同じ(ような)写真のペアがあちこちに散らばって展示されているのが興味深い。それらが同じかどうか、つい確かめようとしてしまう。そうしたアクセントというか、“仕掛け”がある。

 次の部屋は暗い。紗幕のようなベールで隔てられた奥にビデオ映像が大きくプロジェクションされている。映像には野外の小高い丘のようなところでテーブルを前にして座ったロニ・ホーンが紙に書き付けられた文章を読んでいるところが音声と共に捉えられている。朗読、と言ってよいかもしれない。
 テムズ川とか、黒とか、自殺とか、内臓とか、ディキンソンとか、もちろん英語で言っている。私の英語力はお猿以下(お猿に申し訳ない)。英語と日本語字幕が次から次に続くので、記憶したりすることができない。ロニ・ホーンの周囲は、朗読のはじめには明るかったのにだんだん暗くなって、すっかり暗くなってしまう。でも、ロニ・ホーンは読み上げるのをしばらくやめない。一周り分を見たが、降参。

 次の部屋にはさまざまな表情の水面を捉えた(らしき)写真(印刷物?)が並んでいる。アイスランドの水か、とも思ったが、ロンドンのテムズ河の水面らしい。やがて、写真画面には小さな(小さすぎる!)白抜きのアラビア数字が散らばっていて、写真の下部にはわずかは幅があってそこに小さな(小さすぎる!)英文が注釈のようにアラビア数字とともに配されていることに気づくことになる。そうか、数字のある場所と数字が示す英文とを対応させながら読め、というのかな、と思ってやってみると、ぎょぎょっ! とした。
 写真画面上に見つけた数字を下の文の数字と照合し読んでみて、もう一度確認しようと写真画面のその場所に戻った時、その数字の周囲の画像の様相が異様な迫力の表情をもって迫ってくるのだ。
 それは、ああ、次は写真の作品か、どれどれ? という見方をしていた時に見ていた写真の表情とは明らかに違ったど迫力になっていた。
 とても驚いた。
 で、同じ写真の別の場所にある別の数字で同じことをやってみた。同じことが起こった。 
 え? これはいったいどうしたことだろう、、、。
 おそらくは、白抜きの極小の数字探しに集中したが故に、それが水面を捉えた写真画像だったことを忘れてしまったのだ。私の英語力がお猿以下だということも幸いしただろう。だから、写真の中の数字に戻った時、数字の周囲の色と形の広がりに、一切の先入観なしに出くわすことになったのだろう。これは久しぶりに得た感覚であった。なるほど。
 私はロニ・ホーンが行なったこの“仕掛け作り”に感心し、繰り返し没入して、しばし時間を過ごすことになった。実に面白い。
 “仕掛け”が分かっていても、写真の画像に繰り返し感動できる。素晴らしい。
やがて、写真画像下部の注釈のような文は、先ほど、ビデオの中でロニ・ホーンが長々と読み上げていた文章だ、と気がつくことになった。
 ロニ・ホーンの声がかぶさってくる。歌っていたあのフレーズもここにある、、、。
 この部屋にはどのくらいの数が並んでいたのだろうか、、、。
 立ち去り難かった。
つづく→
 

藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

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