色の不思議あれこれ206 2021-09-07
「シンビズム」展を豊科で見た その2
豊科で見た「シンビズム」展の松澤宥
廊下壁にも展示されていた小松さんのドローイング群に没入して我に返り、次の部屋へ向かおう、と振り返ると、廊下奥へと設営された大きな幟(のぼり)=あの「人類よ消滅しよう 行こう行こう(ギャティギャティとルビ) 反文明委員会」の幟と、廊下壁にポッカリと空いた隣の部屋の入口から奥に展示された天井まで届く大きな絵が目に飛び込んできて、再び声を上げそうになったが、なんとかこらえることができた。
幟と絵と、どちらを先にしようか? と迷ったが、幟は後回しにさせてもらった。そこの部屋には松澤宥氏の「啓示」以前の作品群が並んでいるのではないか、と思ったのである(「啓示」とは、もちろんあの、「オブジェを消せ」との“声”のことだ。1964年6月1日の深夜のことだったそうだ)。
部屋に踏み込んで、ついさっき目に飛び込んできた大きな絵に、引き寄せられるように近付いていくと、『プサイの意味—ハイゼンベルクの宇宙方程式に寄せて』(1960年)というタイトルの、84㎝×84㎝のサイズの9点の絵がそれぞれ額装されて3×3の状態で「全体」を形作っている作品なのだ、と分かった。額のガラスが照明のライトや非常口を示すサイン照明をはじめ私の姿や部屋の中の様々なものを反射して肝心の絵がよく見えない。見えないが、それぞれ豊かなニュアンスの褐色を基調にした“地”に、奇妙な形状が独特な色使いで描かれているのは分かる。分かるが、よく見えない。まさに、痒いところを靴の上から掻いている、という状態である。それでも目を凝らす。
会場入り口で配布されていた「作品リスト」によれば、紙に水彩やパステル、クレヨンで描かれているらしい。ここに描かれている不思議な形状と何か似た姿のものはないか? と頭は猛烈に回転するが、中央最上部に描かれている形状は“クリオネ”に似ているかも、いや、プサイ(ψ)というギリシャ文字かも、とか思いつくのがせいぜいである。また、3×3の構成はただちに金剛界曼荼羅を想起させるが、そこからさらに踏み込んで鑑賞していく教養が私にはない。ともかく、独特な作品であり不思議なエネルギーが伝わってくる。この作品に限らず、次に展示されていた『プサイの鳥1』(1959年)やコラージュのある『不詳』(1960年前後)は、パステルやクレヨンの塗り込みの丁寧さ、描き出される形状の独特さ、金泥らしきものによる線も含む素材の扱いの丁寧さなどから、作者の確かな力量が伝わるばかりでなく、何よりも実現したい到達点を踏まえたその目と手の徹底した用いられ方がとても信頼できる。
フルブライト奨学金で留学していた大学から依頼されたという『ウィスコンシン州立大学戦争記念碑』のためのスケッチというか図面は、もちろん大掛かりなモニュメントのためのものだ。緩やかに窪みを成す大きな同心円の段差に球体を規則的に配し、中心をやや盛り上げて卵形や丸や楕円などによる造形物を設置する計画になっている。
水彩で着彩された『意識と物質に関するダイアグラム・涅槃のために』にも同心円が描かれており、原子と電子のことや電子の遷移のことなどを想起させられるが、ダイアグラムを読み解くには至れなかった。
二つのガラスケースに収められたオブジェも、そこに特別な手の加えられ方があるわけではないが、奇妙な呪術性のようなものを携えている印象を与えており、それぞれ興味深く見た。
このようにずっと見入ってきて、ふと気がつけば、部屋入口から右側には最初期の松澤氏の詩の発表誌やガリ版刷り詩集の展示がなされていて驚かされた。全く気づいていかなかったのである。『RATI』のデザインは今見ても斬新だし、『天蓋』に発表された「Symbol Poem」は図形のようになっていて、言葉や文字による詩ではなくなっている。
続く他の部屋と廊下の「啓示」以降の作品群の展示も見応え(と言っていいのかどうか?)がある。
「啓示」の年の作品『〈プサイの死体遺体〉に就いて』(1964年)は、私もすでに印刷物で知っていた。これも金剛界曼荼羅の構造と同じ3×3の正方形にそれぞれ横書きで「非感覚絵画(仮称)」についての日本語の文章と奇妙な記号が配されている。(仮称)というのがとてもいい。今回、改めて、指示通りの順番で中央の正方形の中の文章から読み進んでいくと、分かったようでよく分からないが、時にユーモアさえ感じさせてくれるような“妙な気分”になった。
また、廊下の『消滅の幟』は1966年に作られて大阪で掲げられたのを最初にして、日本のみならず世界各所で掲げられてきたようであり、今回の会場廊下のものは2016年の「複製」だという(“オリジナル”の所在が気になる)。幟の文字はもちろん作者によるものだろうが、はじめの方の文字の大きさに対して、「反文明委員会」あたりになると小さくなっていて、設営のされ方を見越してまるで逆遠近法で書いたようにも見えるが、オブジェを消すことにした松澤氏がわざわざそんなことをするとは思えない。が、思わず知らずそうしてしまった、と考えるとちょっと楽しい。会場では裏側からも見えてサービス満点である。“オリジナル”の幟は、羽永光利氏撮影による写真で『御射山奥社密儀』(1970年)に登場しているが、そこで松澤氏が奏している笛は、今回展示されているオブジェ『「プサイの部屋からの27個の函」の一つ』に使われている笛と同じものであろうか?
『ハガキ絵画(第一次)』(1967〜68年)と『ハガキ絵画(第二次)』(1970〜71年)も各12点ずつ展示されていて、これも一つ一つ実に興味深い。
『ハガキ絵画(第一次)』には、「白紙絵画」「根本絵画」「白色の不可視の根本絵画」「白色円形の根本絵画」「非実体絵画」「情報絵画」「電話メディアによる情報絵画」「白色円形の不可視の根本絵画」が登場し、「非感覚絵画」のあり方や可能性が様々に模索されていたことが分かる。『ハガキ絵画(第二次)』では「虚空間状況探知センター」の活動が毎月報告されている(誰に?)。展示されたハガキ面の裏側も見たい気がしたが、かなわぬことであった。
『この一枚の白き和紙の中に(白鳥の歌)』(1976年)は1964年から開始された「非感覚絵画」が、エレガントに結実した例であろう。観客のイメージ喚起を巧みに促している。
『80年問題22番』11点1組(2002年)では、80年内に人類が消滅するであろうことを様々な根拠を示しながら9文字×9文字で述べている。この『80年問題22番』を、白い上下のスーツ、白ネクタイ、白靴姿、白髪の松澤氏が読み上げるパフォーマンスの記録ビデオも“上映”されている。
恥ずかしながら、筆者は松澤宥氏の作品をまとまった形で今回初めて見た。
手元に多くの資料が溜まっていたにも関わらず断片的にしか見る機会がなかったのである。大変貴重な体験で、松澤氏への認識を新たにした。来年には長野市の県立信濃美術館や長崎県立美術館でまとまった展覧会が開催されると聞いている。とても楽しみだ。
つづく→
画像:上『プサイの意味—ハイゼンベルクの宇宙方程式に寄せて』(1960年)
下『この一枚の白き和紙の中に(白鳥の歌)』(1976年)
立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
新着コラム
-
2024-11-26
-
2024-11-20
-
2024-11-07
-
2024-10-28
-
2024-10-24
-
2024-08-14
-
2024-08-06