立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
「《没後38年 土方巽を語ること XⅢ」のこと
2024-01-29
「慶應義塾大学アート・センター」が誕生したのは1993年だった、というからもう30年以上の歴史がある。1998年4月、この「慶應義塾大学アート・センター」に、「土方巽記念資料館」(アスベスト館/東京目黒)から、土方巽に関わる多数の一次資料が寄託されたのをきっかけに、同センター内に「土方巽アーカイヴ」が設けられて現在に至っている。このアート・センター=「土方巽アーカイヴ」では、土方巽に関する一次資料はもちろんのこと、舞踏関係の多くの資料の収集・保管・管理・調査・研究を行い、その成果を公開するなどの活動を行なってきている。
同センターと同アーカイブではそうした活動の一環として、1月21日の土方巽の命日に「土方巽を語ること」という催しの開催を毎年ずっと継続してきた。第一回は2010年。今年(2024年)で13回目となった(コロナで開催を見送った年もあったようである)。毎回、土方巽にゆかりのあるゲストが招かれてきたこともあって、私もこの催しにずっと関心を持ってはきたが、YouTubeにアップされた記録映像を盗み見するにとどまり、実際の催しには参加したことがなかった。で、今回はじめて行ってみたのである。慶應義塾大学・三田校舎・東館6階。今回のゲストは詩人の吉増剛造氏。無料。
資料展示もある、というので、少し早めに会場に入ったが、すでに幾人かの舞踏の関係者がいて、緊張してしまった。玉野黄市氏・弘子氏ご夫妻、三浦一壮氏などなど。とはいえ、これらの人々を含めて私が直接知っている人はひとりふたり。ほとんどの方々は私が一方的にお顔とお名前を知っているだけのことである。だから、緊張するのはヘンなのだ。が、そうなってしまう私の性癖は如何ともしがたい。以前、いろいろお世話になったことのある志賀信夫氏にだけ簡単なご挨拶をした。
その後、壁に沿って置かれたテーブル上の各種の資料の展示をざっと見て、さて、と会場を見渡すと、記録映像撮影のためにいいところにカメラが据えられていたので、そのそばの椅子に座って会のはじまりを待った。
人々が続々と集まってくる。顔見知り同士であろう、互いに挨拶や雑談をしたりしていて賑やかだったが、そのうち、準備されていた椅子だけでは到底足りないことがわかってきて、椅子の補充が始まり、マイクで係が、すみません、全体で少しずつ前に移動しながらあいだを詰めていただけますか? などと、まるで70年代のあの唐十郎の「赤テント」で、こちらは肉声だったが、申し訳ありません、皆さん、あと10センチずつ前へ詰めてください、はい、ありがとうございます、えーと、あの、大変恐縮です、すみません皆さん、あともう5センチずつ前へお願いします、ありがとうございます、すみません、あと3センチ、、、2センチ、、、1センチ、、、もうあと気持ちだけでも、、、などと実に巧みに、いつの間にかぎゅうぎゅう詰めにされていって長蛇の列の全ての観客がテント内に収まり、結果、自分の膝がどこに行ったかもわからなくなるくらい観客同士が押し合いへし合い密着して、今か今か、とはじまりを待ち、はじまった、となれば夢中で拍手し、おう、唐十郎が登場した、おう、李麗仙が登場した、、、とその度に大拍手と掛け声、、、あ、違う。ここは慶應義塾大学・三田校舎。その証拠に、周辺の人々と密着するなんてことはなかった。なかったが、ともかく主催者が想定していた以上に催しが盛況であるのは大変に喜ばしいのである。
この間に吉増剛造氏が到着して(あ、違う。椅子の補充などは第一部終了後の休憩時間だった。吉増氏は、そんなザワザワした時に到着したのではなかったことを思い出したが、修正がめんどくさいのでこのまま進む)、なんと、会場の壁の一部がクルリと回転して“控えの部屋”に案内されていくのであった。吉増氏はそこで少しの時間打ち合わせをしていたようだったが、再び会場に戻り、壁際の一つの椅子に座ると、また“控えの部屋へと消えていく。これを二度三度繰り返して、やがて、その椅子でそっと自分の気配を消しているかのようにしていた。
開演時間になって、まずは第一部。森下隆氏から「土方巽アーカイヴ」の1年間の活動報告、というか、土方巽についての研究成果の報告がなされた。
日吉校での上杉満代氏による公演(=『命』)の報告が上杉氏のスピーチを交えてなされ、やがて玉野黄市氏・弘子氏ご夫妻が紹介されて、弘子夫人がマイクを持って、この前日まで1ヶ月半ほど屋久島に滞在していたこと、そこで感じたことを皮切りに、今回の「土方巽を語ること XⅢ」のチラシに用いられた黒田康雄氏の写真についてや、今後のことなどを語られた(お二人はこの次の日(1月22日)に現在居住なさっているカリフォルニア州バークレーに戻られたようである)。
その後、巨大なモニタに、秋田工業高校でラグビーをやっていた頃の土方巽(米山九日生=よねやまくにお)の写真や、空襲で焼け野原になった東京の写真、19歳で上京して住んだ「三の橋」の簡易宿泊所を思い出しながら当時からの友人が描いた絵、たびたび夜露に打たれていた当時の有栖川公園の写真、下谷万年町の写真などを次々に映し出しながら、森下氏が説明を加えていく。「ユニークバレエ団」時代の土方巽が浜村美智子のショーダンサーをしていた時の集合写真なども出てきたが、それらのいくつかは、たとえば森下氏編著の『写真集 土方巽 肉体の舞踏誌』(勉誠出版、2014年)などで私もすでに知っていたものであったが、初めて見た資料もたくさん映し出されていた。どうやら森下氏(というか「土方巽アーカイヴ」)の昨年の関心は、上京後の「米山九日生(よねやまくにお)」が「土方巽」になる以前、あるいは「土方巽」になっていく過程、つまり、上京した彼はどこで何をしていたか、というところに集中していたようにも感じられてくる。『疱瘡譚』の連続上映会を、土方巽ゆかりの都内の各所で行ったあの興味深かった催しの狙いもまたそこにあったようにも感じられてくる。『疱瘡譚』の上映は私も阿佐ヶ谷まで見に行った。
さらにこの1年の間の物故者の紹介があり、天沢退二郎、棚谷文雄、竹村勝彦、ヨネヤマ・ママコ、小島政治、羽月雅人、篠山紀信など各氏についてそれぞれ触れられた。中でも、つい最近亡くなった篠山紀信氏に関わって、1978年のパリでの「間 MA」展に際して、ルーブル前の芝生広場で踊る芦川羊子氏を磯崎新氏、宮脇愛子氏、四谷シモン氏らと共に篠山氏が楽しんでいる姿をとらえた写真が映し出されて印象に残った。また、配布された資料には、つい先日亡くなった福住治夫氏の名もあった。さすが、と言うべきだろう。
これらが第一部で約一時間(順不同)。
同センターと同アーカイブではそうした活動の一環として、1月21日の土方巽の命日に「土方巽を語ること」という催しの開催を毎年ずっと継続してきた。第一回は2010年。今年(2024年)で13回目となった(コロナで開催を見送った年もあったようである)。毎回、土方巽にゆかりのあるゲストが招かれてきたこともあって、私もこの催しにずっと関心を持ってはきたが、YouTubeにアップされた記録映像を盗み見するにとどまり、実際の催しには参加したことがなかった。で、今回はじめて行ってみたのである。慶應義塾大学・三田校舎・東館6階。今回のゲストは詩人の吉増剛造氏。無料。
資料展示もある、というので、少し早めに会場に入ったが、すでに幾人かの舞踏の関係者がいて、緊張してしまった。玉野黄市氏・弘子氏ご夫妻、三浦一壮氏などなど。とはいえ、これらの人々を含めて私が直接知っている人はひとりふたり。ほとんどの方々は私が一方的にお顔とお名前を知っているだけのことである。だから、緊張するのはヘンなのだ。が、そうなってしまう私の性癖は如何ともしがたい。以前、いろいろお世話になったことのある志賀信夫氏にだけ簡単なご挨拶をした。
その後、壁に沿って置かれたテーブル上の各種の資料の展示をざっと見て、さて、と会場を見渡すと、記録映像撮影のためにいいところにカメラが据えられていたので、そのそばの椅子に座って会のはじまりを待った。
人々が続々と集まってくる。顔見知り同士であろう、互いに挨拶や雑談をしたりしていて賑やかだったが、そのうち、準備されていた椅子だけでは到底足りないことがわかってきて、椅子の補充が始まり、マイクで係が、すみません、全体で少しずつ前に移動しながらあいだを詰めていただけますか? などと、まるで70年代のあの唐十郎の「赤テント」で、こちらは肉声だったが、申し訳ありません、皆さん、あと10センチずつ前へ詰めてください、はい、ありがとうございます、えーと、あの、大変恐縮です、すみません皆さん、あともう5センチずつ前へお願いします、ありがとうございます、すみません、あと3センチ、、、2センチ、、、1センチ、、、もうあと気持ちだけでも、、、などと実に巧みに、いつの間にかぎゅうぎゅう詰めにされていって長蛇の列の全ての観客がテント内に収まり、結果、自分の膝がどこに行ったかもわからなくなるくらい観客同士が押し合いへし合い密着して、今か今か、とはじまりを待ち、はじまった、となれば夢中で拍手し、おう、唐十郎が登場した、おう、李麗仙が登場した、、、とその度に大拍手と掛け声、、、あ、違う。ここは慶應義塾大学・三田校舎。その証拠に、周辺の人々と密着するなんてことはなかった。なかったが、ともかく主催者が想定していた以上に催しが盛況であるのは大変に喜ばしいのである。
この間に吉増剛造氏が到着して(あ、違う。椅子の補充などは第一部終了後の休憩時間だった。吉増氏は、そんなザワザワした時に到着したのではなかったことを思い出したが、修正がめんどくさいのでこのまま進む)、なんと、会場の壁の一部がクルリと回転して“控えの部屋”に案内されていくのであった。吉増氏はそこで少しの時間打ち合わせをしていたようだったが、再び会場に戻り、壁際の一つの椅子に座ると、また“控えの部屋へと消えていく。これを二度三度繰り返して、やがて、その椅子でそっと自分の気配を消しているかのようにしていた。
開演時間になって、まずは第一部。森下隆氏から「土方巽アーカイヴ」の1年間の活動報告、というか、土方巽についての研究成果の報告がなされた。
日吉校での上杉満代氏による公演(=『命』)の報告が上杉氏のスピーチを交えてなされ、やがて玉野黄市氏・弘子氏ご夫妻が紹介されて、弘子夫人がマイクを持って、この前日まで1ヶ月半ほど屋久島に滞在していたこと、そこで感じたことを皮切りに、今回の「土方巽を語ること XⅢ」のチラシに用いられた黒田康雄氏の写真についてや、今後のことなどを語られた(お二人はこの次の日(1月22日)に現在居住なさっているカリフォルニア州バークレーに戻られたようである)。
その後、巨大なモニタに、秋田工業高校でラグビーをやっていた頃の土方巽(米山九日生=よねやまくにお)の写真や、空襲で焼け野原になった東京の写真、19歳で上京して住んだ「三の橋」の簡易宿泊所を思い出しながら当時からの友人が描いた絵、たびたび夜露に打たれていた当時の有栖川公園の写真、下谷万年町の写真などを次々に映し出しながら、森下氏が説明を加えていく。「ユニークバレエ団」時代の土方巽が浜村美智子のショーダンサーをしていた時の集合写真なども出てきたが、それらのいくつかは、たとえば森下氏編著の『写真集 土方巽 肉体の舞踏誌』(勉誠出版、2014年)などで私もすでに知っていたものであったが、初めて見た資料もたくさん映し出されていた。どうやら森下氏(というか「土方巽アーカイヴ」)の昨年の関心は、上京後の「米山九日生(よねやまくにお)」が「土方巽」になる以前、あるいは「土方巽」になっていく過程、つまり、上京した彼はどこで何をしていたか、というところに集中していたようにも感じられてくる。『疱瘡譚』の連続上映会を、土方巽ゆかりの都内の各所で行ったあの興味深かった催しの狙いもまたそこにあったようにも感じられてくる。『疱瘡譚』の上映は私も阿佐ヶ谷まで見に行った。
さらにこの1年の間の物故者の紹介があり、天沢退二郎、棚谷文雄、竹村勝彦、ヨネヤマ・ママコ、小島政治、羽月雅人、篠山紀信など各氏についてそれぞれ触れられた。中でも、つい最近亡くなった篠山紀信氏に関わって、1978年のパリでの「間 MA」展に際して、ルーブル前の芝生広場で踊る芦川羊子氏を磯崎新氏、宮脇愛子氏、四谷シモン氏らと共に篠山氏が楽しんでいる姿をとらえた写真が映し出されて印象に残った。また、配布された資料には、つい先日亡くなった福住治夫氏の名もあった。さすが、と言うべきだろう。
これらが第一部で約一時間(順不同)。
「みちのく いとしい仏たち」展を見た
2024-01-22
この展覧会のポスターやチラシのインパクトは、かなりのものだ。私も、これ、行ってみよ、と思わされてしまった。が、例によって、つい繰り延べにしてきた。会期はまだ残っているとはいえ、このままではあっという間に終わってしまう。で、頑張ったのだ。1月18日(木)午前に訪れてみた。東京ステーションギャラリー。
面白かったが、予期せぬ複雑な気持ちを抱えこむことになった。モヤモヤする。
そのポスターやチラシの中央には、確かに信じがたい形状の木彫の像を正面から捉えた写真が白地の紙にそこだけカラー印刷されている。
さらに、用紙の右上のヘリに添うようにして、ほぼ“曲尺”状に、黒の角ゴチック体で「みちのく いとしい仏たち」と展覧会タイトルを配している。しかもご丁寧に、「いとしい」の中のふたつの「い」の字は、ふつうにそのまま「い」の字の角ゴチック体を用いず、「し」の字をやや縦長にし、これと「つ」の字を立てた形状とを組み合わせて作った(らしき)「い」の字の“新書体”を用いて、「いとしい」ということを増幅させている。
さて最初のモヤモヤである。
それは、このカラー印刷された「いとしい」像は、実は「いとしい仏」の像ではなく「山神」の像だった、と展示を見てから知ることになった、ということであった。
確かにチラシの裏面には、この像の斜め上から撮った小さな写真図版について、「《山神像》」との極小のフォントでの記載がある。とは言え、この展覧会のタイトルは、「みちのく いとしい神仏たち」とでもしておくべきではなかったか? と私は思ったのだった。こうして、自らの不勉強を尻目に、モヤモヤが始まってしまったのである。
やがて、展覧会タイトルに「The Beloved Gods and Buddhas of Northeastern Japan」との英文表記が小さく必ず添えられていることに気がついて、これは一体どゆこと? と私はさらにモヤモヤしたのであった。(私のようなモヤモヤ爺さんからのしつこい“クレーム”を封じるためのアリバイ作り?)
それはそれとして、呆れる形状の「山神」の像である。作品番号は10。江戸時代。岩手県八幡平市=兄川山神社所蔵。一木造。高さ78cm。
会場では、この「山神」の像の現物とまみえるまでの間、参考図を含めて複数の「神像」や「仏像」と遭遇する構成になっている。そうした構成の根拠を、図録ではこう説明している。
・古代中世の日本で神に対する信仰と仏教への帰依が両立していたことはよく知られ、神仏習合、本地垂迹といった概念で説明される。
・(東北地方の場合)ホトケとカミどちらが優先したかではなく、聖なる場所にまつられるものは等しくありがたい存在で、場に宿る霊性の顕れと認識していた。
・(その例として)十世紀末の青森市の新田遺跡の出土品は当時の信仰状況をフリーズした感があり、仏像とも神像とも断定し難い像と一緒に仏像の手や火焔後背の断片、檜扇さらに多数の斎串が出土していて、習合どころでない様子がうかがえる。
ゆえに展示冒頭に「ホトケとカミ」というセクションを設けていた、というわけだ。こうした事情が「みちのく」では江戸時代、明治時代まで続いた、と。なるほど、、、。
面白かったが、予期せぬ複雑な気持ちを抱えこむことになった。モヤモヤする。
そのポスターやチラシの中央には、確かに信じがたい形状の木彫の像を正面から捉えた写真が白地の紙にそこだけカラー印刷されている。
さらに、用紙の右上のヘリに添うようにして、ほぼ“曲尺”状に、黒の角ゴチック体で「みちのく いとしい仏たち」と展覧会タイトルを配している。しかもご丁寧に、「いとしい」の中のふたつの「い」の字は、ふつうにそのまま「い」の字の角ゴチック体を用いず、「し」の字をやや縦長にし、これと「つ」の字を立てた形状とを組み合わせて作った(らしき)「い」の字の“新書体”を用いて、「いとしい」ということを増幅させている。
さて最初のモヤモヤである。
それは、このカラー印刷された「いとしい」像は、実は「いとしい仏」の像ではなく「山神」の像だった、と展示を見てから知ることになった、ということであった。
確かにチラシの裏面には、この像の斜め上から撮った小さな写真図版について、「《山神像》」との極小のフォントでの記載がある。とは言え、この展覧会のタイトルは、「みちのく いとしい神仏たち」とでもしておくべきではなかったか? と私は思ったのだった。こうして、自らの不勉強を尻目に、モヤモヤが始まってしまったのである。
やがて、展覧会タイトルに「The Beloved Gods and Buddhas of Northeastern Japan」との英文表記が小さく必ず添えられていることに気がついて、これは一体どゆこと? と私はさらにモヤモヤしたのであった。(私のようなモヤモヤ爺さんからのしつこい“クレーム”を封じるためのアリバイ作り?)
それはそれとして、呆れる形状の「山神」の像である。作品番号は10。江戸時代。岩手県八幡平市=兄川山神社所蔵。一木造。高さ78cm。
会場では、この「山神」の像の現物とまみえるまでの間、参考図を含めて複数の「神像」や「仏像」と遭遇する構成になっている。そうした構成の根拠を、図録ではこう説明している。
・古代中世の日本で神に対する信仰と仏教への帰依が両立していたことはよく知られ、神仏習合、本地垂迹といった概念で説明される。
・(東北地方の場合)ホトケとカミどちらが優先したかではなく、聖なる場所にまつられるものは等しくありがたい存在で、場に宿る霊性の顕れと認識していた。
・(その例として)十世紀末の青森市の新田遺跡の出土品は当時の信仰状況をフリーズした感があり、仏像とも神像とも断定し難い像と一緒に仏像の手や火焔後背の断片、檜扇さらに多数の斎串が出土していて、習合どころでない様子がうかがえる。
ゆえに展示冒頭に「ホトケとカミ」というセクションを設けていた、というわけだ。こうした事情が「みちのく」では江戸時代、明治時代まで続いた、と。なるほど、、、。
「アトリエ・トリゴヤ」と「ナミイタ」のことなど、
2024-01-09
「町田市三輪2036」は、知る人ぞ知るあの「アトリエ・トリゴヤ」の所在地である。
小田急線・鶴川の駅から鶴見川に沿って歩き、車の行き来が多い通り(調べるのが面倒で、通りの名前がわからない)に行き当たったら右折、どんどん坂を登っていくと、やがて右に神社、そしてさらに坂を上り詰めたあたりの左側に道があるのでそこを左折し、右側を注視しながら少し進めば、下方に異様な佇まいの“建物群”が目に飛び込んでくる。それが、1982年に、多摩美大大学院を終えたばかりの若者たちによって創設された「アトリエ・トリゴヤ」だ。
“建物群”と書いたが、正確に書けば(打ち込めば)向かって左側の奥に伸びる一棟と、その左側奥の一棟とが「アトリエ・トリゴヤ」である。他の”建物”は、「アトリエ・トリゴヤ」のメンバーとは別の人達が、別の用途・別の目的で使っている。
「アトリエ・トリゴヤ」という名前から分かるように、もともとここは鶏小屋=養鶏場だった。想像するに、廃業したこの養鶏場を見つけた若き美術家たちが、俺たちのこれからの仕事場はこういうとこがいいんでないかい、と(北海道弁の人がいたかどうかは知らないが)ともかく家主と交渉して、めでたく入居できたのだろう。創立メンバーは、彫刻専攻だった者が三人、絵画専攻だった者が三人だったという。ともかく、彼らにとっては、雨露を凌ぐことができて自由に使える広いスペース、これを確保することが何よりも大事だったのである。
以来、40年以上の間、多少のメンバーの入れ替わりはありながらも、このスペースは彼らの制作の場として、道具や素材や作品保管の場として使われてきた。創設当時からのコアなメンバーは今も健在で変わらないのだが、近ごろはここに若い人たちが加わって、この共同アトリエの雰囲気にも若干の変化が生じてきていた。
加えて、創設時からのメンバーの一人(=大村益三氏)のスペースを、一人の若い男性作家が、ここをギャラリーにする、と言って、せっせと片付け始めたのである(もちろん大村氏の了解、協力を得てのことであろう)。さらに、実に楽しそうに床や壁などに手を入れて(コアなメンバーの一人=吉川陽一郎氏の手助けも得ながら)展示スペースとするべく少しずつ整えていったのである。やがて、そのスペースは「ナミイタ=Nami Ita」と名付けられた。
この「ナミイタ=Nami Ita」の主宰は東間嶺氏。元々は絵画を専攻していたというが、今は写真を撮り、巧みな文章を書く。最近では話題の展覧会のレビューの仕事にも取り組んでいるので、ご存知の方も多いのではないかと思う。東間氏も多摩美出身なので、多摩美で講師だった「トリゴヤ」メンバーの大村益三氏や吉川陽一郎氏、池谷肇氏のある意味では“教え子”である、とも言える。「ナミイタ=Nami Ita」の名は、もちろんこの”建物”の”表皮”であるトタンの“波板”に由来するだろう。
小田急線・鶴川の駅から鶴見川に沿って歩き、車の行き来が多い通り(調べるのが面倒で、通りの名前がわからない)に行き当たったら右折、どんどん坂を登っていくと、やがて右に神社、そしてさらに坂を上り詰めたあたりの左側に道があるのでそこを左折し、右側を注視しながら少し進めば、下方に異様な佇まいの“建物群”が目に飛び込んでくる。それが、1982年に、多摩美大大学院を終えたばかりの若者たちによって創設された「アトリエ・トリゴヤ」だ。
“建物群”と書いたが、正確に書けば(打ち込めば)向かって左側の奥に伸びる一棟と、その左側奥の一棟とが「アトリエ・トリゴヤ」である。他の”建物”は、「アトリエ・トリゴヤ」のメンバーとは別の人達が、別の用途・別の目的で使っている。
「アトリエ・トリゴヤ」という名前から分かるように、もともとここは鶏小屋=養鶏場だった。想像するに、廃業したこの養鶏場を見つけた若き美術家たちが、俺たちのこれからの仕事場はこういうとこがいいんでないかい、と(北海道弁の人がいたかどうかは知らないが)ともかく家主と交渉して、めでたく入居できたのだろう。創立メンバーは、彫刻専攻だった者が三人、絵画専攻だった者が三人だったという。ともかく、彼らにとっては、雨露を凌ぐことができて自由に使える広いスペース、これを確保することが何よりも大事だったのである。
以来、40年以上の間、多少のメンバーの入れ替わりはありながらも、このスペースは彼らの制作の場として、道具や素材や作品保管の場として使われてきた。創設当時からのコアなメンバーは今も健在で変わらないのだが、近ごろはここに若い人たちが加わって、この共同アトリエの雰囲気にも若干の変化が生じてきていた。
加えて、創設時からのメンバーの一人(=大村益三氏)のスペースを、一人の若い男性作家が、ここをギャラリーにする、と言って、せっせと片付け始めたのである(もちろん大村氏の了解、協力を得てのことであろう)。さらに、実に楽しそうに床や壁などに手を入れて(コアなメンバーの一人=吉川陽一郎氏の手助けも得ながら)展示スペースとするべく少しずつ整えていったのである。やがて、そのスペースは「ナミイタ=Nami Ita」と名付けられた。
この「ナミイタ=Nami Ita」の主宰は東間嶺氏。元々は絵画を専攻していたというが、今は写真を撮り、巧みな文章を書く。最近では話題の展覧会のレビューの仕事にも取り組んでいるので、ご存知の方も多いのではないかと思う。東間氏も多摩美出身なので、多摩美で講師だった「トリゴヤ」メンバーの大村益三氏や吉川陽一郎氏、池谷肇氏のある意味では“教え子”である、とも言える。「ナミイタ=Nami Ita」の名は、もちろんこの”建物”の”表皮”であるトタンの“波板”に由来するだろう。