立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
横浜でのこと・補遺 その2
2019-03-28
で、買って帰ってきた二冊の本である。
一冊は金井直氏が愛知芸大ギャラリーで企画した白川昌生氏との2人展=「彫刻の問題」展の時に小田原氏によって作られた『彫刻の問題』である。著者はこの3人。(購入した本は透明なプラスチック袋に入っていたのに、開封して本を開くと二箇所のぺージになぜかそれぞれ、ブルーの付箋が縦横に一枚ずつ貼られていてこれも作品か? と思わせられたが、気にせず剥がしてしまった。どのページだったかメモしておけば良かった。)
小田原氏はまず、長崎の平和公園が「戦後日本における平和とは何か」「人間にとって彫刻とは何か」と問いかけている展覧会場のように見える、と言うのだ。そして、圧倒的に裸婦像が多い「平和」という名の公共彫刻の由来を問い、「彫刻」について問う。日本の「彫刻」を起源=工部美術学校彫刻学科の創設まで遡って探り、公共彫刻=モニュメントについて探る。そして、長崎の「平和公園の原爆落下中心地モニュメント」をめぐる問題を追跡する。その過程で得た「恥」の感情を吐露し、こう書くのだ。
‥‥(略)健民彫塑展示会、大東亜戦下彫刻展、日本帝国軍が植民地としたアジア諸国に強化のために置かれた二宮尊徳像の大量生産など、彫刻が関与した動向のすべてに、私は与しているという自覚がある。なぜなら、敗戦後、何の反省もしなかった彫刻家と彫刻教育機関が現在に至る連続性の中で、私は彫刻に興味を抱き、彫刻をつくるための教育を受けることを自ら望んだのだから。
厳しい認識である。そして、こう続いていく。
私は想像する。この国の体制が再び転換する日を。それは、かつて軍人の銅像が一斉に消えたように、平和の彫刻=女性裸体像が突如として取り去られ、あるいは引きずり倒される日だ。それらが引き倒されたときはじめて、公共空間の平和の裸婦像が戦後民主主義のレーニン像であったことがわかるだろう。
うーん‥‥、唸る。
もう一冊の『彫刻1』も、同じ問題意識で貫かれている。小田原氏の二人の師(小谷元彦氏、青木野枝氏)へのインタビューも加え、多くの専門家・研究者の論考、座談でより精緻に構成されている。驚くべきは、これを自ら編集構成し、造本し、さらに発行していることである。ただ事ではない。しかも、英文併記なのだ。海外を射程におさめている。
まだ全てを読むに至っていないが、青木野枝氏の発言が素晴らしい。重い鉄をまるで紙工作みたいに軽やかに扱う人だ。近年はさらに展開してスリリングでさえある。なるほど、こういう人だからどんどんぐんぐん展開できる。青木氏からこうした話を引き出せる小田原氏も素晴らしい。他もこの後のお楽しみ。
この『彫刻』は今後も刊行され続けるらしい。すごい! 皆さんも読まれるとよい。ぜひ。
そんなわけで、メモしておこうと思ったのである。
2019年3月25日 東京にて
Bank ART
http://www.bankart1929.com/index.html
一冊は金井直氏が愛知芸大ギャラリーで企画した白川昌生氏との2人展=「彫刻の問題」展の時に小田原氏によって作られた『彫刻の問題』である。著者はこの3人。(購入した本は透明なプラスチック袋に入っていたのに、開封して本を開くと二箇所のぺージになぜかそれぞれ、ブルーの付箋が縦横に一枚ずつ貼られていてこれも作品か? と思わせられたが、気にせず剥がしてしまった。どのページだったかメモしておけば良かった。)
小田原氏はまず、長崎の平和公園が「戦後日本における平和とは何か」「人間にとって彫刻とは何か」と問いかけている展覧会場のように見える、と言うのだ。そして、圧倒的に裸婦像が多い「平和」という名の公共彫刻の由来を問い、「彫刻」について問う。日本の「彫刻」を起源=工部美術学校彫刻学科の創設まで遡って探り、公共彫刻=モニュメントについて探る。そして、長崎の「平和公園の原爆落下中心地モニュメント」をめぐる問題を追跡する。その過程で得た「恥」の感情を吐露し、こう書くのだ。
‥‥(略)健民彫塑展示会、大東亜戦下彫刻展、日本帝国軍が植民地としたアジア諸国に強化のために置かれた二宮尊徳像の大量生産など、彫刻が関与した動向のすべてに、私は与しているという自覚がある。なぜなら、敗戦後、何の反省もしなかった彫刻家と彫刻教育機関が現在に至る連続性の中で、私は彫刻に興味を抱き、彫刻をつくるための教育を受けることを自ら望んだのだから。
厳しい認識である。そして、こう続いていく。
私は想像する。この国の体制が再び転換する日を。それは、かつて軍人の銅像が一斉に消えたように、平和の彫刻=女性裸体像が突如として取り去られ、あるいは引きずり倒される日だ。それらが引き倒されたときはじめて、公共空間の平和の裸婦像が戦後民主主義のレーニン像であったことがわかるだろう。
うーん‥‥、唸る。
もう一冊の『彫刻1』も、同じ問題意識で貫かれている。小田原氏の二人の師(小谷元彦氏、青木野枝氏)へのインタビューも加え、多くの専門家・研究者の論考、座談でより精緻に構成されている。驚くべきは、これを自ら編集構成し、造本し、さらに発行していることである。ただ事ではない。しかも、英文併記なのだ。海外を射程におさめている。
まだ全てを読むに至っていないが、青木野枝氏の発言が素晴らしい。重い鉄をまるで紙工作みたいに軽やかに扱う人だ。近年はさらに展開してスリリングでさえある。なるほど、こういう人だからどんどんぐんぐん展開できる。青木氏からこうした話を引き出せる小田原氏も素晴らしい。他もこの後のお楽しみ。
この『彫刻』は今後も刊行され続けるらしい。すごい! 皆さんも読まれるとよい。ぜひ。
そんなわけで、メモしておこうと思ったのである。
2019年3月25日 東京にて
Bank ART
http://www.bankart1929.com/index.html
横浜でのこと・補遺 その1
2019-03-28
横浜のBankART Station+R16 Studioのグループ展「雨ニモ負ケズ」で小田原のどか作品を見たことはすでに書いた。その時、会場で『彫刻の問題』と『彫刻1』(いずれもトポフィル刊)など出品者の関連書籍を販売していた。ビンボーじいさんには痛い出費だったが、作品を実見したあと、思い切ってこの二冊を買った。それを読み始めたところである。
小田原のどか、という若い彫刻家のことをどう知ったか、忘れてしまった。きっと、“ネットサーフィン”によってであろう。長崎の「原子爆弾中心地」に1946年から48年まで立てられていたという矢羽の形状の標柱を手がかりにした作品などを制作しているだけでなく、論文を書き、仲間と出版も行なっている、というので俄然興味を持った。しかし、作品を見たことがなかった。BankARTでの「雨ニモ負ケズ SINGING IN THE RAIN」展の情報も“ネットサーフィン”で得た。
BankARTが市営地下鉄線・高島駅すぐの場所に引っ越してから、今回初めて訪れたのだが、station会場の「雨ニモ負ケズ」展は7名の出品。
受付のすぐ奥に、松本秋則氏。竹で作られた模型飛行機のような羽ばたき鳥のような無数の形状がモビール状に下げられて動きながらカラン・コロン・ポカン・ペコンと音を発していた。松本氏の作品は昔、神田・真木画廊などでたびたび見たので懐かしかった。音は西原尚氏の作品の鉄板からもポヨーン・ペヨーンと発せられていて、音が会場を“支配”していた。村田峰紀氏のボールペンを強い筆圧で合板に押し付けて線を引いた作品と本に刃物で穴を抉った作品。開発好明氏の蛍光灯を並べて“書いた”「雨」の字と発泡スチロール製パッキング材による雲らしき作品と福島に設置されていると聞く「政治家の家」の写真。山下拓也氏の人の背丈ほどの多数のヘナヘナ“キャラクター”による作品。(別会場に高橋啓祐氏の映像作品。)
これらが並ぶ向こうの壁のぽっかり開いたところのさらに向こうの暗い広がりの中に小田原のどか氏のネオンによる作品「↓(2019)」は赤い光を発していた。ネオンは、長崎の「原子爆弾中心地」にあったという標柱を引用した形状を線で示している、という“予備知識”がなければ、矢羽という形状さえ思い浮かばなかっただろう。私は、幸か不幸か、すでにその知識を得ていたので、ああ、こういうものだったのか、という確認をしている印象になった。ちょっとしたことで壊れてしまいそう、という印象を得たのは、ネオン管同士がわずかに離れざるを得ず(というか、わざと離れるようにした?)光の線が接合すべきところにわずかな隙間を見て取ってしまうからであろう。下が細く上が広がっている「図」の形状もまた不安定で壊れやすそうな印象を作り出しているように見えた。ネオンの赤い光は、天井部や天井部にある構造物に反射してそこにも不定形の赤い広がりを作り、周囲の柱や壁、床にもわずかな赤い色を呼び起こしていたから、床面の広がりやその位置を感じ取ることができる。その床の上で、ネオン管は床から少し離れて、ということはわずかに浮き上がってそこにあるように見える。いかにも壊れてしまいそうで、地に足がついていない、そういう効果を得たくてネオン管を用いているのだろう。なぜなら、標柱は今や不在なのだ。赤い色を選んでいるのは、原爆爆発時の熱? 血? 様々なことを想起させる。暗い広がりの中のかなり離れたところに設置された『↓(2019)』である。中には入って行くことができない。覗き込んだ開口部の壁には、この作品の形状の引用元=長崎の原爆の爆心地の標柱が写り込んだ写真図版が二種類、それぞれ大きく拡大されて展示されており、テーブル上には観客が一冊ずつ持ち帰ってよい小さな冊子がおかれていたので、遠慮なくいただいてきた。ということは、この総体が作品だ、ということになろう。冊子を読むとじつに丁寧に作られていた。
小田原のどか、という若い彫刻家のことをどう知ったか、忘れてしまった。きっと、“ネットサーフィン”によってであろう。長崎の「原子爆弾中心地」に1946年から48年まで立てられていたという矢羽の形状の標柱を手がかりにした作品などを制作しているだけでなく、論文を書き、仲間と出版も行なっている、というので俄然興味を持った。しかし、作品を見たことがなかった。BankARTでの「雨ニモ負ケズ SINGING IN THE RAIN」展の情報も“ネットサーフィン”で得た。
BankARTが市営地下鉄線・高島駅すぐの場所に引っ越してから、今回初めて訪れたのだが、station会場の「雨ニモ負ケズ」展は7名の出品。
受付のすぐ奥に、松本秋則氏。竹で作られた模型飛行機のような羽ばたき鳥のような無数の形状がモビール状に下げられて動きながらカラン・コロン・ポカン・ペコンと音を発していた。松本氏の作品は昔、神田・真木画廊などでたびたび見たので懐かしかった。音は西原尚氏の作品の鉄板からもポヨーン・ペヨーンと発せられていて、音が会場を“支配”していた。村田峰紀氏のボールペンを強い筆圧で合板に押し付けて線を引いた作品と本に刃物で穴を抉った作品。開発好明氏の蛍光灯を並べて“書いた”「雨」の字と発泡スチロール製パッキング材による雲らしき作品と福島に設置されていると聞く「政治家の家」の写真。山下拓也氏の人の背丈ほどの多数のヘナヘナ“キャラクター”による作品。(別会場に高橋啓祐氏の映像作品。)
これらが並ぶ向こうの壁のぽっかり開いたところのさらに向こうの暗い広がりの中に小田原のどか氏のネオンによる作品「↓(2019)」は赤い光を発していた。ネオンは、長崎の「原子爆弾中心地」にあったという標柱を引用した形状を線で示している、という“予備知識”がなければ、矢羽という形状さえ思い浮かばなかっただろう。私は、幸か不幸か、すでにその知識を得ていたので、ああ、こういうものだったのか、という確認をしている印象になった。ちょっとしたことで壊れてしまいそう、という印象を得たのは、ネオン管同士がわずかに離れざるを得ず(というか、わざと離れるようにした?)光の線が接合すべきところにわずかな隙間を見て取ってしまうからであろう。下が細く上が広がっている「図」の形状もまた不安定で壊れやすそうな印象を作り出しているように見えた。ネオンの赤い光は、天井部や天井部にある構造物に反射してそこにも不定形の赤い広がりを作り、周囲の柱や壁、床にもわずかな赤い色を呼び起こしていたから、床面の広がりやその位置を感じ取ることができる。その床の上で、ネオン管は床から少し離れて、ということはわずかに浮き上がってそこにあるように見える。いかにも壊れてしまいそうで、地に足がついていない、そういう効果を得たくてネオン管を用いているのだろう。なぜなら、標柱は今や不在なのだ。赤い色を選んでいるのは、原爆爆発時の熱? 血? 様々なことを想起させる。暗い広がりの中のかなり離れたところに設置された『↓(2019)』である。中には入って行くことができない。覗き込んだ開口部の壁には、この作品の形状の引用元=長崎の原爆の爆心地の標柱が写り込んだ写真図版が二種類、それぞれ大きく拡大されて展示されており、テーブル上には観客が一冊ずつ持ち帰ってよい小さな冊子がおかれていたので、遠慮なくいただいてきた。ということは、この総体が作品だ、ということになろう。冊子を読むとじつに丁寧に作られていた。
横浜を歩いた日 その2
2019-03-22
かまぼこ板を彫って作った何種類かの版に墨を塗って和紙に押し当てて絵を構成していくことや、絵に文字を書き込むことや、リトグラフなどにも取り組みはじめて、戦後の制作のピークが訪れていく。構成、といっても数種のハンコによる基本形態が向きを変えながら並んでそれら相互が関係づくわけで、あっけらかんとしたとぼけた味わいを醸し出している。版への関心は、すでに戦前の油絵の作品に布のメッシュや軍手を押し当てたりしていることから、早い時期から芽生え、それが継続していたことがうかがえる。また、拓本の技法を用いて木目を構成的に配していく取り組みも自然な展開に見えて、唐突感はない。その木目は木造の古い漁船を一隻購入してそのあちこちから“採集”したものという。長谷川はお金持ちなのだ。
東京帝大で美術史を学んで卒業後、すぐ、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、スペインに遊学し、ではいよいよ、とパリ・モンパルナスにアトリエを構えた矢先、父親が亡くなって帰国、という経歴の持ち主である。英語が堪能で、欧米の諸事情に通じていた。
帰国後の活躍は多岐に渡る。戦争中は疎開先の長浜市で、農事のかたわら、俳句や禅、茶道に専念し、老子を書写していたらしい。土地の青年団のために蔵書を公開したりもしていたという。
戦後は、米軍の通訳もしたが、制作や展覧会活動、執筆など啓蒙活動にも意欲的にあたり、帰国したイサム・ノグチと出会うことになる。その後、活動はピークを迎え、その舞台はアメリカに広がっていく。先のフォトグラムなどもこの時期のものである。1954年に渡米、次の年1月に一旦帰国後9月に再渡米、本格的に移住の態勢を整えるも、1956年11月上顎癌発症、手術。1957年3月死亡。そんなわけで、日本でよりアメリカでよく知られた人である。今回の展覧会もアメリカの大学教授とキュレーターから持ちかけられて実現したものという。
私は不覚にして長谷川のことをほとんど何も知らなかった。通観して、なるほど、こういう人だったのか、という思いであった。そして、もっと知りたい気持ちがつのっている。(あ、イサム・ノグチのことに全然触れていないけど、いつか別の機会に。)
東京帝大で美術史を学んで卒業後、すぐ、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、スペインに遊学し、ではいよいよ、とパリ・モンパルナスにアトリエを構えた矢先、父親が亡くなって帰国、という経歴の持ち主である。英語が堪能で、欧米の諸事情に通じていた。
帰国後の活躍は多岐に渡る。戦争中は疎開先の長浜市で、農事のかたわら、俳句や禅、茶道に専念し、老子を書写していたらしい。土地の青年団のために蔵書を公開したりもしていたという。
戦後は、米軍の通訳もしたが、制作や展覧会活動、執筆など啓蒙活動にも意欲的にあたり、帰国したイサム・ノグチと出会うことになる。その後、活動はピークを迎え、その舞台はアメリカに広がっていく。先のフォトグラムなどもこの時期のものである。1954年に渡米、次の年1月に一旦帰国後9月に再渡米、本格的に移住の態勢を整えるも、1956年11月上顎癌発症、手術。1957年3月死亡。そんなわけで、日本でよりアメリカでよく知られた人である。今回の展覧会もアメリカの大学教授とキュレーターから持ちかけられて実現したものという。
私は不覚にして長谷川のことをほとんど何も知らなかった。通観して、なるほど、こういう人だったのか、という思いであった。そして、もっと知りたい気持ちがつのっている。(あ、イサム・ノグチのことに全然触れていないけど、いつか別の機会に。)
横浜を歩いた日 その1
2019-03-22
花粉症なのでこの季節は出歩くのが億劫になるが、以前の雨の木曜日、休館日で大失敗した横浜美術館へともう一度向かった。コリもしないで。
数日前、「イサム・ノグチと長谷川三郎/変わるものと変わらざるもの」展はまだやっているよ! と教えてくれた人がいたのだ。ありがたいことである。
天気の良い暖かな水曜日。こんど横浜美術館は開いていた。展覧会も確かにまだやっていた。
長谷川三郎の作品をまとめて見たことがなかった。イサム・ノグチと仲良しだったことも知らなかった。「墨美」との関係は知っていたけど。
会場第一室に戦前の長谷川の作品を配して、そのあとは緩やかに時系列に添いながら展示が進んでゆく。戦後の1950年、イサム・ノグチの19年ぶりの来日を機に二人の交流が始まったことを示しつつ、次第にイサム・ノグチの展示に転じていく。巧みな構成である。
キャプションには、展示されている長谷川三郎の多くの作品が甲南学園という学校法人が所蔵していることが示されていた。これも知らなかった。
甲南学園は大正時代から続く関西の学校法人で大学・高校・中学がある(らしい)。「甲南学園長谷川三郎記念ギャラリー」は芦屋の甲南学園高等学校・中学校に1978年から併設されていて、250点以上の作品を所蔵している(らしい)。なぜ甲南学園?
それはね、長谷川三郎は中学、高校を甲南学園で学んでから東京帝大に進んだんだよ。いわゆる「母校」なの。その「母校」が大事にしてくれるような作家、というわけ。
数日前、「イサム・ノグチと長谷川三郎/変わるものと変わらざるもの」展はまだやっているよ! と教えてくれた人がいたのだ。ありがたいことである。
天気の良い暖かな水曜日。こんど横浜美術館は開いていた。展覧会も確かにまだやっていた。
長谷川三郎の作品をまとめて見たことがなかった。イサム・ノグチと仲良しだったことも知らなかった。「墨美」との関係は知っていたけど。
会場第一室に戦前の長谷川の作品を配して、そのあとは緩やかに時系列に添いながら展示が進んでゆく。戦後の1950年、イサム・ノグチの19年ぶりの来日を機に二人の交流が始まったことを示しつつ、次第にイサム・ノグチの展示に転じていく。巧みな構成である。
キャプションには、展示されている長谷川三郎の多くの作品が甲南学園という学校法人が所蔵していることが示されていた。これも知らなかった。
甲南学園は大正時代から続く関西の学校法人で大学・高校・中学がある(らしい)。「甲南学園長谷川三郎記念ギャラリー」は芦屋の甲南学園高等学校・中学校に1978年から併設されていて、250点以上の作品を所蔵している(らしい)。なぜ甲南学園?
それはね、長谷川三郎は中学、高校を甲南学園で学んでから東京帝大に進んだんだよ。いわゆる「母校」なの。その「母校」が大事にしてくれるような作家、というわけ。