立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
「神田日勝展」、開くのが ああ待ち遠しい その2
2020-05-25
≪赤い室内≫神田一明 図録『十勝の美術クロニクル』より
私は、その図版から、例えば中谷泰(1909〜1993)の当時の絵の“テイスト”を想起させられる。どういうところがそう感じさせるか? いかにも大雑把だが、概ね次のように整理できるだろう。
❶生活や労働の厳しさといった当時の社会が抱える問題と人間のたくましさとを同時に直截に感じさせるような題材、道具立て、その組み立て、それらのあり方が共通して見える。
❷モノクローム的な同系色の色相の広がり、そこへのアクセント的な差し色、そのような色彩の扱いが共通して見える。
❸陰影描写が排除されている描法が共通して見える。
❹逆遠近法とでもいうか、手前と奥とが同じ、あるいは奥の方が長い寸法で描かれ、上から見下ろしているような視点と横からの視点とが交錯するような“平面化”や“デフォルメ”がなされている、そういう形状の扱いが共通して見える。
❺筆ではなく、ペインティングナイフが用いられ、ナイフによる塗りやその扱い、塗りのリズムのあらわれが共通して見える。
など。
これら造形的特徴の共通項は、ひとり中谷泰とのあいだに限って指摘できるのではない。曺良奎(チョヤンギュ)や田中阿喜良など、当時大いに活躍した人たちにも多くの作例を示すことが可能だろう。
戦後の混乱期を経て、後半は経済が“高度成長”になりつつあったとはいえ、50年代もまた激動の時代だった。朝鮮戦争、基地問題、共産党分裂、自民党結成、スターリン批判、労働争議、安保条約、‥‥、など、多くの問題がひしめき、政治運動、文化運動、労働運動、学生運動などが複雑な様相を呈していた。美術の分野でも様々な動きがあったし、アンフォルメルやネオダダなどの新しい動向が“襲来”し、テレビ、映画、雑誌など大衆消費文化が隆盛してきている。が、ここではそれらの確認はしない。一明さんの作品写真図版から私が想起させられた中谷泰も曺良奎も田中阿喜良も、こうした50年代の入り組んだ状況の中で自らのスジを見出し、それに従って制作発表していたことが確認できればよい。彼らの作品は、その様式のある種の親しみやすさゆえか、学生たちを中心に一定の影響力があった(はずだ)。
一明さんが学んでいた1953年から1960年の東京芸大のことも見ておく必要があろう。当時を彷彿とさせる興味深い文章を見つけたので引いておきたい。図録『かたちびと 島田章三展』(1999年、三重県立美術館・笠間日動美術館・平塚市美術館)に収録されている福田徳樹『同時代的回想』からの抜き書き。
*
「私(*註:福田)は島田(*註:島田章三)と同期生で昭和33年(1958)東京芸術大学美術学部を卒業した。彼は油画科、私は芸術学科だがわずかに学部全体で182名という少人数。都心の上野の構内ながら300年の大木ののこる、落ち葉をふみしめられる母校‥(略)‥」
「油画科の幾人かの同期生から折にふれ、一つ上や一つ下の学年はとてもよくまとまっていたが私達は全くばらばらと聞いたものである。名簿を開き同期(43名)の中から誰かをおとしては危険な記述となるのを承知で、順不同のうちに私の知るだけの方の名をあげてみる。まず前衛的な仕事に向った磯辺行久、伊藤隆康、工藤哲巳、中西夏之、高松次郎らに対し、最具象の橋下博英、中村清治などが両極をなし、かりに中間派としておくが島田(*註:島田章三)をはじめ、井上悟、江村正光、林敬二さらに坂本文男、堀内袈裟雄、また今井治夫、歌田眞介、鶴岡弘康、野間伝治、佐藤章太郎、吉野順夫‥‥。そして女友達。卒業後いち早くパルコのデザイナーとして一世を風靡した山口はるみ、島田夫人(田中)鮎子、東(神田)賀津絵、岩本和子、山領(米原)明美、小紋(針生)章子、藤田(塚谷)淳子、他、他。この昭和33年組が画然と新旧の接点をなし、公平なところ時代の推移を象徴する稀な星たちを輩出したということはできるだろう。」
私は、その図版から、例えば中谷泰(1909〜1993)の当時の絵の“テイスト”を想起させられる。どういうところがそう感じさせるか? いかにも大雑把だが、概ね次のように整理できるだろう。
❶生活や労働の厳しさといった当時の社会が抱える問題と人間のたくましさとを同時に直截に感じさせるような題材、道具立て、その組み立て、それらのあり方が共通して見える。
❷モノクローム的な同系色の色相の広がり、そこへのアクセント的な差し色、そのような色彩の扱いが共通して見える。
❸陰影描写が排除されている描法が共通して見える。
❹逆遠近法とでもいうか、手前と奥とが同じ、あるいは奥の方が長い寸法で描かれ、上から見下ろしているような視点と横からの視点とが交錯するような“平面化”や“デフォルメ”がなされている、そういう形状の扱いが共通して見える。
❺筆ではなく、ペインティングナイフが用いられ、ナイフによる塗りやその扱い、塗りのリズムのあらわれが共通して見える。
など。
これら造形的特徴の共通項は、ひとり中谷泰とのあいだに限って指摘できるのではない。曺良奎(チョヤンギュ)や田中阿喜良など、当時大いに活躍した人たちにも多くの作例を示すことが可能だろう。
戦後の混乱期を経て、後半は経済が“高度成長”になりつつあったとはいえ、50年代もまた激動の時代だった。朝鮮戦争、基地問題、共産党分裂、自民党結成、スターリン批判、労働争議、安保条約、‥‥、など、多くの問題がひしめき、政治運動、文化運動、労働運動、学生運動などが複雑な様相を呈していた。美術の分野でも様々な動きがあったし、アンフォルメルやネオダダなどの新しい動向が“襲来”し、テレビ、映画、雑誌など大衆消費文化が隆盛してきている。が、ここではそれらの確認はしない。一明さんの作品写真図版から私が想起させられた中谷泰も曺良奎も田中阿喜良も、こうした50年代の入り組んだ状況の中で自らのスジを見出し、それに従って制作発表していたことが確認できればよい。彼らの作品は、その様式のある種の親しみやすさゆえか、学生たちを中心に一定の影響力があった(はずだ)。
一明さんが学んでいた1953年から1960年の東京芸大のことも見ておく必要があろう。当時を彷彿とさせる興味深い文章を見つけたので引いておきたい。図録『かたちびと 島田章三展』(1999年、三重県立美術館・笠間日動美術館・平塚市美術館)に収録されている福田徳樹『同時代的回想』からの抜き書き。
*
「私(*註:福田)は島田(*註:島田章三)と同期生で昭和33年(1958)東京芸術大学美術学部を卒業した。彼は油画科、私は芸術学科だがわずかに学部全体で182名という少人数。都心の上野の構内ながら300年の大木ののこる、落ち葉をふみしめられる母校‥(略)‥」
「油画科の幾人かの同期生から折にふれ、一つ上や一つ下の学年はとてもよくまとまっていたが私達は全くばらばらと聞いたものである。名簿を開き同期(43名)の中から誰かをおとしては危険な記述となるのを承知で、順不同のうちに私の知るだけの方の名をあげてみる。まず前衛的な仕事に向った磯辺行久、伊藤隆康、工藤哲巳、中西夏之、高松次郎らに対し、最具象の橋下博英、中村清治などが両極をなし、かりに中間派としておくが島田(*註:島田章三)をはじめ、井上悟、江村正光、林敬二さらに坂本文男、堀内袈裟雄、また今井治夫、歌田眞介、鶴岡弘康、野間伝治、佐藤章太郎、吉野順夫‥‥。そして女友達。卒業後いち早くパルコのデザイナーとして一世を風靡した山口はるみ、島田夫人(田中)鮎子、東(神田)賀津絵、岩本和子、山領(米原)明美、小紋(針生)章子、藤田(塚谷)淳子、他、他。この昭和33年組が画然と新旧の接点をなし、公平なところ時代の推移を象徴する稀な星たちを輩出したということはできるだろう。」
「神田日勝展」、開くのが ああ待ち遠しい その1
2020-05-25
図録『十勝の美術クロニクル』より
左:《死馬》1965年 北海道立近代美術館
右:《室内風景》1970年 北海道立近代美術館
神田日勝さんの絵を考える上で、三つ違いの兄=神田一明さんのことは絶対に外せない、と私は思っている。
神田一明さんは、1934年東京練馬区生まれ。ご両親は練馬で洋品店を営んでいたが、1945年8月戦禍を避け、一家で(父要一、母ハナ、一明、奈美子、富美子、日勝、幸江の7人で)鹿追にやって来て農業を営み始めた。入植地はほぼ原野だったというから壮絶な苦労を重ねただろう。一明さんは、鹿追の小中学校を卒業後、帯広柏葉高校に進学、さらにその後、1959年東京芸術大学油画科を卒業している。1950年代に、入植して間もない鹿追から東京芸大油画。ちょっと信じられないくらいだ。
それはともかく、一明さんは、学部卒業後も専攻科(現在の大学院)に残ったが、1960年専攻科を中退して北海道に戻った。中学や高校勤務を経て、北海道教育大学旭川分校の教員になり、定年まで勤め上げた。同校名誉教授で旭川市にご健在のようである。画家としては「行動展」や「全道展」、個展などで活躍してこられた。私は面識も何もない。
“50年代に鹿追から東京芸大油画”というこの“進路”の“背後”には、東京で生まれて11歳まで育った(つまりご両親がもともと東京に暮らしていた人だった)ということ以外にきっと何かある、と今回調べてみたら、一明さんが通った帯広柏葉高校には当時小林守材(こばやしもりき)という美術の先生がいたということに行き当たった。私は、この小林守材さんという人が一明さんの東京芸大進学のキーマンだろう、と見当をつけている。
最近たまたま入手できた図録『十勝の美術クロニクル』(北海道立帯広美術館、2011年)の記載によれば、小林守材さんは、1896年札幌生まれ、小樽育ち。上京して川端画学校に学び、藤島武二などから教わった。なかなかの情熱家だったようである。柏葉高校着任時の生徒たちへの挨拶では、ショパンとジョルジュ・サンドとのことを手掛かりに一時間以上語り続けた、と伝えられる。高校生の一明さんは、この人から油絵の手ほどきを受けた。
一明さんは、小林さんから教わった油絵の諸々を弟の日勝さんにも伝え、やがて、東京芸大を目指して上京したのである。一方、日勝さんは1953年に中学を卒業して、そのまま家業の農業を支え、やがて一明さんから教わった油絵を描き始めることになる。
小林守材さんも1945年、疎開で東京から鹿追にやってきた人だった。当初、なんと神田家の隣に住んでいて、神田家と行き来があったという。ただし「隣」といっても東京の「隣」とは違う。少なくとも100メートルや200メートルは離れていたはずで、味噌汁などはすっかり冷めてしまう距離だろう。
きちんとした美術の素養を身につけた人が、自分たちの隣=身近にいて親しくできた、そういう時期があったことは一明さんと日勝さんには幸運なことだっただろう。もともと二人は、絵がすごく上手だ、と近所や学校で有名だったのだから。
一明さんは、かつて隣に住んでいた東京から来た絵描きの小林さんと、進学先の帯広柏葉高校で“再会”したわけだ。つまり、ふたりは教員と生徒との関係以上のある種特別な“心情”でつながっていた、と考えていいだろう。
小林さんは1948年から1951年まで帯広柏葉高校で美術を教え、短い期間だったが当時の生徒たちに大きな影響を与えた。今も使われている帯広柏葉高校の校章は小林さんのデザインである。
やがて小林さんは帯広市から滝川市へ移動になり(道立高校の人事は北海道全体を対象に北海道教育委員会が行うので、北海道のどこに移動になるか分からない。おそらく小林さんは、札幌、あるいは札幌近辺への移動を希望していたのだろう)、数年後には再び東京に戻って、「一水会展」などに出品していたという。1966年に亡くなっている。
小林さんからの影響で画家を志した生徒のうちには、上京して東京芸大を目指した一明さんのような者もいた。おそらく「苦学」だっただろう。結果、一明さんは21歳(三浪?)で東京芸大の油画科に入学した。1955年のことだ。
左:《死馬》1965年 北海道立近代美術館
右:《室内風景》1970年 北海道立近代美術館
神田日勝さんの絵を考える上で、三つ違いの兄=神田一明さんのことは絶対に外せない、と私は思っている。
神田一明さんは、1934年東京練馬区生まれ。ご両親は練馬で洋品店を営んでいたが、1945年8月戦禍を避け、一家で(父要一、母ハナ、一明、奈美子、富美子、日勝、幸江の7人で)鹿追にやって来て農業を営み始めた。入植地はほぼ原野だったというから壮絶な苦労を重ねただろう。一明さんは、鹿追の小中学校を卒業後、帯広柏葉高校に進学、さらにその後、1959年東京芸術大学油画科を卒業している。1950年代に、入植して間もない鹿追から東京芸大油画。ちょっと信じられないくらいだ。
それはともかく、一明さんは、学部卒業後も専攻科(現在の大学院)に残ったが、1960年専攻科を中退して北海道に戻った。中学や高校勤務を経て、北海道教育大学旭川分校の教員になり、定年まで勤め上げた。同校名誉教授で旭川市にご健在のようである。画家としては「行動展」や「全道展」、個展などで活躍してこられた。私は面識も何もない。
“50年代に鹿追から東京芸大油画”というこの“進路”の“背後”には、東京で生まれて11歳まで育った(つまりご両親がもともと東京に暮らしていた人だった)ということ以外にきっと何かある、と今回調べてみたら、一明さんが通った帯広柏葉高校には当時小林守材(こばやしもりき)という美術の先生がいたということに行き当たった。私は、この小林守材さんという人が一明さんの東京芸大進学のキーマンだろう、と見当をつけている。
最近たまたま入手できた図録『十勝の美術クロニクル』(北海道立帯広美術館、2011年)の記載によれば、小林守材さんは、1896年札幌生まれ、小樽育ち。上京して川端画学校に学び、藤島武二などから教わった。なかなかの情熱家だったようである。柏葉高校着任時の生徒たちへの挨拶では、ショパンとジョルジュ・サンドとのことを手掛かりに一時間以上語り続けた、と伝えられる。高校生の一明さんは、この人から油絵の手ほどきを受けた。
一明さんは、小林さんから教わった油絵の諸々を弟の日勝さんにも伝え、やがて、東京芸大を目指して上京したのである。一方、日勝さんは1953年に中学を卒業して、そのまま家業の農業を支え、やがて一明さんから教わった油絵を描き始めることになる。
小林守材さんも1945年、疎開で東京から鹿追にやってきた人だった。当初、なんと神田家の隣に住んでいて、神田家と行き来があったという。ただし「隣」といっても東京の「隣」とは違う。少なくとも100メートルや200メートルは離れていたはずで、味噌汁などはすっかり冷めてしまう距離だろう。
きちんとした美術の素養を身につけた人が、自分たちの隣=身近にいて親しくできた、そういう時期があったことは一明さんと日勝さんには幸運なことだっただろう。もともと二人は、絵がすごく上手だ、と近所や学校で有名だったのだから。
一明さんは、かつて隣に住んでいた東京から来た絵描きの小林さんと、進学先の帯広柏葉高校で“再会”したわけだ。つまり、ふたりは教員と生徒との関係以上のある種特別な“心情”でつながっていた、と考えていいだろう。
小林さんは1948年から1951年まで帯広柏葉高校で美術を教え、短い期間だったが当時の生徒たちに大きな影響を与えた。今も使われている帯広柏葉高校の校章は小林さんのデザインである。
やがて小林さんは帯広市から滝川市へ移動になり(道立高校の人事は北海道全体を対象に北海道教育委員会が行うので、北海道のどこに移動になるか分からない。おそらく小林さんは、札幌、あるいは札幌近辺への移動を希望していたのだろう)、数年後には再び東京に戻って、「一水会展」などに出品していたという。1966年に亡くなっている。
小林さんからの影響で画家を志した生徒のうちには、上京して東京芸大を目指した一明さんのような者もいた。おそらく「苦学」だっただろう。結果、一明さんは21歳(三浪?)で東京芸大の油画科に入学した。1955年のことだ。
東京ステーションギャラリー「神田日勝展」は開くだろうか
2020-05-22
コロナのせいで、“『宣言』の解除”をメドにしてなされるにちがいない美術館やギャラリーの“開場”をじっと待っている。
あれも、これも、見たい展覧会はたくさんある。中でも“開場”が待ち遠しいのが東京ステーションギャラリーの「神田日勝展」だ。神田日勝という人は、私の生まれ育った北海道・十勝地方、その鹿追町の絵描きさんだ(だった)。だから、ある特別な思いがある。私は帯広市で発表される神田日勝の絵を見ながら育ったようなところがあったのだ。
彼が32歳で亡くなったのは、1970年の夏の終わりのことだった。その年の春、高校を卒業して、夏のはじめに遅れて上京した私へ、高校の一年後輩だった尾野くんが、日勝さんが死んだ、と手紙で教えてくれた。こんなことってあるんだ‥‥、 と驚いた。(尾野くんへ返事を書いたかどうか、記憶がない。次の年、尾野くんも上京してきた。苦労しただろうな、彼も。)
その秋の「独立展」を当時の東京都美術館に見に行った。「新人室」と表示されたスペースで、キャプションに黒いリボンがつけられた彼の“出品作”を見た。壁と床に新聞紙がびっしりと貼り込められた狭い部屋、セーター姿の裸足の男がひとり、生ゴミを前に膝を抱えて座り込んでいる、上から裸電球がぶら下がっている、そんな絵だった。やりきれない思いがした。
あれから50年経ってしまった。
あれから50年、と、そんなことを書いている(打ち込んでいる)自分が信じられない。
信じられないけど、今、日勝さんの作品を見て何を思うか。ちょっと怖い。怖い、が、見たい。ゆっくり、じっくり見たい。見たい、が、怖い。何が怖い?
コロナか? いいえ。
さて、東京ステーションギャラリーは「神田日勝展」会期中に開くだろうか?
開いてほしい、とそんなことを、ふ、と毎日考えている。
(2020年5月21日、東京にて)
●東京ステーションギャラリー
〒100-0005東京都千代田区丸の内1-9-1(JR東京駅丸の内北口改札前)
tel. 03-3212-2485
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/index.asp
*神田日勝 大地への筆触
【会期】未定(開幕延期)~6月28日[日]
【開館時間】10:00~18:00(金曜日10:00~20:00/入館は閉館30分前まで)
【休館日】月曜日(5月4日、6月22日は開館)
【主催】東京ステーションギャラリー[公益財団法人 東日本鉄道文化財団]
【協賛】柳月(北海道・十勝)
【特別協力】神田日勝記念美術館
【企画協力】北海道新聞社、北海道立近代美術館
あれも、これも、見たい展覧会はたくさんある。中でも“開場”が待ち遠しいのが東京ステーションギャラリーの「神田日勝展」だ。神田日勝という人は、私の生まれ育った北海道・十勝地方、その鹿追町の絵描きさんだ(だった)。だから、ある特別な思いがある。私は帯広市で発表される神田日勝の絵を見ながら育ったようなところがあったのだ。
彼が32歳で亡くなったのは、1970年の夏の終わりのことだった。その年の春、高校を卒業して、夏のはじめに遅れて上京した私へ、高校の一年後輩だった尾野くんが、日勝さんが死んだ、と手紙で教えてくれた。こんなことってあるんだ‥‥、 と驚いた。(尾野くんへ返事を書いたかどうか、記憶がない。次の年、尾野くんも上京してきた。苦労しただろうな、彼も。)
その秋の「独立展」を当時の東京都美術館に見に行った。「新人室」と表示されたスペースで、キャプションに黒いリボンがつけられた彼の“出品作”を見た。壁と床に新聞紙がびっしりと貼り込められた狭い部屋、セーター姿の裸足の男がひとり、生ゴミを前に膝を抱えて座り込んでいる、上から裸電球がぶら下がっている、そんな絵だった。やりきれない思いがした。
あれから50年経ってしまった。
あれから50年、と、そんなことを書いている(打ち込んでいる)自分が信じられない。
信じられないけど、今、日勝さんの作品を見て何を思うか。ちょっと怖い。怖い、が、見たい。ゆっくり、じっくり見たい。見たい、が、怖い。何が怖い?
コロナか? いいえ。
さて、東京ステーションギャラリーは「神田日勝展」会期中に開くだろうか?
開いてほしい、とそんなことを、ふ、と毎日考えている。
(2020年5月21日、東京にて)
●東京ステーションギャラリー
〒100-0005東京都千代田区丸の内1-9-1(JR東京駅丸の内北口改札前)
tel. 03-3212-2485
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/index.asp
*神田日勝 大地への筆触
【会期】未定(開幕延期)~6月28日[日]
【開館時間】10:00~18:00(金曜日10:00~20:00/入館は閉館30分前まで)
【休館日】月曜日(5月4日、6月22日は開館)
【主催】東京ステーションギャラリー[公益財団法人 東日本鉄道文化財団]
【協賛】柳月(北海道・十勝)
【特別協力】神田日勝記念美術館
【企画協力】北海道新聞社、北海道立近代美術館
ミロ『農園』の写真図版を原寸大にカラーコピーしてみた
2020-05-01
いつ頃からか、ミロが好きだ。どんなミロも好きだけど、とりわけ『農園』は、写真図版でもう泣きそうになる。本物は今ワシントン・ナショナルギャラリーにあるらしい。私はアメリカ大陸に行ったことがない(行きたい)。
この絵をミロから買って持っていたのは、あのヘミングウェイだ。じつにかっこいい。
『農場』の写真図版はいつでも見たい。だから、古い画集をバラバラにして得たものを、仕事場の何処かにずっと置いてきた。もう黄ばんだ図版だが、時々手にとって没入し、時間を忘れ、ため息と一緒に“こちら側”に帰ってくる。
何度見ても、見るたびに、黄橙に寄った茶色(=黄土色)と青との対比、そこにベージュと黒とが参入している、そういう“舞台”で展開するディテールがすごい。細密に描いてあるからすごい、と言っているのではない。細密に描くだけでいいのだったら、そんなことは、私にだってできる。そうではなくて、画面の中の全てのものが「これ以外にない!」というまで単純化、というか独自の様式の形状に至ったところで配されている。単純化、それがすごい。だから、複雑なことができる。
青い空には灰白色の満月が浮かんでいる。だから、夜の光景、と受け止めていいだろう。月明かりの中の農園はミロが親しんだ農園である。土、小石、トウモロコシ、多肉植物、樹木、切り落とした枝、ジョウロ、バケツ、桝、樽、桶、新聞紙、トカゲ、カタツムリ、鶏、兎、山羊、鳩、ロバ、荷車、倉庫、小屋、水場、通路、足跡、空、月、などなど。
激しく吠える犬、水場で洗い物をする女性もいる。
ロバが繋がれてぐるぐる回って作動させる大きな装置は地下から水を汲み上げるためのものだろうか。両腕を広げて蹲踞している小さな謎の裸体像。さらに、空中を舞っているかのような瓶。
これは一体なんだろう、というものもある。樹木の根元の蹄のような白い形状、その周囲の黒い丸、そのすぐ左下の茶色の幾何形態、その下方の黒い色面といったものがそれだ。画面にメリハリを与える構成上の必要性を伴ったもののようにも見えるが、それだけではあるまい。
描かれた全てのものには陰影も暗示されているが、光源は明らかではなく、それぞれ不思議な光を放っていたり、光を飲み込んだりしているかのようである。線遠近法も統一されていない。兎や鶏やヤギのいる金網での囲いは部分的に暗示されているだけである。説明は排除されているのだ。
見ていて飽きることがない。どこまでもミロの「愛」が伝わってくる。手触り、匂い、重さ、などまでも。
例えば中央の樹木の幹や倉庫の壁の表現はどうだろう。これらは、この幹や壁に何度も触って、その感触を記憶の奥深くに保持し続けている人だけがたどりつけた表現ではないだろうか。
『農場』は1921〜22年の作。ミロは二十代の終わりに差し掛かっている。「スペイン風邪」が大流行してから3〜4年後。昨今の状況下で感じさせられることも多々生じてくる。
そんなわけで、先日、仕事場を片付けていて出てきたものがあった。コピーの束だった。忘れていたが、私の手元の『農園』の図版を事務用のコピー機で原寸に拡大してみたことがあったのだ。業者に依頼したのではベラボーなお金を要するので、自分で計算して手元の図版を分割し、拡大コピーを繰り返したのだった。ちょっと忙しかった時期で、それらの成果品=原寸大「部分」を繋ぎ合わせる作業を先送りして、そのまま忘れていた。この際、これらを相互に繋いで原寸大の『農園』を見てみようと思った。132×147cmになるはずだ。
結構めんどくさかった。でも一応できたので、原寸大コピーの『農園』をリビングの壁にとめてみた。『あべのますく』の下方になったし、シワだらけだし、色はひどいものだが、雰囲気はつかめるはずだ。
この絵をミロから買って持っていたのは、あのヘミングウェイだ。じつにかっこいい。
『農場』の写真図版はいつでも見たい。だから、古い画集をバラバラにして得たものを、仕事場の何処かにずっと置いてきた。もう黄ばんだ図版だが、時々手にとって没入し、時間を忘れ、ため息と一緒に“こちら側”に帰ってくる。
何度見ても、見るたびに、黄橙に寄った茶色(=黄土色)と青との対比、そこにベージュと黒とが参入している、そういう“舞台”で展開するディテールがすごい。細密に描いてあるからすごい、と言っているのではない。細密に描くだけでいいのだったら、そんなことは、私にだってできる。そうではなくて、画面の中の全てのものが「これ以外にない!」というまで単純化、というか独自の様式の形状に至ったところで配されている。単純化、それがすごい。だから、複雑なことができる。
青い空には灰白色の満月が浮かんでいる。だから、夜の光景、と受け止めていいだろう。月明かりの中の農園はミロが親しんだ農園である。土、小石、トウモロコシ、多肉植物、樹木、切り落とした枝、ジョウロ、バケツ、桝、樽、桶、新聞紙、トカゲ、カタツムリ、鶏、兎、山羊、鳩、ロバ、荷車、倉庫、小屋、水場、通路、足跡、空、月、などなど。
激しく吠える犬、水場で洗い物をする女性もいる。
ロバが繋がれてぐるぐる回って作動させる大きな装置は地下から水を汲み上げるためのものだろうか。両腕を広げて蹲踞している小さな謎の裸体像。さらに、空中を舞っているかのような瓶。
これは一体なんだろう、というものもある。樹木の根元の蹄のような白い形状、その周囲の黒い丸、そのすぐ左下の茶色の幾何形態、その下方の黒い色面といったものがそれだ。画面にメリハリを与える構成上の必要性を伴ったもののようにも見えるが、それだけではあるまい。
描かれた全てのものには陰影も暗示されているが、光源は明らかではなく、それぞれ不思議な光を放っていたり、光を飲み込んだりしているかのようである。線遠近法も統一されていない。兎や鶏やヤギのいる金網での囲いは部分的に暗示されているだけである。説明は排除されているのだ。
見ていて飽きることがない。どこまでもミロの「愛」が伝わってくる。手触り、匂い、重さ、などまでも。
例えば中央の樹木の幹や倉庫の壁の表現はどうだろう。これらは、この幹や壁に何度も触って、その感触を記憶の奥深くに保持し続けている人だけがたどりつけた表現ではないだろうか。
『農場』は1921〜22年の作。ミロは二十代の終わりに差し掛かっている。「スペイン風邪」が大流行してから3〜4年後。昨今の状況下で感じさせられることも多々生じてくる。
そんなわけで、先日、仕事場を片付けていて出てきたものがあった。コピーの束だった。忘れていたが、私の手元の『農園』の図版を事務用のコピー機で原寸に拡大してみたことがあったのだ。業者に依頼したのではベラボーなお金を要するので、自分で計算して手元の図版を分割し、拡大コピーを繰り返したのだった。ちょっと忙しかった時期で、それらの成果品=原寸大「部分」を繋ぎ合わせる作業を先送りして、そのまま忘れていた。この際、これらを相互に繋いで原寸大の『農園』を見てみようと思った。132×147cmになるはずだ。
結構めんどくさかった。でも一応できたので、原寸大コピーの『農園』をリビングの壁にとめてみた。『あべのますく』の下方になったし、シワだらけだし、色はひどいものだが、雰囲気はつかめるはずだ。