立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
久しぶりの美術館
2021-06-07
新型コロナウィルスが変異したりして(変異という内実が私には理解不能だが、ともかく変異して)さらに跳梁跋扈し、加えてワクチンの手配もうまくいっていないらしく、またまた「緊急事態宣言」というのが出て、美術館さえ軒並み閉じてしまった。なので、この間は、おウチでずっとジッとしていた。やらねばならないことは山のようにあるのに、それを思うだけで疲れてしまって、毎日テレビでお相撲を見てごまかしていた。
お相撲も終わってしまったので、さあ、いよいよ気合いを入れて活動再開じゃ、と思ったら、やがて「宣言」が延長されてしまった。
“人流”を抑えるために、外食も飲み会も催し物も、「お願い」という強権で、ともかく人が集まること、つまり人と人とが近寄る機会を極力抑え込む、という作戦のはずだった。が、どうした次第か、延長後は国立も都立も美術館は開く、というのだ。なんだか国や都のやっていることは首尾一貫していないのが、素人目にも明らかである。そうなってしまっている「五輪」という訳も、ほぼ見当がついて来ている。そのカラクリも。
とはいえ、こっちはこっちで、しめた、と家人に頼んでさっそく「東京都現代美術館」の予約をしてもらった。「渋谷区立松濤美術館」にも予約を試みてもらったがうまくいかず、それもそのはず『ベーコン展』はもう開かない、という情報を直後に得て、ガッカリした。でも、ま、いいか。
というわけで、「東京都現代美術館」に行ってきたのである。久しぶりの美術館。
まず、『ライゾマティクス_マルティプレックス』展。
とっても面白かった。何が面白かったか? 彼らと私のような爺さんとのジェネレーションの決定的な違いと意外な類似性が。
私はトイレの壁にセザンヌの絵の粗末な写真図版を貼っているような爺さんである。そこに座るたびに、目の前のその風景画の図版に見入って飽きることがない。わざわざ老眼鏡を持ってトイレに行くのだ。あまり知られていない絵である。どこかの会社からもらった随分以前のカレンダーにあったのを切り取ってそのまま忘れてしまっていた。過日、それを見つけて、トイレの壁に貼った(セザンヌさん、トイレでごめんなさい!)。
今さっきまでセザンヌが描いていたような気がしてくる絵だ。セザンヌが見たなんの変哲もない景色がそこに見えてくるような気がする。同時に(これが面白いのだが)、その景色を前にしたセザンヌの眼の運び、反応、決断などが、筆触を通して生き生きと蘇ってくる。
セザンヌは実にしつこい。そのしつこさが素晴らしい。信頼できる。信じがたい観察が信じがたい結果を生じている。効果とか、そういうものを得るための営みではない。見入るたびにセザンヌから叱られているような気がしてくる。同時に励まされる。
粗末な写真図版でこのありさまである。本物のセザンヌがかかっていたら、私はずっとトイレに座っているかもしれない。もっとも、セザンヌの本物が拙宅のトイレの壁にかかる可能性は全くない。ないが、話は私の貧乏のことではなくて私のジジイぶりのことである。あろうことか(?)、セザンヌのほとんど知られていない絵の粗末な図版に毎日見入って、心底セザンヌに感心してしまうのである。「ライゾマティクス」の諸君からすれば、それは大昔の謎の風習、ということになるのではなかろうか?
お相撲も終わってしまったので、さあ、いよいよ気合いを入れて活動再開じゃ、と思ったら、やがて「宣言」が延長されてしまった。
“人流”を抑えるために、外食も飲み会も催し物も、「お願い」という強権で、ともかく人が集まること、つまり人と人とが近寄る機会を極力抑え込む、という作戦のはずだった。が、どうした次第か、延長後は国立も都立も美術館は開く、というのだ。なんだか国や都のやっていることは首尾一貫していないのが、素人目にも明らかである。そうなってしまっている「五輪」という訳も、ほぼ見当がついて来ている。そのカラクリも。
とはいえ、こっちはこっちで、しめた、と家人に頼んでさっそく「東京都現代美術館」の予約をしてもらった。「渋谷区立松濤美術館」にも予約を試みてもらったがうまくいかず、それもそのはず『ベーコン展』はもう開かない、という情報を直後に得て、ガッカリした。でも、ま、いいか。
というわけで、「東京都現代美術館」に行ってきたのである。久しぶりの美術館。
まず、『ライゾマティクス_マルティプレックス』展。
とっても面白かった。何が面白かったか? 彼らと私のような爺さんとのジェネレーションの決定的な違いと意外な類似性が。
私はトイレの壁にセザンヌの絵の粗末な写真図版を貼っているような爺さんである。そこに座るたびに、目の前のその風景画の図版に見入って飽きることがない。わざわざ老眼鏡を持ってトイレに行くのだ。あまり知られていない絵である。どこかの会社からもらった随分以前のカレンダーにあったのを切り取ってそのまま忘れてしまっていた。過日、それを見つけて、トイレの壁に貼った(セザンヌさん、トイレでごめんなさい!)。
今さっきまでセザンヌが描いていたような気がしてくる絵だ。セザンヌが見たなんの変哲もない景色がそこに見えてくるような気がする。同時に(これが面白いのだが)、その景色を前にしたセザンヌの眼の運び、反応、決断などが、筆触を通して生き生きと蘇ってくる。
セザンヌは実にしつこい。そのしつこさが素晴らしい。信頼できる。信じがたい観察が信じがたい結果を生じている。効果とか、そういうものを得るための営みではない。見入るたびにセザンヌから叱られているような気がしてくる。同時に励まされる。
粗末な写真図版でこのありさまである。本物のセザンヌがかかっていたら、私はずっとトイレに座っているかもしれない。もっとも、セザンヌの本物が拙宅のトイレの壁にかかる可能性は全くない。ないが、話は私の貧乏のことではなくて私のジジイぶりのことである。あろうことか(?)、セザンヌのほとんど知られていない絵の粗末な図版に毎日見入って、心底セザンヌに感心してしまうのである。「ライゾマティクス」の諸君からすれば、それは大昔の謎の風習、ということになるのではなかろうか?