立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
ヴィム・ヴェンダースの映画『アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家』と福田尚代氏の個展のこと
2024-06-28
いつだったか、家人が、こんどキーファーの映画をやるみたいだよ、と言った。それは楽しみだねえ、と応じていたが、いよいよ「新宿武蔵野館」に見にきたのである。6月27日、木曜日、薄曇り。日比谷に行けば3Dだ、というのだが、3Dでの鑑賞のためにはメガネ代が別に必要だ、と知って、2Dで十分でしょ、とケチったのである。
アンゼルム・キーファーをいつごろ知ったのか、記憶が定かではないが、知った時には、当たり前だが、彼はすでに大スターであった。
こともあろうに具象的な形状を平気で描きこんでしまう「ニューペインティング」とか「新表現主義」とかいう“傾向”が海外から一気に襲来して席巻し、ミニマルアートやコンセプチュアルアートという“傾向”を軸に懸命に学んできた世代の私(ども)としては、これは一体なにが起こっているのか、と目の前の事態に、ワケというものが分からず、こんなものはただの“揺り戻し”だ、と強がっていたのだが(正直、今でもそんな気持ちが拭えない)、キーファーはその代表選手のひとり、というか、代表選手中の代表選手、とりわけ“危ない”気配を漂わせていた。
そんな頃、ある友人の好意で、都内のある場所に、おそらくは“秘密裏に”保管されていた(であろう)キーファーの複数の作品をこっそり見せてもらいに行ったことがあった。西武美術館での「キーファー展」以前のことだ。
その時、キーファーの作品の実物を初めて見たが、どれも呆れるほど大きな作品で、私が日頃取り組んできた“傾向”とはまるで違う作品だった。なによりも、海やら地面やらが堂々と描かれているし、物理的なサイズがむっちゃ大きくて、圧倒的な物量で、そのケタというものがまるで違っていたのである。わたしは、へえ、、、とそれっきり言葉がなかった。であるからして、西武美術館での「キーファー展」の印象は比較的薄い。
その後のことは省略するが、去年だったか、イタリアはベネツィアのあの「総督邸」で「キーファー展」がある、という情報が伝わってきて、ひえーっ、チントレットの大壁画があるあそこでやるの? そういえば、あそこの牢屋の陰惨さにはびっくりしたなあ、などと、そのうち忘れていたら、昔、観光で訪れたあれらの豪華すぎる大きな部屋(たち)の、床から天井まで、巨大なキーファーの作品がびっしり、文字通りびっしり、びっしり展示されている写真だったかをどこかで見て、ひえーっ、ますます凄まじいなあ、と思っていたのである。そしたら今度は、京都・二条城で「キーファー展」をやる、というではないか。来年(2025年)の予定らしいが、行けるかな。廊下のウグイスばりの音を効果音とかに使ったりして。なんて、、、。
で、ヴェンダースの映画、である。
結構な見応えだった。
なんといっても、映し出される仕事場がでかい。でかすぎる。
そのでかすぎる仕事場に、これまたでかすぎる作品がびっしり並んでいるのである。それらは制作途上なのか、完成しているのか、映画からは判然としないが、ともかくものすごい量であり、大きさである。私がかつて都内某所で見た絵の大きさをはるかに超えている。キーファーはそれらの間を自転車で移動していく。ということは、こともあろうに(?)仕事場はきちんと整理されているのだ。仕事場を仕切るある合理性というか、秩序が見えてくる。死んだ空間ではないのである。
大きすぎる作品群には、一点一点、それぞれに鉄製の支えがあって、キャスターがついている。なので、人力で移動できる。必要に応じて作業するスペースまで移動させていって、バーナーで焼いたり、絵の具で描画したり、溶かした鉛を滴らせたり、、、と描画しているのだ。
たとえば、バーナーで、画面に貼り付けた藁を焼く時には、当然ながら激しく炎が立って、画面横と画面背面とにそれぞれ控えているホースを持ったアシスタントが、キーファーの指示に従って、焼きすぎないように水をかける。作品はもちろん、床もビショビショだ。後片付けの場面はでてこない。
絵の具での描画もすさまじい。絵の具は大きなバケツに入っていて、それを特製のおそらくはステンレス製であろう、弾力ある長いヘラで、えいっ! とすくって、そのまま画面に叩きつけ、ヘラの先端でゴニョゴニョと描いていく。あらかじめ木炭での素描が施されており、その木炭の黒が混ざって、“調子”を作り出していく。すごい力技だ。
絵の具はバケツだけにおさめられているのではない。時に画面片隅に映り込む大きなテーブルには白い“山”があった。おそらくは白い絵の具であろう、と見た。同じテーブルには、他にもいくつかの色の“山々”があったし、すぐとなりのテーブルには絵の具の缶が並んでいた。つまり、大きなテーブルがそのまま“パレット”になっているのである。もちろんテーブルにもキャスターがついている。
作品の上部の描画のためには、本格的な昇降機を使っていて、なるほど、と思いながらも呆れてしまった。キーファー自ら運転して絵の前までやってきて、そのまま上に上がって描画を始め、先に述べたように描画を進めていく。
彼の作品に頻繁に登場する鉛。鉛を溶かすためのちゃんとした炉があって、その炉は、水平に置かれた絵の必要な領域の上まで移動できて、キーファーの手でそのまま画面上に注ぎ込むことができる。アシスタントが、もう少し下げましょうか、そうすればピチピチ跳ねることがなくなりますから、とか言うと、キーファーは、いや、跳ねるのがいいのだ、とか言う。結果、溶けた鉛の飛沫がピチピチ跳ねて、キーファーも思わず後退りしたりする。そうしたディテールが面白い。
また、作品のための素材が、巨大すぎる棚とそこに並んだ金属製の箱にきちんと整理されている。さすが、である。枯れた植物、得体の知れないオブジェ、引き出しにおさめられた無数の写真、、、。一枚の風景写真を無造作につまみあげるキーファー。
そして、図書館のような書庫。書庫のような作品=鉛の書物群、パウル・ツェランの言葉、、、。
整備された展示空間は、そのまま制作の一部をなしてもいる。驚くべきことだ。
こうした、南仏バルジャックでのキーファーの“日常”が軸になって、幼少期のキーファー、青年期のキーファーのエピソードが、幼少期をヴェンダースの孫甥(聞きなれない言葉だが、兄弟姉妹の孫=男性を指す言葉だという)が演じ、青年期をなんとキーファーの息子が演じることで挿入されていく。さらにそれらを踏まえて、最初期のキーファーの作品写真やインタビューなどの資料映像も挿入されて、キーファーの絶え間ない営みが多層的に描き出されていく。じつに手際がいい。さすが、である。
キーファーが生まれ育った館であろうか、ヴェンダースの孫甥(幼少期のキーファー)が、その内部の装飾を眺めながら巡っていくシーンは、彼の出自さえ想像させ、咲き誇るひまわりの下で寝そべってひまわり越しに空を仰ぐ姿は、彼の作品にたびたび登場するひまわりの“出どころ”を示しているかのようであった。
ひまわり、といえばゴッホだが、高校生だったかのキーファーが多数の応募者の中から選出された奨学制度でゴッホの歩いた経路を自らたどってレポートにまとめ、ヨーロッパ中の最優秀賞をもらった、というエピソードを私は全く知らなかったし、そこで紹介される高校生のキーファーによるゴッホ風の風景デッサンや、それ以前、幼少期の絵にも驚かされた。
青年期のキーファーについては、雪景色の畑に踏み込んで写真撮影するシーンや、最初期のドイツ山中の仕事場(木造の倉庫のような建物。初期の絵に度々登場している)でボイスに手紙を書き、ボイスに見てもらうために車にたくさんの絵を積み込んでボイスの元へと出かけていくシーンが印象的だ。白の中に真っ黒い細い線が伸びてボイスのところに続いていく。
こうして映画のシーンを次々に思い出しながら書いて(打ち込んで)いくとキリがない。ネタバレにもなってしまうので、この辺にしておくが、ぜひ、ご覧になられるとよい。
先に述べたベネツィアでの「キーファー展」会場で撮影したシーンさえもあって(チントレットの壁画も登場する)、心憎い映画になっていた。さすが、と言うべきか。
それにしても、すさまじい仕事への集中度である。まちがいなく、全てを制作に捧げてきているのだ。
アンゼルム・キーファーをいつごろ知ったのか、記憶が定かではないが、知った時には、当たり前だが、彼はすでに大スターであった。
こともあろうに具象的な形状を平気で描きこんでしまう「ニューペインティング」とか「新表現主義」とかいう“傾向”が海外から一気に襲来して席巻し、ミニマルアートやコンセプチュアルアートという“傾向”を軸に懸命に学んできた世代の私(ども)としては、これは一体なにが起こっているのか、と目の前の事態に、ワケというものが分からず、こんなものはただの“揺り戻し”だ、と強がっていたのだが(正直、今でもそんな気持ちが拭えない)、キーファーはその代表選手のひとり、というか、代表選手中の代表選手、とりわけ“危ない”気配を漂わせていた。
そんな頃、ある友人の好意で、都内のある場所に、おそらくは“秘密裏に”保管されていた(であろう)キーファーの複数の作品をこっそり見せてもらいに行ったことがあった。西武美術館での「キーファー展」以前のことだ。
その時、キーファーの作品の実物を初めて見たが、どれも呆れるほど大きな作品で、私が日頃取り組んできた“傾向”とはまるで違う作品だった。なによりも、海やら地面やらが堂々と描かれているし、物理的なサイズがむっちゃ大きくて、圧倒的な物量で、そのケタというものがまるで違っていたのである。わたしは、へえ、、、とそれっきり言葉がなかった。であるからして、西武美術館での「キーファー展」の印象は比較的薄い。
その後のことは省略するが、去年だったか、イタリアはベネツィアのあの「総督邸」で「キーファー展」がある、という情報が伝わってきて、ひえーっ、チントレットの大壁画があるあそこでやるの? そういえば、あそこの牢屋の陰惨さにはびっくりしたなあ、などと、そのうち忘れていたら、昔、観光で訪れたあれらの豪華すぎる大きな部屋(たち)の、床から天井まで、巨大なキーファーの作品がびっしり、文字通りびっしり、びっしり展示されている写真だったかをどこかで見て、ひえーっ、ますます凄まじいなあ、と思っていたのである。そしたら今度は、京都・二条城で「キーファー展」をやる、というではないか。来年(2025年)の予定らしいが、行けるかな。廊下のウグイスばりの音を効果音とかに使ったりして。なんて、、、。
で、ヴェンダースの映画、である。
結構な見応えだった。
なんといっても、映し出される仕事場がでかい。でかすぎる。
そのでかすぎる仕事場に、これまたでかすぎる作品がびっしり並んでいるのである。それらは制作途上なのか、完成しているのか、映画からは判然としないが、ともかくものすごい量であり、大きさである。私がかつて都内某所で見た絵の大きさをはるかに超えている。キーファーはそれらの間を自転車で移動していく。ということは、こともあろうに(?)仕事場はきちんと整理されているのだ。仕事場を仕切るある合理性というか、秩序が見えてくる。死んだ空間ではないのである。
大きすぎる作品群には、一点一点、それぞれに鉄製の支えがあって、キャスターがついている。なので、人力で移動できる。必要に応じて作業するスペースまで移動させていって、バーナーで焼いたり、絵の具で描画したり、溶かした鉛を滴らせたり、、、と描画しているのだ。
たとえば、バーナーで、画面に貼り付けた藁を焼く時には、当然ながら激しく炎が立って、画面横と画面背面とにそれぞれ控えているホースを持ったアシスタントが、キーファーの指示に従って、焼きすぎないように水をかける。作品はもちろん、床もビショビショだ。後片付けの場面はでてこない。
絵の具での描画もすさまじい。絵の具は大きなバケツに入っていて、それを特製のおそらくはステンレス製であろう、弾力ある長いヘラで、えいっ! とすくって、そのまま画面に叩きつけ、ヘラの先端でゴニョゴニョと描いていく。あらかじめ木炭での素描が施されており、その木炭の黒が混ざって、“調子”を作り出していく。すごい力技だ。
絵の具はバケツだけにおさめられているのではない。時に画面片隅に映り込む大きなテーブルには白い“山”があった。おそらくは白い絵の具であろう、と見た。同じテーブルには、他にもいくつかの色の“山々”があったし、すぐとなりのテーブルには絵の具の缶が並んでいた。つまり、大きなテーブルがそのまま“パレット”になっているのである。もちろんテーブルにもキャスターがついている。
作品の上部の描画のためには、本格的な昇降機を使っていて、なるほど、と思いながらも呆れてしまった。キーファー自ら運転して絵の前までやってきて、そのまま上に上がって描画を始め、先に述べたように描画を進めていく。
彼の作品に頻繁に登場する鉛。鉛を溶かすためのちゃんとした炉があって、その炉は、水平に置かれた絵の必要な領域の上まで移動できて、キーファーの手でそのまま画面上に注ぎ込むことができる。アシスタントが、もう少し下げましょうか、そうすればピチピチ跳ねることがなくなりますから、とか言うと、キーファーは、いや、跳ねるのがいいのだ、とか言う。結果、溶けた鉛の飛沫がピチピチ跳ねて、キーファーも思わず後退りしたりする。そうしたディテールが面白い。
また、作品のための素材が、巨大すぎる棚とそこに並んだ金属製の箱にきちんと整理されている。さすが、である。枯れた植物、得体の知れないオブジェ、引き出しにおさめられた無数の写真、、、。一枚の風景写真を無造作につまみあげるキーファー。
そして、図書館のような書庫。書庫のような作品=鉛の書物群、パウル・ツェランの言葉、、、。
整備された展示空間は、そのまま制作の一部をなしてもいる。驚くべきことだ。
こうした、南仏バルジャックでのキーファーの“日常”が軸になって、幼少期のキーファー、青年期のキーファーのエピソードが、幼少期をヴェンダースの孫甥(聞きなれない言葉だが、兄弟姉妹の孫=男性を指す言葉だという)が演じ、青年期をなんとキーファーの息子が演じることで挿入されていく。さらにそれらを踏まえて、最初期のキーファーの作品写真やインタビューなどの資料映像も挿入されて、キーファーの絶え間ない営みが多層的に描き出されていく。じつに手際がいい。さすが、である。
キーファーが生まれ育った館であろうか、ヴェンダースの孫甥(幼少期のキーファー)が、その内部の装飾を眺めながら巡っていくシーンは、彼の出自さえ想像させ、咲き誇るひまわりの下で寝そべってひまわり越しに空を仰ぐ姿は、彼の作品にたびたび登場するひまわりの“出どころ”を示しているかのようであった。
ひまわり、といえばゴッホだが、高校生だったかのキーファーが多数の応募者の中から選出された奨学制度でゴッホの歩いた経路を自らたどってレポートにまとめ、ヨーロッパ中の最優秀賞をもらった、というエピソードを私は全く知らなかったし、そこで紹介される高校生のキーファーによるゴッホ風の風景デッサンや、それ以前、幼少期の絵にも驚かされた。
青年期のキーファーについては、雪景色の畑に踏み込んで写真撮影するシーンや、最初期のドイツ山中の仕事場(木造の倉庫のような建物。初期の絵に度々登場している)でボイスに手紙を書き、ボイスに見てもらうために車にたくさんの絵を積み込んでボイスの元へと出かけていくシーンが印象的だ。白の中に真っ黒い細い線が伸びてボイスのところに続いていく。
こうして映画のシーンを次々に思い出しながら書いて(打ち込んで)いくとキリがない。ネタバレにもなってしまうので、この辺にしておくが、ぜひ、ご覧になられるとよい。
先に述べたベネツィアでの「キーファー展」会場で撮影したシーンさえもあって(チントレットの壁画も登場する)、心憎い映画になっていた。さすが、と言うべきか。
それにしても、すさまじい仕事への集中度である。まちがいなく、全てを制作に捧げてきているのだ。
「シルバーデー」に東京都現代美術館に行った
2024-06-25
ある方が、毎月第三水曜日は「シルバーデー」ということになっていて東京都現代美術館、東京都写真美術館、東京都庭園美術館はどの展覧会も65歳以上は無料ですよ、とSNSに投稿していた。で、東京都現代美術館に行ってみたのである。6月19日=6月の第三水曜日。晴れ。
私は、自慢ではないが(自慢にもならないが)、とっくに65歳を過ぎておりハゲである。わずかに残された頭髪はとっくに“シルバー”なので、チケット売り場の窓口のお姉さんに、運転免許証(ずっとペーパー・ドライバーの“ゴールド”カード)を示すと、お姉さんは快くチケットを差し出しながら、これですべての展示をご覧いただけます、とにこやかに言った。「シルバーデー」はほんとだった。とっても嬉しかった。
私は、自慢ではないが(自慢にもならないが)、とっくに65歳を過ぎておりハゲである。わずかに残された頭髪はとっくに“シルバー”なので、チケット売り場の窓口のお姉さんに、運転免許証(ずっとペーパー・ドライバーの“ゴールド”カード)を示すと、お姉さんは快くチケットを差し出しながら、これですべての展示をご覧いただけます、とにこやかに言った。「シルバーデー」はほんとだった。とっても嬉しかった。
カール・アンドレ展
2024-06-04
気がつけば、5月も終わってしまっていた。
気がつけば、と書いた(打ち込んだ)が、何かに熱中していて、あっ! という間に時間が過ぎ去っていった、というのではなかった。あれもやらねば、これもやらねば、と気持ちだけはせわしないが、実際には、何ひとつやれていないままで、あっ! という間に時間が過ぎていくのであった。これは、明らかに老化の現れだろう。いよいよ、やばいぞ。
拙宅の耐震補強工事は6月半ばから始まる予定だった。しかし、やむを得ぬ都合で7月半ばからになった。それを伝えられた時は本当にガッカリした。加えて、暑さの中での工事。職人さんたちも大変だろうが、私どもも大変である。が、弱音は吐けない。頑張る。
住みながらの工事を少しでも円滑に進めてもらうために、家具をはじめ、こまごまとした物品の移動作業や廃棄作業が続いている。私の仕事場は、すでに荷物でいっぱいだが、このあとも大物をいくつも“収納”しなければならない。私の仕事場にも工事を必要とする箇所があるので、その周辺はカラッポにしておかねばならない。仕事場としての“機能”だって、気持ちだけは保っておきたい。これらの事柄をすべて満たすのはかなり難しくて、じつに悩ましい。作業はノロノロとしか進まない。知力、体力の衰えが露呈する。無理が効かない。
そんなとき、思いがけず、大量の荷物の隙間に、木下直之『私の城下町 天守閣からみえる戦後の日本』(筑摩書房、2007年)が顔を覗かせていた。
思わず取り出して、これ面白かったなあ、この人の本はどれも面白いよなあ、とつい読み始めてしまった。例によって、面白かったという記憶はあっても、中身を忘れてしまっていたのである。
話は、著者・木下氏の祖父母を木下氏の父親が1953年に撮った写真のことから始まる。その写真は、木下氏が育った部屋にずっと懸けられていたという。日比谷の濠の前での写真である。背景の濠のさらに向こうに第一生命館が見えている。この写真が撮影された一年前、つまり1952年には、まだ、この建物の屋上には星条旗が翻っていた。1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効まで、日本は連合国軍の占領下だったのである。第一生命館にはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が置かれていた。日本の独立回復の日=サンフランシスコ講和条約発効の日=4月28日から星条旗が翻ることはなくなり、その三日後の5月1日には「血のメーデー事件」が起こって、写真の祖父母が立っていたあたりも騒然としていた。‥‥と巧みに話は続いていく。
そもそも、「皇居」はもともと、「江戸城」ではなく、「御城」(おしろ)と呼ばれていたらしい。その証拠に、江戸時代のどの地図にも「御城」と書かれているという。「江戸城」というのは現代の呼び名だったのである。江戸が「東京」となって「東京城」、やがて「皇城」となったらしい。そして「皇居」となったわけだが、つまり、もともと「御城」だったので、『わたしの城下町』という本が、自らの祖父母の姿をとどめた一枚の写真の話から始まった理由が、なるほど、このあたりで明らかになる。
この本は、こうして皇居や皇居周辺をめぐる話から始まって、小田原、熱海、、、と次第に南下して、首里城に至る。
読んだのは二度目だったが、今回も満足した。この本に従って、せめて皇居周辺とかを散歩してみるのもいいかもしれない。
数日後、東京駅に降り立った。皇居前広場を例えば銅像を巡りながら散歩しようというのではない。目指すは八重洲口③バス停。このバス停のことは『わたしの城下町』には出てこない。私は、千葉県佐倉市にある「DIC川村記念美術館」まで、③バス停からバスに乗って行くつもりだったのだ。「カール・アンドレ 彫刻と詩、その間」展見物である。
時間通りにやってきたバスに乗り込み、バスは順調に走り、その間、年配のご婦人の四人組が果てしなくおしゃべりを続け、「DIC川村記念美術館」で私はバスを降りた。ほとんど全ての人も降りた。四人組のご婦人たちも降りた。
気がつけば、と書いた(打ち込んだ)が、何かに熱中していて、あっ! という間に時間が過ぎ去っていった、というのではなかった。あれもやらねば、これもやらねば、と気持ちだけはせわしないが、実際には、何ひとつやれていないままで、あっ! という間に時間が過ぎていくのであった。これは、明らかに老化の現れだろう。いよいよ、やばいぞ。
拙宅の耐震補強工事は6月半ばから始まる予定だった。しかし、やむを得ぬ都合で7月半ばからになった。それを伝えられた時は本当にガッカリした。加えて、暑さの中での工事。職人さんたちも大変だろうが、私どもも大変である。が、弱音は吐けない。頑張る。
住みながらの工事を少しでも円滑に進めてもらうために、家具をはじめ、こまごまとした物品の移動作業や廃棄作業が続いている。私の仕事場は、すでに荷物でいっぱいだが、このあとも大物をいくつも“収納”しなければならない。私の仕事場にも工事を必要とする箇所があるので、その周辺はカラッポにしておかねばならない。仕事場としての“機能”だって、気持ちだけは保っておきたい。これらの事柄をすべて満たすのはかなり難しくて、じつに悩ましい。作業はノロノロとしか進まない。知力、体力の衰えが露呈する。無理が効かない。
そんなとき、思いがけず、大量の荷物の隙間に、木下直之『私の城下町 天守閣からみえる戦後の日本』(筑摩書房、2007年)が顔を覗かせていた。
思わず取り出して、これ面白かったなあ、この人の本はどれも面白いよなあ、とつい読み始めてしまった。例によって、面白かったという記憶はあっても、中身を忘れてしまっていたのである。
話は、著者・木下氏の祖父母を木下氏の父親が1953年に撮った写真のことから始まる。その写真は、木下氏が育った部屋にずっと懸けられていたという。日比谷の濠の前での写真である。背景の濠のさらに向こうに第一生命館が見えている。この写真が撮影された一年前、つまり1952年には、まだ、この建物の屋上には星条旗が翻っていた。1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効まで、日本は連合国軍の占領下だったのである。第一生命館にはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が置かれていた。日本の独立回復の日=サンフランシスコ講和条約発効の日=4月28日から星条旗が翻ることはなくなり、その三日後の5月1日には「血のメーデー事件」が起こって、写真の祖父母が立っていたあたりも騒然としていた。‥‥と巧みに話は続いていく。
そもそも、「皇居」はもともと、「江戸城」ではなく、「御城」(おしろ)と呼ばれていたらしい。その証拠に、江戸時代のどの地図にも「御城」と書かれているという。「江戸城」というのは現代の呼び名だったのである。江戸が「東京」となって「東京城」、やがて「皇城」となったらしい。そして「皇居」となったわけだが、つまり、もともと「御城」だったので、『わたしの城下町』という本が、自らの祖父母の姿をとどめた一枚の写真の話から始まった理由が、なるほど、このあたりで明らかになる。
この本は、こうして皇居や皇居周辺をめぐる話から始まって、小田原、熱海、、、と次第に南下して、首里城に至る。
読んだのは二度目だったが、今回も満足した。この本に従って、せめて皇居周辺とかを散歩してみるのもいいかもしれない。
数日後、東京駅に降り立った。皇居前広場を例えば銅像を巡りながら散歩しようというのではない。目指すは八重洲口③バス停。このバス停のことは『わたしの城下町』には出てこない。私は、千葉県佐倉市にある「DIC川村記念美術館」まで、③バス停からバスに乗って行くつもりだったのだ。「カール・アンドレ 彫刻と詩、その間」展見物である。
時間通りにやってきたバスに乗り込み、バスは順調に走り、その間、年配のご婦人の四人組が果てしなくおしゃべりを続け、「DIC川村記念美術館」で私はバスを降りた。ほとんど全ての人も降りた。四人組のご婦人たちも降りた。