藤村克裕雑記帖252 2024-01-22
「みちのく いとしい仏たち」展を見た
この展覧会のポスターやチラシのインパクトは、かなりのものだ。私も、これ、行ってみよ、と思わされてしまった。が、例によって、つい繰り延べにしてきた。会期はまだ残っているとはいえ、このままではあっという間に終わってしまう。で、頑張ったのだ。1月18日(木)午前に訪れてみた。東京ステーションギャラリー。
面白かったが、予期せぬ複雑な気持ちを抱えこむことになった。モヤモヤする。
そのポスターやチラシの中央には、確かに信じがたい形状の木彫の像を正面から捉えた写真が白地の紙にそこだけカラー印刷されている。
さらに、用紙の右上のヘリに添うようにして、ほぼ“曲尺”状に、黒の角ゴチック体で「みちのく いとしい仏たち」と展覧会タイトルを配している。しかもご丁寧に、「いとしい」の中のふたつの「い」の字は、ふつうにそのまま「い」の字の角ゴチック体を用いず、「し」の字をやや縦長にし、これと「つ」の字を立てた形状とを組み合わせて作った(らしき)「い」の字の“新書体”を用いて、「いとしい」ということを増幅させている。
さて最初のモヤモヤである。
それは、このカラー印刷された「いとしい」像は、実は「いとしい仏」の像ではなく「山神」の像だった、と展示を見てから知ることになった、ということであった。
確かにチラシの裏面には、この像の斜め上から撮った小さな写真図版について、「《山神像》」との極小のフォントでの記載がある。とは言え、この展覧会のタイトルは、「みちのく いとしい神仏たち」とでもしておくべきではなかったか? と私は思ったのだった。こうして、自らの不勉強を尻目に、モヤモヤが始まってしまったのである。
やがて、展覧会タイトルに「The Beloved Gods and Buddhas of Northeastern Japan」との英文表記が小さく必ず添えられていることに気がついて、これは一体どゆこと? と私はさらにモヤモヤしたのであった。(私のようなモヤモヤ爺さんからのしつこい“クレーム”を封じるためのアリバイ作り?)
それはそれとして、呆れる形状の「山神」の像である。作品番号は10。江戸時代。岩手県八幡平市=兄川山神社所蔵。一木造。高さ78cm。
会場では、この「山神」の像の現物とまみえるまでの間、参考図を含めて複数の「神像」や「仏像」と遭遇する構成になっている。そうした構成の根拠を、図録ではこう説明している。
・古代中世の日本で神に対する信仰と仏教への帰依が両立していたことはよく知られ、神仏習合、本地垂迹といった概念で説明される。
・(東北地方の場合)ホトケとカミどちらが優先したかではなく、聖なる場所にまつられるものは等しくありがたい存在で、場に宿る霊性の顕れと認識していた。
・(その例として)十世紀末の青森市の新田遺跡の出土品は当時の信仰状況をフリーズした感があり、仏像とも神像とも断定し難い像と一緒に仏像の手や火焔後背の断片、檜扇さらに多数の斎串が出土していて、習合どころでない様子がうかがえる。
ゆえに展示冒頭に「ホトケとカミ」というセクションを設けていた、というわけだ。こうした事情が「みちのく」では江戸時代、明治時代まで続いた、と。なるほど、、、。
もう一つ。図録冒頭の主催者の「ごあいさつ」に、「民間仏」とか「地方民間仏」という言葉が登場する。
「江戸時代、列島各地のどんな小さな村にも、上方や江戸から求めた立派できれいなご本尊がまつられて」いた一方、「村の人が村の木で仏像や神像を刻み」、それらは「粗末な」ものだが「ご本尊には話せない日々のささやかな祈りやつぶやきの対象」であったが、村や寺が整うにつれてそれらの多くは消えていった。が、それら「粗末な」「仏像や神像」は、「みちのくにはまだ残っていて」、それらを指し示す言葉が「民間仏」や「地方民間仏」である、と解釈できる。(図録巻頭に収録されている須藤弘敏氏(弘前大学名誉教授)の「暮らしに寄りそう仏たち」によれば「地方仏」という言葉もあるようだ。)
平安時代以来、めんめんと連なる仏師やその工房、それから、彼らの末端の町仏師たち(つまり職業仏師たち)は、お経に定めている規則に従って仏像を作り上げてきた。これに対して、江戸時代には、円空や木喰などの造仏聖が作る“自由”な仏像も現れるようになった。が、彼らは皆僧侶=専門家だった。
これら僧侶が作る仏像に対して、一般人が作ったものを指して「民間仏」とか「地方仏」「地方民間仏」「みちのく民間仏」と呼んでいるらしい。ならば、なぜこうした言葉を避けて「みちのく いとしい仏たち」としたのだろうか? とまたまたモヤモヤが生じてきた。
加えて、ここには、「ニコニコ」「粗末」「稚拙」「すなお」「やさしい」などの言葉がかぶさってくるではないか。「きっとあなたを笑わせ泣かせます」というように。
こうした言葉を図録からさらに拾い出してみよう。
「楽しい姿」「微笑を浮かべ」「気取りのない姿」「おおらかであたたかい」「かわいい」「笑みをたたえた」「独創的」「個性的」「ぎこちなさ」「不慣れ」「朴訥」「仏像離れした顔立ち」「愛らしさ」「荒っぽい」「笑みを誘う」「あかぬけない」「おだやかな」「切なさ」「ほほ笑む」「簡素」「素朴」「愉快そう」「ふてぶてしい」「ちぐはぐ」「荒い」「やっつけ仕事」「無骨」「やさしさ」「かなしい」「やさしい」「大ざっぱ」「切実」「素朴で単純」「簡略」、、、。
これらのうちとりわけ「かわいい」という言葉が会場パネルや図録に頻出する。こんなに繰り返し「かわいい」を連発したのでは、かつての女子高生みたいではないか。というか、こんなにまでして鑑賞者の鑑賞を誘導しなくてもいいではないか、とさらにモヤモヤがつのる。「ブイブイいわせる」なんてタイトルのセクションもあった。どゆ意味?
図録には、「なぜみちのくの民間仏はかわいいのか」と問うて、「祈り見つめる根底に辛さ切なさくやしさがあるからです」との一文があって、なるほど、これが結論か、、、と思ったのだったが。
ともかく、ポスターやチラシに大きく登場していた「山神」像の現物と実際に会場でまみえると、ポスターやチラシでその姿をすでに知っていたからかどうか、想像していたほどのインパクトを覚えることはなかった。むしろ、大変な繊細さとある種の合理性の所在が目を奪ったのである。
例えば顔(像全体の高さの三分の一ほどの寸法を占める頭部の大部分が顔である)。
頭部の一番上には仏像でいう「螺髪」のような凸凹を備えた髪部が作られている(これゆえに「いとしい仏」の像と私は思い込んでいた)。その頂点=頭頂部は、中心軸というか正中線で言えば向かって左側にずれている。が、まあ、そう気になるほどではない。そして、額、こめかみ、耳の後ろ側を経て首筋へと連なっていく髪の生え際が、くっきりとした段差で線的な境界を示していて、そこにはまったく“揉み上げ”がない。極端な“テクノ・カット”である。その決然とした髪型は清々しいほどだ。現代日本で言えば、歌手・細川たかし氏のあの髪型だけが対抗しうるだろう。(残念ながら、図録にはその様子を捉えた図版は掲載されていない。)
そうした”明快な”境界線から顔がはじまる。極端に狭い額、沈め彫ふうの眉毛とやや垂れた目。これらが上方に集まっている。そこから細くて長い鼻が下方に伸び、その下にちんまりと横一線に彫り込まれて口。そして几帳面な下唇が暗示されている。耳は小さく、左右の高さが違っていてなんと頬骨あたり付いている。
これらの顔の“部品”は、丁寧すぎるほど丁寧に作られているが、決して写実的というか、顔というものの観察に基づいた形状とはいえず、記号の域を出ない。出ないが、寄せ集まってなんとも言えない表情をしている。
そして、あくまでもスベスベの肌。とりわけガッチリとした下顎あたりにうっすらと見える木目。これがいい。「一木造り」の像だから、木目は下顎だけにではなく首や喉にも衣紋を備えた胴体にもあらわれている。その一連の木目の流れの表れが実に繊細で素晴らしい表情を作り出している。木目の流れは、下顎のたくましい“エラ”と直立した愛想のない首との対比で一層強調され、ムーヴマンさえ作り出して、やがて両方の薄い“怒り肩”で受け止められている。
その“怒り肩”を備えた胴体は、扁平な縦長の箱のようだ。ここには合掌する上肢や衣紋が刻まれているが、肘から手までの手前の“面”を彫り残し、他の“面”を肘から肩の方へと僅かな傾斜を持って彫り進んで、結果、合掌した肘から先の合掌した手や二の腕の形状を強調することになっている。衣紋は必要最低限の彫りで、それは同時に肩から肘への袖の流れと肘から先の下方への袖の表情とを対比させる役割も果たしている。下がった両袖の間を繋ぐように、腰紐であろうか、横方向へ線的なつながりを作って、胴体や腰という部位のまとまりをひき締めている。ただし、腰の位置などは曖昧にされている。
この下方には、ニッカポッカ状の“ズボン”の直立した下肢。短い。その上方の扁平な箱状のまとまりの縦の寸法の半分ほどの長さである。
と、ここを書いている(打ち込んでいる)ときに、あるきっかけで読み直した本に、こんな文章を見つけた。
「私が、かつて見た田圃で働く人の背中は、薄い板状のもので、それに着物を引っ掛けているといった風情であった。背中からすぐ足がくっついているといった感じのものだ」(土方巽「内臓の人」、現代詩文庫37『三好豊一郎詩集』所収、思潮社、1970年)。
土方巽は1928年生まれ。19歳で上京するまで秋田で育った。だから、ここに書かれた「薄い板状の」背中の持ち主たちは、秋田=つまりは東北の農民たちの姿だといえる。
展示されていた「山神」像は背中を見せてくれてはいなかったが、その胴体が「薄い板状のもの」で(私は「縦長の扁平な箱のよう」としたが、箱では中が空洞であり、確かにこの「山神」像には適切ではなく、「板状のもの」という方がふさわしい)、腰の所在が曖昧で「背中からすぐ足がくっついている」、というところなど、土方巽のこの一節とピッタリと重なるものがあり、心底驚かされた。すごい!
そんなわけで、「山神」像に戻ると、実に丁寧に作られており、作られたあとも大切に扱われてきただろうことが伝わってくる。丁寧なだけではなく、合掌する上肢とその周囲の作られ方を観察すれば、そこに合理性も見て取れる。合掌する上肢のために、その周囲を掘り込んでいるのだ。とりわけ両肘から両肩へ向けて徐々に奥へと彫り込んで傾斜を作りながら、肩から肘への表現を行なうとともに、肘から先の合掌する手への表現を支えていることには注目せざるを得ない。肘から下方に垂れ下がる袖の表現に際しても必要最小限の掘り込みだけで済ませようとする省エネの合理性の所在が見て取れ、ここは大変重要だと思われる。単純に「素朴」ではないのだ。
これらの事柄は、この像のあまりの形状に呆れるとか、展覧会のタイトルがどうとか、訪れた観客の鑑賞を誘導しすぎるのはいかがなものか、とかのモヤモヤ問題などを軽く凌駕してしまっている。この繊細さ、合理性は只事ではない。
展示されているのは「山神」像だけではない(出品総数134点)。が、私はもう疲れてしまった。これを読んでくださっていて、まだ訪れておられない方は、ぜひご覧になられるとよいと思う。
この展覧会が決して人集めのための“面白主義”で構成されたのではなく、きちんとした意味と意義があることは図録巻末に掲載されている矢島新氏による「民間仏の発見」という文章で納得がいく。この展覧会を監修した弘前大学名誉教授の須藤博敏氏の人となりを含めて的確な紹介がなされている。この展覧会自体が須藤氏の長年の研究成果に基づくものだという。こういうことは、図録冒頭できちんと述べておくべきであろう。またモヤモヤしてくる。
そんなわけで、すでに述べた「かわいい」や「ブイブイ」だけでなく、図録のデザインにもモヤモヤする。収録されている図版で、ここを確認したい、と思ったところが捉えられているものはたったの一枚もない。図録表紙では「い」の字の”新書体”は使われていないが、銀色の縁取りが加えられているし、角を丸く裁断している。お金がかかっただろうに、、、。
(1月22日、東京にて)
画像1~3会場外ポスター
画像4 図録
みちのく いとしい仏たち
2023年12月2日(土) - 2024年2月12日(月)
会場:東京ステーションギャラリー
休館日:月曜日[1/8、2/5、2/12は開館]、12/29(金)~1/1(月)、1/9(火)
開館時間:10:00 - 18:00 ※金曜日は20:00まで開館 ※入館は閉館30分前まで
公式HP:https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202312_michinoku.html
立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
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