藤村コラム222 2022-08-29
笠間、茨城県陶芸美術館「井上雅之展」
「井上雅之展」の会期終了が目前であった。井上氏とは古くからの知り合いである。この大きな展示は見逃せない。8月25日朝、笠間を目指して電車に乗った。
昔々、私は、「どばた」と呼ばれる目白の美術予備校で、3年半の間、非常勤の講師をしていたことがあった。
なぜ、「3年半の間」と「半」がつく半端な期間だったのか? それは9月からの中途採用だったからである。
前任者の“新人”が一学期だけで辞めてしまったとかで、急遽私が雇われたのだった。私だってれっきとした“新人”だったが、コース主任の数野繁夫さんは、その前任者が担当していたクラスをそっくりそのまま私が引き継ぐように、と言った。そのクラスの学生たちの中に井上氏がいたのである。だから、氏と知り合ってから40年以上になる。
クラスの二十数名の一人一人が実に個性的だった。誰もが美大で勉強したいのに合格できなくて、“予備校”と呼ばれる場に高額の授業料を払って身を置いている。なのに、夏休みが終わったらクラス担当が急に代わっていて、見ず知らずの私が急に現れたのだから、彼らには迷惑なことだっただろう。
私にしても、勝手がわからず、無手勝流たらざるをえなかった。実に濃密な時間を過ごさせてもらった。
幸い、じきに彼らは私を受け入れてくれて、本当にいい奴らだった。今だったら、もっときちんと彼ら一人一人の役に立てたのではないか、と考えることもあって、忸怩たるものがある。が、もう絶対に引き返せない。
出会ってから半年後、井上氏は多摩美術大学に入学していったが、入学までの“春休み”にお母さんと一緒に「どばた」に挨拶に来て、それも記憶に残っている。
タマビでは油絵のコースに陶芸のコースが併設されているので、今はあまり絵を描かずに陶芸をやってます、と当人から聞いたことがあった。私が発表活動を始めた頃だっただろうか。油絵コースになぜ陶芸コースが併設されているのか分からないながら、へえ、そうなんだ、と思ったのを覚えている。
その何年か後、やはりその「半年間」、私のクラスにいて井上氏と同じ春に愛知芸大に行った丹下敬文氏から、井上が頑張ってるらしいよ、と聞いたこともあった。
丹下氏は卒業後、東京で仕事していた時期もあったが、やがて名古屋に“戻って”今も名古屋に住んでいる。名古屋の丹下氏から東京の井上氏の近況を聞かされたワケだ。ともかく、その頃には井上氏は着実に頭角をあらわしていたのだろう。
氏の作品をジカに見たのは、それからさらに時間を経てからだった。確か、「現代陶芸」というか、「クレイワーク」という括りで構成した企画展でだった。どこかデパートのようなところを会場にしていたような曖昧な記憶である。その展覧会には、真鍮で大きな螺旋状のパイプを作ってそれに一抱えの素焼きらしき“球”をいくつも取り付けたような作品もあったから、随分柔軟な枠組みの展覧会だったのではないだろうか。何かの宣伝媒体に井上氏の名前を見つけて出かけて行ったはずだ。
その時には、すでに彼のスタイル(別の複数の作品の断片、というか破片、を集めて、構成していくスタイル)は出来上がっていて、神戸生まれ神戸育ちの氏の垢抜けた色や形のセンス、その良さが十分に見てとれて、なんだか嬉しくなって手紙を書いて送った記憶がある。
その後もたびたび彼の作品には触れてきたが、まとめて見るのは今回が初めてだ。
最初期の1982年の作品から今年2022年の作品まで、出品リストによれば70点近く。マケットやドローイング、リトグラフもあったが、大きな作品が多かった。
よくもまあ、こんなに重たそうなでっかいものを作ったものだ、と美術館の各所に展示されているそれらを見物しながらメイン会場の「企画展示室」に入ると、今度は、よくもまあ、こんなにたくさん作ったものだ、とさらに感じ入ることになった。ただし、金網で形状を作ってセラミックファイバーなる素材を貼り付けて造形し、釉薬を施した後、バーナーで炙って“焼き物”あるいは“焼けモノ”にした1980年代の終わり頃の大きな作品のシリーズは含まれていなかった。
展示されていた作品群から大雑把に氏の作品のいくつかの展開をみてとることができた。
まず、中村錦平氏のもとで夢中でロクロ成形に向かいあっていた時期の小ぶりな作品。おそらく磁器ではないか、と思うが、ロクロはもちろん絵付にも正面から向かい合っている。しかし、逆さまに置いたり(おそらくそうであろう)、一部に穴を開けたり、金継ぎのような表情を作ったり、とすでに「陶芸」を対象化しているというか、柔軟な姿勢を見せている。この時期のものをもう少し見たい気がした。
次に、ロクロ成形したものが何かのワケで壊れて破片化しているのに注目した時期。それを作品に取り込みつつある試行が興味深い。
複数の単位を組み合せるに際しては、まず大きいものから小さいものへと順に上方に積み上げていくことから試行していたように見える。それが次第に二つの“台=太った橋脚”の上に細長い形状をさし渡してまるで“橋”のようにしたり、“台”に依らず例えば3つの接地点を保持しつつ自立するように作品を構成していく。破片部のその断面部にも施釉されているところがミソだろう。
部分=単位どうしの接合部をどう処理しているのか、私には分からない。瞬間接着剤を使うことも氏なら厭わないだろうが、2度焼き3度焼きしているのかもしれない。
1980年代後半の金網やセラミックファイバーという素材や釉薬による“焼けモノ”の自立した大型作品を踏まえて、粘土での作品も大型化していく。ロクロでの成形が手がかりになることは学生時代から一貫している。陶芸作品の大きさはどうしても窯の大きさに制約されるが、部品どうしを繋ぎ合わせるという方法に依るなら、部品が窯に入ればいい。つまり、作品はいくらでも大きくできるわけで、井上氏はそこに気づいたわけである。
複数の部品を形状として構成していくことは、氏には“お手のもの”なので、繋ぎ合わせに金具やボルトを導入することにも抵抗は無かったのではないだろうか。とはいえ、初期には金具が目立たぬような処理が施されている。さすがに遠慮がちだったのであろう。それが、だんだん、金具も作品の一部として堂々と示されるようになる。
作品の大型化に伴う大問題がもう一つ、重さのことである。自分一人で持ち上げて動かせるかどうか。持ち上げうる重さを超えるとその後の各種の作業が厄介になる。大型化すれば重くなるが、そこをどうするか。大きな作品の一つ一つのがその解決法を示している。
やがて、氏はロクロから離れて、タタラ作りによる箱や筒を基本単位とした大型作品に移行、展開していく。単位どうしを金具やボルトで繋ぐという方法は変わらないが、求める(実現したい)全体の形状のために、乾燥までの間に何かしらの支えの道具を準備しての造形、と言っていいだろう。この作り方は現在も継続する制作の中心に据えられているように見える。
2022年の新作群の中には、一抱えの大きさの球状の、その表面が“閉じた”黒い作品が複数登場していて注目した。隙間や空洞のある部品相互を繋ぎ合わせて作るのではない作品、“閉じた”表面の塊状に見える姿の作品が登場してきているわけだ。ふと、フォンタナのセラミック作品を連想したが、もちろん井上氏の“閉じた”表面のどこにも裂け目はない。この方向が今後どう展開するか、興味深い。
総じて、生き物めいた表情を湛えた作品群である。あるものはカタツムリとか貝とかの軟体動物の姿を想起させ、あるものは脊椎動物の骨の集合体を想起させている。
水を含むことで可塑性に富む粘土が、乾燥後、窯の高熱を得て溶け、ゆっくり冷えて“石”になる。それが陶芸という営みのキモであろう。窯は人工のマントルやマグマ。マントルやマグマを内部に抱いた地球。その地球の入れ子としての窯。その窯を巧みに用いながら、石で有機体や生命体のイメージを造形しようとしてきたワケである。
なんでも、氏は、近年、定年前にタマビのセンセイを辞めたのだそうだ。そのことを心から寿ぎたい。
(2022年8月26日、東京に帰宅して)
「井上雅之描くように造る」
会期:6月11日(土曜日)~8月28日(日曜日)※すでに終了しています。茨城県陶芸美術館
立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
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