藤村コラム221 2022-08-22
上野・国立西洋美術館に行ってきた
夏だから暑いのは当たり前だが、最高気温が35℃くらいでもあまりびっくりしなくなっている自分が怖い。とはいえ暑すぎて、つい動きがカンマンになっている。それでも、午後からの豪雨に注意、とテレビの気象予報士が言っている日の、その午後に、傘を持って上野・西洋美術館に行ってきた。「国立西洋美術館リニューアルオープン記念『自然と人のダイアローグ』フリードリッヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで」展。
ドイツにエッセンという街があって、そこにフォルクヴァング美術館という美術館があるのだそうである。なんでもその美術館はカール・エルンスト・オストハウスという人のコレクションをもとに設立されたらしく、松方幸次郎のコレクションをもとに設立された国立西洋美術館との間にはそういう共通点があるらしい。加えて、オストハウスさんと松方さんとはほぼ同世代だった、ということもあっての企画、ということであった。フォルクヴァンク美術館のコレクションから約40点、残りを国立西洋美術館のコレクションから選んで、総数約100点で構成している。ふだん見慣れた国立西洋美術館のコレクション作品も他の美術館所蔵の見慣れぬ作品を横に置けば、その見え方や解釈が変わるのではないか、ということのようである(私の考えでは、そんなことでは変わりっこない、と思われる)。改修工事終了を記念しての展覧会でもある。改修で、特に美術館前の広場がガラリと変化した。
ところが、私は解説文もキャプションも全く読まずに、へえー、とか、ふーん、とか言いながら、ざっと“流して”見てしまった。2000円の入場料のモトを取ろうとするような見方ではなかったのである。それには途中から気がついていた。が、そのままであった。如何ともし難かった。“暑さ疲れ”というやつであろうか。
それにしても展覧会の入場料が高くなった。ビンボー人がおいそれと出かけられる値段ではない。なんとかしてほしい。
“流して”しまったとはいえ、足を止めて、遠近両用メガネを全面老眼鏡に掛け替えて見入った作品がなかったわけではない。ロドルフ・ブレダンの版画作品は出品作全部が国立西洋美術館の所蔵だが、じっくり見入ってしまった。国立西洋美術館所蔵の作品だと、ちょっとソンをした気分になるのが私の貧乏性を露わにしている。純粋な気持ちで作品を見たいものだが、ソンとかトクとか、そういう雑念が邪魔をしてくるのである。
ブレダンの作品の前でなぜメガネを掛け替えたくなったか?
老眼の度が進んで、昔作った遠近両用では近くが見えにくくなった、ということもあるが、遠近両用だとピントの合う視野が狭いので、ロボコップのように頭を動かして視線を変えていく必要がある。それが煩わしい。全面老眼鏡だと頭を動かさずに目玉だけを動かせば画面のどこでも詳しく見ることができる。どこまでも細部に分け入っていけるし、分け入った先から別のところへ、と視線のジャンプがたやすい。ブレダンの作品はそういうことを促してくる。いつ出会っても、いいなあ、と素直に思う。今回も堪能ということをした。
ベックリーン『海辺の城(城の中の殺人)』、ゴーガン『扇を持つ娘』やイヴ・タンギー『恋人たち』は、日本ではなかなか見ることのできない珍しい作品だろう。とりわけ、ゴーガンの『扇をもつ娘』は、へえ、ゴーガンもこういう絵を描いていたの? という驚きを持って見た。素直な純然たる肖像画といえるものだったのである。
チラシなどでの呼び物の一つ、ゲルハルト・リヒターの『雲』は、モネの隣にアッケラカンと特別扱いされていたが、私はほぼ素通りしてしまった。竹橋の東京国立近代美術館でのリヒター展も見たが、これまた素通りしてしまったような記憶である。むしろ、上階のコレクション展に並んでいた小磯良平の戦争画が強く印象に残っている。呆れるくらいの「上手さ」だったのである。
リヒターを素通りしたあとの私は、二点のセザンヌの前にしばしたたずみ、ゴッホ『刈り入れ(刈り入れをする人のいるサン=ポール病院裏の麦畑)』の前で長い時間を過ごした。
ドイツからやってきたセザンヌの作品は『ベルヴュの館と鳩小屋』と題されているが、どれが鳩小屋なのか分からない。というか、分からなくて良い。いかにも後期のセザンヌらしい絵だった。あまり見たことのない縦方向の短いタッチが連なって、青空、建物、樹木の茂み、小道、草が描かれている。各所に塗り残しがあるが、いかにも自然で、セザンヌの目の運びのようなものが伝わってくる。サラリと描かれているようでありながら、一つ一つの色のタッチが的確で実に気持ちがいい。途中経過のようにも見えるが、十分な完成度がある。というか、どの時点で作画が断ち切られても完成している。隣に展示されていた国立西洋美術館所蔵の『ポンとワーズの橋と堰』も魅力的だが、二点並んでいると、どうしても初めて見る方の作品に目が捉えられてしまう。これもまた貧乏症だったのだろうか。ともかく、十分に堪能ということをさせてもらった。
ゴッホの『刈り入れ(刈り入れをする人のいるサン=ポール病院裏の麦畑)』は、この展覧会の宣伝用のチラシに大きく掲載されている。アルルを引き払ってサン=レミの病院へ入院してからの絵である。このサン=レミ時代に、確かゴッホはミレーやドラクロアの絵を“模写”したり、病室から見える麦畑を描いたりしている。また、外泊はともかく外出は比較的自由だったようで、病院の周辺も近所もたくさん描いている。そうしたなかの一枚である。病室の窓越しに描いている(らしい)。
とても不思議な絵だ。日没間際の太陽が大きく描かれているのに、逆光で生じているはずの陰も影もない。というか明度差で陰影は描いていない。そのことも不思議なのだが、改めて考えてみるとゴッホが描いたものや光景は全く特別なものではなくて、その辺りにありふれていたものや光景なのである。そこが不思議なのだ。数冊の本が置かれているだけのところとか、履き古した作業靴が並んでいるところとか、一体誰が絵にしようと思っただろうか。しかも、他に追従を許さないほどの絵に描き上げている。
例えば私が、収穫期の麦畑の前に放り出されても、ああ、これを描きたい! と思うだろうか。思わないだろう。そこが才能の違い、といってしまえばその通りなのだが、改めてゴッホという人はすごいなあ、と思うのであった。出品されている絵と同じような絵は確か数枚あったはずだし、同じ麦畑を描いた絵は何枚もあったはずだ。それはなんだか、子供が夢中で何枚も何枚も同じキャラクターやロボットや乗り物などを繰り返し繰り返し描くことと同じようにも思えるが、ゴッホは遥かに意志的にそれをやっている。そのことに改めて目を見張った。
企画展から常設展を一巡りしてかなり疲れ切って美術館を出ると、予報の「豪雨」どころか、空が真っ青に広がっていて、太陽の光が目に直接飛び込んできた。視界がノルデの絵のようになって、思わず傘を忘れそうになった。(2022年8月18日、東京にて)
国立西洋美術館リニューアルオープン記念
自然と人のダイアローグ フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで
●会期:2022年6月4日(土)〜9月11日(日)
●会場:国立西洋美術館 ●開館時間:9:30〜17:30毎週金・土曜日:9:30〜20:00※入館は閉館の30分前まで
●観覧料金:一般2,000円、大学生1,200円、高校生800円※展覧会は事前予約制(日時指定券)を導入。展覧会公式サイトのチケット情報外部リンクご覧ください。※中学生以下は無料※心身に障害のある方および付添者1名は無料(入館の際に障害者手帳をご提示)公式HP:https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2022nature.html
立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
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