立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
「ルイーズ・ブルジョワ展」に滑り込んだ
1月15日(水)、午前10時過ぎ、地下鉄・六本木駅に降り立ち、森美術館での「ルイーズ・ブルジョワ展 地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」を、滑り込みで見物した。確かに“地獄”を見てきたであろう作家の展覧会なのだが、この長いサブタイトルは、ルイーズ・ブルジョワの作品のひとつからの引用なのである。が、それだけではなく、観客の次のような感想を引き出すための仕掛けなのだ、とさえ感じさせられた。
“ルイーズ・ブルジョワ展から帰ってきたところ、言っとくけど素晴らしかったわ”。
もちろん、“素晴らしかったぞなもし”、でも、“素晴らしかったべさ”、でも、他の言い方でもまったく構わないのだが、私は、まんまと美術館のこの仕掛けに乗せられてしまった。この展覧会は素晴らしかった。ぐうの音も出なかった。
何が素晴らしかったか?
ひとつひとつの作品への作家の圧倒的な集中度。そこに込められた作家の繊細さ、それを支え抜く作家の強さ。そして透徹した知性。
ルイーズ・ブルジョワといえば、私の場合、ただちに思い浮かぶのは「眠りⅡ」1967年や「花咲けるヤヌス」1968年や「少女(可憐版)」1968−1999年のような、どうしたって人間の性器を想起させる彫刻作品や、布を縫い合わせて作った頭像などのちょっとこわい人体彫刻や、どろどろした赤いドローイング群だった。ある時、「C.O.Y.O.T.E」1947-49年(1979年に改題、ピンクに塗装)を何かの本で知ったときは、意外に感じてすごく驚いたことを覚えている。1997年の横浜美術館での「『ルイーズ・ブルジョワ』展」は見ていない。森美術館へのアプローチにある巨大な蜘蛛の彫刻はさすがに知っていたが、しげしげと見ることもなく、ルイーズ・ブルジョアについても不勉強で、ほとんど何も知らずにここまできた。ふと気付いた時、いつのまにか年配の女性作家がぐいぐい頭角をあらわしてきていた、といった程度の認識だったのである。これは、とても恥ずかしい。じつは大変なキャリアの持ち主だった。
コラムINDEX
埼玉県立近代美術館で「没後30年 木下佳通代」展をみた
次の日(1月8日)は快晴。JR北浦和駅に降り立って、埼玉県立近代美術館「没後30年 木下佳通代」展に滑り込んだ。
関西(=神戸)を拠点に活動した木下佳通代氏がすでに亡くなっていたことや、亡くなって30年経っていたことさえまったく知らずにきたが、私の学生時代、この人の作品は美術雑誌などで頻繁に紹介されていた印象があって、この際、私自身のことを振り返る意味でも、その活動の流れを知っておきたい、と思ったのである。
展覧会は、木下氏の学生時代の作品から絶筆まで網羅的に展示されていて、資料展示もあって、丁寧に作られていたが、木下氏が絵画に回帰したという1982年以降1994年に亡くなるまでのあいだに限っても、通し番号で800の作品やドローイングを残したというし、それ以前の作品やドローイングを含めれば、総作品数は1200点以上になるというから、とてもそれら全て(=文字通りの全貌)を展示することは不可能で、大まかな歩みを示すにとどまったようにみえた。
だからかどうか、なんだか物足りない、という印象を抱えて帰路に着いた。
木下佳通代氏は1939年神戸市生まれ。中学生の時に油絵セットを買ってもらって美術部に入部し、高校で美術部の部長になったほどに絵に親しんだ。現役で京都市立芸術大学西洋画科に合格し、1962年の卒業後は神戸の中学校の教員をしながら制作・発表活動を続けた(発表活動はすでに学生時代から始めている)。この間、高校時代、文化祭で他の高校の美術部部長だった河口龍夫氏と知り合って、交際を続け、1963年に結婚した。結婚生活は短期間で終わったようだが、その間、河口氏らが1965年に結成した「前衛美術集団・グループ〈位〉」と行動を共にした(ただしメンバーではなかった)。離婚の時期が展示でも図録でも特定できないが、図録に掲載されている中村史子氏編の「年譜」には、1968年の項に「この頃までグループ〈位〉は活動を続けるが、木下は河口龍夫と袂を分かつ」とあるので、このあたりと考えていいだろう(私=フジムラは、以前勤務していた学校で河口龍夫氏ともご一緒したので、ご当人の風貌や身のこなし、語り口に直接触れている。しかし、不勉強で河口氏の作品やその展開については詳しくなく、今、資料も手元にない。お二人がご夫婦だったことも全く知らなかったので、ちょっと驚いた。同時に、なるほど、という気持ちが生じたことも白状しておく。なぜ、なるほど、なんだろう、という疑問が生じるがここでそこには触れない)。1970年にグループ〈位〉のメンバーだった奥田善巳氏と結婚。ふたりで喫茶店を営んだらしい。1971年、移転した場所で「美術教室アートルーム・トーア」を開設。これを主宰しながら制作と発表活動を続けた。1990年に乳がんの告知を受け、手術以外の治療法を求めて国内各地、ロスアンジェルスに複数の病院を訪ね、ロスアンジェルスの病院で治療を受けながら制作に励んだ。が、1994年神戸の病院で死去。55歳は若すぎる。
展覧会は三つの章で構成されていた。
雨模様の寒い日、「谷川さんの家」の方へ行ってみた
さむい、さむい、と言っているうちに、詩人・荒川洋治氏の「◯◯◯◯◯はさむい」というあの有名なフレーズを思い出したのだが、「◯◯◯◯◯」のところをどうしても思い出せない。こんなはずはない、と思うのだが思い出せない。
いつか古本屋で激安で買った『荒川洋治全詩集』を探し出して、さらにその中の『水駅』のところを探すと、あった。
「◯◯◯◯◯」には「口語の時代」と入る。
「口語の時代はさむい」。
「見附のみどりに」という詩のおしまいのほうに出てくる。
こうだ。
見附のみどりに
まなざし青くひくく
江戸は改代町への
みどりをすぎる
はるの見附
個々のみどりよ
朝だから
深くは追わぬ
ただ
草は高くでゆれている
妹は
濠ばたの
きよらかなしげみにはしりこみ
白いうちももをかくす
葉先のかぜのひとゆれがすむと
こらえていたちいさなしぶきの
すっかりかわいさのました音が
さわぐ葉陰をしばし
打つ
かけもどってくると
わたしのすがたがみえないのだ
なぜかもう
暗くなって
濠の波よせもきえ
女に向かう肌の押しが
さやかに効いた草のみちだけは
うすくついている
夢を見ればまた隠れあうこともできるが妹よ
江戸はさきごろおわったのだ
あれからのわたしは
遠く
ずいぶんと来た
いまわたしは、埼玉銀行新宿支店の白金のひかりをついてあるいている。ビルの破音。消えやすいその飛沫。口語の時代はさむい。葉陰のあのぬくもりを尾けてひとたび、打ちいでてみようか見附に。
晴天の日(11月17日、11月19日)のこと
ずいぶん多くの人たちが谷川氏のことを投稿していてそのことに驚いたが、PCを閉じ、ふと書棚に手を伸ばして、いつか古本市で激安で入手した吉増剛造『太陽の川』(小沢書店、1978年)という本を取り出して開いたら、まさにその開いたところに「阿佐ヶ谷の谷川さんの家へ」という文章があった。「谷川さんの家」って、谷川俊太郎氏の家のこと? 雑誌の写真図版で見たことがあるけど、きれいに片付いているんだよなあ、とか思って、しかし、あまりの符合にうろたえながら、つい読み出してしまった。
「阿佐ヶ谷の谷川さんの家へ、そう、昔はここに草原があって白い気球がぽっかり浮かんでいた。零歳から四歳くらいまでぼくはここに住んでいて戦争前夜の空気を呼吸していた。(略)」
と始まる吉増氏の10ページほどのその文章は、まさに谷川俊太郎氏の家に勝手に行ってみたこと=吉増氏に言わせると「谷川あるき」のことを書いていた。吉増氏が線路(中央線)を挟んで反対側に住んでいた幼い頃の記憶をたどりながらそこを前日に歩いてみたことも含めているので、時空が入り組んだ複雑な印象の文になっている。で、ここでは線路の反対側のこと=吉増氏の前日の散歩のことは省略。
「(略)「三彩」の編集者だった頃、隣にある谷川徹三氏のところに原稿を受け取るために行ったのが最初で、そのときもわたしは道に迷った。谷川さんの家附近は奇妙ないりくみかたをしていて、道に迷うと谷川宅を巻くようにしてさまようことになる。地下鉄南阿佐ケ谷駅から青梅街道をやや新宿よりにもどって右に折れ、ゆるい坂を下ってゆく少し低地のようなところに谷川さんのひらたい感じの木造の家がある。地形のせいだろうか、道が奇妙に枝分かれしていて迷うらしい。あたりには樹木も多くわたしは谷川さんのところにゆこうとして木立にそった細道を何度かゆききして迷った時の印象が強い。(略)新宿から「ゴワオワオワオと地下鉄がやってきて」(谷川俊太郎)それにのって南阿佐ヶ谷へやってきた。
(略)
「(略)地図はなし。谷川さんの御招待もなし。自分で「谷川あるき」と名付けているだけ。カメラと夏用の白いボストンバッグをもって。いや「地図」はこの詩。
煙草屋の角を右へ折れてください
足の悪い男の子が走ってゆきます
枯れかかった樫の木の下を通ると
ふと前世の記憶が戻ってくるかもしれません
道なりにゆるく小学校のほうに曲がって
(老人同士云い争う声が聞えるでしょうか)
訳もなく立ち止まってもいいんですよ
その時すれちがった一人の若い女の不幸に
あなたは一生立ちいる事ができないのです
でも口笛を吹いて下さって結構です
風がパン工場の匂いを運んできたら
十字路は気が向いたら左折して
ちょっとつまずいたりして石塀にそって
仕方なく歩いてくると表札が出ています
私はぼんやり煙草をふかしているでしょう
何のお話をしましょうか番茶をすすって
それともあなたは私の家を通り過ぎて
港のほうまでいらっしゃるのですか (谷川俊太郎「道順」)
やっぱり十分ほど迷って谷川家を巻くようにして杉並横丁の一隅谷川邸に出た。(略)」
そこで吉増氏は戸口に「犬の登録標が四つも」あるのを発見する。◯の中に「犬」という字=記号が縦書きの文中に四つ縦に並べてあるのが面白い。「ぼんやり煙草をふかしている」はずの谷川氏は不在のようす。
「(略)「道順」という詩にそって歩いてみるとおもしろいことに気づく。あの『道順』は谷川さんの家へ、ゆるやかなカーブをえがいて裏から入ってきて、戸口に出るようになっている。裏のほうは昔は沼地だったのか、幼い頃の谷川俊太郎氏の遊び場だったのか。「港のほう」という感じがよく判る。そのせいだろう小学校の金網越しに幻の塔もみえてきた。」
吉増氏のこの文章は、別の日、白樺湖畔での講演のために中央線に乗って信濃境駅を過ぎたあたりで感じたり考えたりしたことで終わっている。
今日(11月19日)の東京は、ちょっと寒いけどとっても天気がいい。こんな日は、この吉増氏の文章に従って「『ゴワオワオワオ』の地下鉄」に乗って南阿佐ヶ谷駅に降り立ち、吉増氏が「地図」として利用した詩を片手に、当てずっぽうに「谷川さんの家」の方へ散歩するのもいいなあ、と思った。
が、拙宅は今日も工事中。職人さんの仕事が終わらなければどこにも出かけることができないのだ。
その工事もやがて終わる。う、嬉しい。
「北川民次展 メキシコから日本へ」を見た
快晴の日曜日(文化の日)、田園都市線・用賀駅に降り立ってテクテク歩き出す。
象設計集団によるあの遊歩道は今も健在で、ほどなく国道に出て砧公園が見える。
せっかくだから樹々を愛でながら行こう、と信号待ちして国道を渡る。
公園に入って歩を進めれば、大きなクスやケヤキの堂々とした姿や木漏れ日が嬉しいはずが、奥に複数のテントがしつらえられていて人々が群がっており、拡声器からお姉さんの早口の大きな声がしている。拡声器だから大きな声は当たり前だが、イベントの真っ最中らしい。樹々どころではない。ホーホーのテイで世田谷美術館に逃げ込んだ。
チケットを買って、会場に入り、一点一点佇んで眺め入り、巡っていけば、ほう、こういう人だったのか、と興味深い。作品と資料、合わせて180点ほどが並んでいる、という。が、途中からなんだか時系列がよく分からなくなる。この人の経歴は複雑なのだ。とりわけ若い頃の移動はめまぐるしい。会場出口に掲げられていた年譜を参考に一度整理しておくことが必要だろう。
1894年静岡県生まれ。早稲田大学予科を経て、オレゴン州在住の兄を頼って1914年に渡米、しばらく西海岸で過ごすが、1916年シカゴを経てニューヨークに移り住む。働きながらアート・スチューデント・リーグで学び、1920年アメリカ南部へ向かう。1921年キューバに移るが、正体不明の日本人にお金やドローイングなどを入れたトランクを盗まれ、やがてメキシコ市に移る。1922年日本人医師を頼ってコスコマテペックに移る。1923年その医師と共に熱帯地方(ベラクルス州)に赴き、その後ひとりで放浪しながら絵を描き、メキシコ市で個展。1924年国立美術学校で学び三ヶ月で卒業。そこの校長からの推薦でチュルブスコ野外学校の画学生になる。1925年トラルパン野外美術学校の助手になる。1926年トラルパン野外美術学校に用務員として正式に勤務する。1928年国立芸術宮殿ギャラリーで個展。1929年二宮鉄野と結婚。1930年長女誕生。1931年ニューヨークでの「現代メキシコ作家とメキシコ派の作家展」に出品。シケイロスに会う。1932年トラルパン野外美術学校閉校、開校したタスコ野外美術学校に校長として勤務。メキシコを訪れた藤田嗣治との交友(翌年6月まで)。1935年シカゴ美術館内こども美術館で北川指導の子どもたちの「作品展」。国吉康雄、イサム・ノグチがタスコに来訪。1936年タスコ野外美術学校閉校、日本に帰国。
ここまでが主にメキシコで活動したおおまかな足跡である。会場には1921年作の油絵から展示されている。日本を離れてからメキシコを中心に22年経て帰国だ。続ける、、、。
1936年帰国後、瀬戸市(妻:鉄野の実家があった)に滞在する。1937年上京、豊島区長崎仲町(現千早町)に住む。二科展に出品、二科会会員。日動画廊で個展。1938年久保貞次郎来訪。1939年「海王丸」で沖縄、トラック諸島を巡る。長男誕生。1940年ニューヨーク近代美術館「メキシコ美術の2000年」展に「タスコの山B」が展示。1941年「コドモ文化会」を久保貞次郎らと設立。1942年絵本『マハウノツボ セトモノ/オハナシ』刊行。1943年二科会の活動停止。瀬戸市安戸に疎開。
ここまでが帰国後東京での活動の足跡だ。戦争、疎開、、、。藤田嗣治とは東京で再会したらしい。藤田1937年作の「北川民次の肖像」が展示されている。ご当人(北川民次)はこれを気に入らなかったようだ。
1944年瀬戸高等女学校の教員として赴任。1945年終戦。1946年再建二科展。1949年「名古屋動物園児童美術学校」開設。1951年瑞穂区に「北川児童美術学園」開設。
1955年1月メキシコ再訪。12月にニューヨークへ移動。1956年1月パリに滞在。スペイン、イタリアを経て5月に帰国。1965年以降壁画制作。1968年東春日井郡に移る。1974年妻の鉄野死去。1978年二科会会長。数ヶ月後に辞任、退会。筆を置く。1988年瀬戸市の病院に入院。1989年瀬戸市の病院で死去。
瀬戸市移住後のことは端折りすぎたかもしれない。
ともかく、早大予科時代に絵画に関心を持ち、やがて描き始め、日本を飛び出して20年以上を海外で生活と制作と続けて帰国し、戦争を経て、1978年に筆を置くまで、ほぼ休みなく活動したわけで、こんな人はそんなに多くないはずだ。パリではなく、日本→アメリカ→メキシコ→日本、というのも彼の独自性がうかがえる。
展示は、六つに“章立て”されて、その“章”ごとに時系列で並べられていて、時系列の把握が混乱してくる所以になってしまっている。回顧展であるなら、やはり時系列を大事にしてほしい、と思うのは私だけだろうか。
ともかく、以下のような構成であった。
Ⅰ 民衆へのまなざし、
Ⅱ 壁画と社会、
Ⅲ 幻想と象徴、
Ⅳ 都市と機械文明、
Ⅴ 美術教育と絵本の仕事、
エピローグ 再びメキシコへ。
会場を巡って、これは大変に器用な人だなあ、との印象が繰り返し押し寄せてきた。
一見、素朴で親しみやすい土俗的・民衆的な表情をたたえた作品群だが、注意深く見れば、多くの先人(例えばセザンヌ)や同時代人(例えばピカソ、リベラ、藤田嗣治、レジェなど)からかなりの影響を受けている様子が見て取れる。が、それをナマのまま晒すことがない。そこが、“器用さ”を感じさせるところである。影響を受けることを恐れないが、どんな影響もいったん良く“咀嚼”して自分のものにしていく、これがこの人の信条なのだろう。
そして、色感が独特である。多くは褐色系のグレイを基調にして、そこに白と黒とをアクセントのように配している。青や赤や緑などの原色もまた、褐色系のグレイに準じて彩度を抑え込みながら抑揚を加えて配している。
結果、破綻がない。かといって、鈍い、というわけではない。色どうしに独特の響き合いがある。後年、黒線で形状を囲い、鮮やかな色彩を用いるようになっても、こうした半調子を確立した時期を経ていることが効いている。
典型例として、1930年の作という40号ほどの油彩=「トラルバム霊園のお祭り」を見ていこう。
“大小の遠近法”と“重なりの遠近法”とを主に用い、おおらかな“線遠近法”を加味して地形や建物を巧みに構成して配し、そこに、さまざまな人物や物品を細部に至るまで丁寧に描き上げてある。
単純化しつつも線的に明快な形状の組み立ては、古典的な風格さえたたえていて、見飽きることがない。
岡山県立美術館「藤原和通 そこにある音」展を見た その2
この章ではイタリア時代の藤原氏の活動を「リキアーミ」を中心に紹介している。
さまざまな事情があったにしろ、結果的に藤原氏は「パリ青年ビエンナーレ」と「ベニスビエンナーレ」という“晴れ舞台”で構想していた巨大な「音具」を実現できなかった。立て続けのことで、しかも多くの人々を巻き込んでのことだから責任も生じただろう。当時の藤原氏の心中は想像するに余りある。
結局、そのままイタリア各地を転々としながら、やがて北イタリア山中(アルプス)の寒村パーレに落ち着き、バイオリンの弓を作りながら1988年までそこで暮らした。
岡山県立美術館「藤原和通 そこにある音」展を見た その1
藤原和通(ふじわらかずみち)氏は、「音楽」と「音」を、言うならば“命懸け”で追求した人だ。また、生涯、キノコに深い関心を寄せつづけた人でもあった。サービス精神が旺盛な人でもあった。1944年倉敷市に生まれ、2020年横浜市で亡くなった。
藤原氏の晩年、私は、何度か藤原氏の仕事場で話を伺う機会を得て、その仕事ぶりと人柄に魅了された。私は、この藤原和通という人を、「天才」だ、と確信しており、直接何度もお話を伺えた幸運を感謝している。
藤原氏が亡くなったことは長く藤原氏のアシスタントを務めた新江和美氏からの電話で知った。ともかく遺品が散逸しないようにアドバイスするのが精一杯だった。新江氏は厄介な事柄をひとつずつクリアして、新江氏自身が藤原氏の作品や各種資料を所蔵するかたちでそれらの散逸を防ぎ、現在もそれらの保管と整理・研究にあたっている(はずである)。その新江氏が今回の展覧会に全面的に協力した、と聞いた。新江氏と私とはちょっとした行き違いから、行き来がなくなって久しい。やむを得ないことと思っている。
担当学芸員の洪性孝(ホン ソンヒョ)氏とは一度下諏訪の松澤宥邸でお目にかかっていた。
この「藤原和通 そこにある音」展は素晴らしい。岡山県立美術館は、岡山県出身の藤原氏の活動を紹介するはじめての機会であることを充分に“自覚”して、藤原氏の活動の時系列に沿って「Prologue」と四つの章で構成しており、展示も勘所を外していない。実に見応えがある。とはいえ、必要だったと思われるデモンストレーションや観客の“体験”づくり、といった要素には課題も見えた。
「Prologue 音楽家・藤原和通」
水平の台の上に写真や資料を並べ、透明な板で作った箱状のカバーを台に被せている。反射で見づらいが、驚くべき展示である。藤原氏はよくこうしたものを手元に残していたものだ。
まず写真三点。
一点目、松の並木を背に、並んでしゃがむ小学生たちの前にすっくと立つ小学生・藤原少年の写真。
二点目、中学校のグラウンドでトロンボーンを吹く藤原少年の写真。
三点目については長くなる。
中学でトロンボーンを吹いていた少年が、倉敷青陵高校合唱部で音楽の先生から音楽室の鍵を預けられるほど信頼を受け、出入り自由、心ゆくまで音楽に浸り、やがて音楽家になる夢を抱いた。未確認情報ながら、京都大学法学部に合格するも夢断ち難く中退。大阪で学習塾をやっていたお姉さんを手伝ってお金を貯めて、オペラを作りたい、と上京した。その足で、当時、桐朋学園大学音楽学部教授もしていた作曲家・石井歓氏を大学に訪ねた。石井氏は合唱曲を多く作っていた。弟子にしてください、と頼み込んで、簡単な試験のあと弟子入りを許された。ふつうなら入試を経て大学で教わるだろう、と尋ねると、無駄を省きたかった、とこともなげに言った。このあたり、「天才」の片鱗が顔を覗かせている。
ただちに東京駅そばにあった中古楽器屋でピアノを買い、石井氏の諸々のことを手伝いながら懸命に学んだらしい。セリーの技法を身につけ、当時の超売れっ子の作曲家=宮川泰氏のまるでラクガキのような走り書きの楽譜の清書をはじめとするアルバイトなどにも精を出し、“むっちゃ”忙しくしているうちに沸々と疑問が湧いてきた。「音楽」は「音」で成り立っているのに「音」のことを何も知らない、自分の関心はどうやら「音」にあるようだ、「音」を追求したい、、、と石井氏の元を去った。とはいえ、そう単純でもないかもしれない。石井氏は、1966年に開設された愛知県立芸術大学に教授、音楽学部長として赴任したので、東京と名古屋との二拠点での生活になったのである。また、あのハチャトリアンのもとに留学した、という話もある。いずれも未確認情報である。
石井氏のもとを去って、このあたりが「天才」の面目躍如なのだが、なんと、奈良県の奥吉野に移り住む。雇ってください、と訪ねた先はなんでもあの川喜田半泥子の実家というか直系の家柄だった。体つきを見られて即座に、あんたにはムリ! と断られたが粘り、雇ってもらった。懸命に働いて、一年後には班長を任されるまでになった。班長だった時は、川で丸太を運ぶ仕事などをやっていたという。(ちなみに、あの熊谷守一も岐阜で同じような仕事をしていた時期があったはずである。)
と、ここまで来て、やっと三枚目の写真のことである。奥吉野の山を背景に三人、その中の一人として特徴的な樵(きこり)の帽子を被った藤原青年が写っている。
これら三枚の写真の横にはさらに驚くべき資料が置かれていた。
まず、見開きで置かれた「劇団新人会広報誌『新人会』1969」という印刷物。「『人斬り以蔵異聞』三幕」とあって、俳優陣、スタッフ陣の名前の並びの中に「音楽:藤原和通」と確認できる。その下に台本が置かれている。藤原氏はれっきとしたプロ劇団の芝居の音楽を作っていたのだ。
東京都現代美術館「高橋龍太郎コレクション」展に行ってきた
都営新宿線・菊川駅に降り立ち、普段ならそのままテクテク歩くのだが、暑すぎる。バスで行く。午前10時過ぎの菊川駅バス停には列ができていたが、そこは建物の日陰であった。そんな些細なことが嬉しい。程なくバスはやってきて現代美術館前に到着。「日本現代美術私観 高橋龍太郎コレクション」展に入った。
日本現代美術のコレクターとして名高い高橋龍太郎氏(1946〜)である。いまやそのコレクション総数は3500点を超えるという。それらの中から選んだ作品に、東京都現代美術館の収蔵作品を加えることで構成した展覧会(と聞いている)。なぜ、公立美術館が、個人のコレクションに依存した展覧会を開催するのか? 他人のフンドシで相撲を取るようなものではないか? というような疑問は当然のように浮かんでくるが、ともかくは一通り見てから考えてみることにした。この展覧会の担当は学芸員の藪前知子氏と聞いた。
入場後まず出くわしたのは、故久保守氏と故中原實氏の各一点ずつの油画作品だった。と、書いて(打ち込んで)みて、手が止まる。作品のサイズはもちろん、タイトルや制作年も記憶に残っていないことに気付かされるのだ。そんな時は、いつもなら、会場から持ち帰ってくる「出品目録」を頼りにできる。だが、この日には、なんと、「出品目録」が会場のどこにも置かれていなかったのである。
なので、会場から出る時に、入退場をチェックしているお姉さんに「出品目録」のことを尋ねてみた。そしたら、私どもでは分かりませんので少しお待ちください、と“係”の人を呼んでくれた。現れたその男性に(お名前も所属も聞きそびれた)、「出品目録」はいつできますか? と尋ねると、9月上旬には図録が刊行される予定なのでその頃には「出品目録」もできるはずですが、詳しいことは、当館のホームページからこの展覧会を検索して、「出品目録」に関する告知や「出品目録」の公開がなされるのを待ってもらえないでしょうか、とのことであった。
「出品目録」なしに展覧会の図録を作れるのか? なぜ図録の刊行時期と「出品目録」との公開が重なるのか? など数々の疑問が生じたが、食い下がっても、流行りの“カスハラ”になりかねないので、ほどほどにした。が、いかにも釈然としない。男性係員の方はとってもきちんとした方だったのに。
公立美術館の展覧会で、観客のために「出品目録」が準備されていないなんてことは、今まで私は経験したことがなかった。この事態はどう考えてもありえないことである。担当学芸員氏は(もちろん館長氏でも東京都知事氏でもいいけど)こうした事態に至った事情の説明を行い、その説明を含めて「出品目録」を少なくともホームページ上に可能な限り早く公開・配布すべきである。ぷんぷん!
で、この文を続けて書く(打ち込む)ために、しょうがないので、拙宅にあったはずの久保守氏と中原實氏の資料を探すことにした(ぷんぷん)。
結果、中原實氏の資料だけはなんとか見つけ出して取り出すことができた(前述の耐震補強工事を円滑に進めるために、現在、全ての荷物を“塊”にしているので思うように探し出せないのだ)。取り出せたのは、1989年に武蔵野市が発行した「中原實展」の図録だったが、中を繰れば、、、あった。当該油彩作品は1947年作の『杉の子』(167.0×135.0cm)だったのである。
もう一方の久保守氏作品だが、彼の資料が拙宅のどこにあるかは分かっている。が、その場所の前には、今、大きな荷物がいくつも積み重なって鎮座しているので、取り出すのは諦めた。展示されていた久保氏の作品は、空襲で焼け野原と化し何もかも無くなった後の冬の東京の風景を、おそらくは写生を元にして油絵として描いたのだろう、大変きちんとした絵であった。
これら二点、いずれも東京都現代美術館の所蔵。どちらも作者の本格的な技量をよく示すとてもいい絵であった。会場に置かれていて観客が自由に持ち帰ってよい「展覧会ガイド」(会場に掲げられていた文章と同じ文章が日英の二か国語で、加えて会場配置図とがA3両面に刷られている)によれば、この二作品からこの展覧会を開始したのには次のような理由がある、とのことであった。①二点とも高橋龍太郎氏が生まれた1946年頃に描かれた作品であること、②東京都現代美術館が扱う戦後美術(高橋龍太郎氏の「胎内記憶」と重なる50年間の美術)の起点に位置付けうる作品であること。なんだか、コジツケのような気がしないでもない。きっと多々あるであろう東京都現代美術館所蔵の1946年前後制作の作品群から、なぜこれら二点を選んだのか、という理由が曖昧なのではないか。加えて、高橋氏は、「いい絵」には興味がない、ということをYouTubeで閲覧可能なインタビューなどで繰り返し述べている。なのに、なぜ、この二作品で始めるのか、それが分からない。分からないが、思いがけない絵を見ることができたのはラッキーといえばラッキーであった。
これら二作品を掲げたスペースの床には什器を置いて、高橋氏の若き日の姿を捉えた写真や、吉本隆明『擬制の終焉』など学生当時の愛読書、編集に携わっていたというサルトル特集掲載の「三田新聞」のコピーなどをガラスケース越しに展示し、高橋氏の「胎内記憶」を暗示していた。これらを「胎内記憶」というのもなんだかなあ、と思ったが、こだわらずに先に進んだ。
「神護寺 空海と真言密教のはじまり」展をみた
朝刊が配達される音がする。ノロノロ起き上がって取りに行く。真っ先にテレビ欄を見ると、あれま、今日のNHK「日曜美術館」は表記の展覧会を特集するらしい。まずいぞ、これではどんどん混み始めるに違いない。「日曜美術館」の影響力はあなどれないのだ。で、急遽、このまま午前中に見物に行くことを決めた。東京国立博物館・「神護寺 空海と真言密教のはじまり」展。
9時半過ぎにJR上野駅・公園口に降り立ち、歩き出せば、国立西洋美術館チケット売り場から入り口あたりのわずかな日陰に二重三重の行列ができているのが見えて、焦る。国立科学博物館への道筋の左側にちょいとした“森”があるので、日陰を求めて樹々の間の遊歩道を進めば、白衣姿の野口英世氏のブロンズ像は、今日も試験管をかざして熱心に研究を続けている。ありがたいことだ。
さらに進めば、予想していたことではあるが、木立は途絶え木陰も無くなって、強い照り返しの広場に出なければならくなった。この先さらに、横断歩道を渡って係員に前売りチケットを示して博物館敷地内に入り、平成館までのあの長い道のりを進まねばならない。その間、日陰はない。が、私は進んでいく(えらい)。午前10時前とはいえ、すでに十分すぎる灼熱地獄。
やっと会場に辿り着いた。冷房がうれしい。
エスカレータで二階に進めば、入り口に「神護寺」との“墨書”が大きく掲げられている。空海の字のようでもあるが確信はない。左側壁を見れば、「神護寺」の境内の配置図がある。つい、これに見入った。
神護寺には、以前、まだ京都の学校に勤めていた時、東京からやってきた家人と合流して訪れたことがあった(学生時代の古美研(古美術研究旅行)では行っていないはずだ)。京都駅前からバスで行った。やはり暑い時だったような気がするが、曖昧である。バス停から坂や石段を登った。石段の先に門が見えた時の様子は覚えている。が、境内のことを思い出そうとしても、ほとんど何も覚えていない。図に示されているうち、覚えていたのは「かわらけ投げ」だけだった。あと、おそらくは金堂であろうか、楽しみにしていた「源頼朝像」、その実物大かどうか、ともかく大きな複製写真が置かれていて、それにひどくがっかりしたことを覚えている。本尊の「薬師如来立像」は遠くに見たような気もするが、確かでない。「高雄曼荼羅」はまったく記憶にない。その日、栂尾の高山寺まで足を伸ばそうかとも思っていたが、「鳥獣戯画」が見られる保証もないのでやめた。何も調べずに来てしまったバチが当たった。なんだかなさけない1日だった。そういうわけで、リベンジの意味もある。
『戦後の女性画家たちー有馬さとえ・朝倉摂・毛利眞美・小林喜巳子・招瑞娟ー』展を見た
渋谷駅に降り立ち、丘の上の実践女子大学・渋谷をめざす。初めての場所。この道筋でいいのか、と途中で心細くなったが、なんとかたどり着けた。守衛さんのところで、書類に必要事項を書き込み、入校証を受け取って首に下げ、会場に向かった。香雪記念資料館。
「香雪」という名のついた美術館が関西にあったはずだが、ここの「香雪」は実践女子大学の前身=実践女子学園の創立者の下田歌子氏の号の「香雪」に由来するという。
表記の展覧会はSNSで知った。以前、町田市立国際版画美術館で関心を持った「小林喜巳子」という人の作品が出品されているらしい。町田で見た小林喜巳子氏の版画作品はとても面白いと思って印象に残った。どんな作家か知りたい、と思った。それでやってきたのである。
資料館入り口から向こう奥に、ポン! と毛利眞美(1926〜2022)氏の二点が目に飛び込んでくる。以前、南天子画廊での展示が話題になっていたひとの作品である。出版された評伝は私も読んだ。こういう人がいたんだなあ、と勉強になった。
が、慌てず、順路に従って、入って右側壁面の有馬さとえ(1893〜1978)氏の作品から見ることにした。はじめて知った人である。色がいい。
「五月の窓」は横長50号ほどの大きさ。画室であろうか、開け放った窓の外と室内の様子とを描いている。庭には光がいっぱい。室内の床にはいくつかの物品があるが、暗いし逆光だ。その二つの世界を窓枠が繋いでいる。繰り返すが、外は明るく、室内は暗い。物品は逆光である。これをどう描いてみせるか? 有馬氏は巧みな色使いで切り抜けていく。品のいい紫系統の何種かのグレイを画面の中間調子として成立させて、そこに庭の植物の逆光の有機的な形状の“抜け”として地面の明るさを位置付け、そして室内の椅子の背もたれや座面、テーブル上の花瓶に生けられた花、これらに極めて低明度ながら高彩度のブルーをアクセントのように当てがっている。オーソドックスな構成だといってよいし、作者のある水準の力量を感じさせる。室内の物品のうち、壁や窓枠にもたれかからせている額縁入りの絵や、ふつうはあまり見かけることがない石膏像(マリア・スフォルツァ像?)は、その本来の暗さをひと調子もふた調子も明るく“増感”させて描きこんでいる。しかも、単純な明暗ではなく「色」に置き換えている。ゆえに、床部にあざやかな緑が塗られていても気にならない。気になるのは、全体を上から見下ろした状況で描いているのに、床に置かれた石膏像の頭部が真横から見た形状で描かれていること。椅子の背もたれの形状に違和感があることである。また、描かれている物品は、テーブル上の果物を除けば、どれも“完全な”形状ではなくて、どこかで別の物品と重なっていたり、キャンバスの端部で切れていたりする。窓枠すらも上部は切れている。とはいえ、そこに造形的な意図を読み取ることはできない。日常の光景の片隅を取り出して描いた、それでいいのだ、と迷いがない。制作年は1946年。戦争で多くの都市は空襲されて焼夷弾で焼け野原となった。連合国軍の占領下でバラックが立ち並び、食糧にも事欠いた当時の日本にあって、こうした“楽観的な”絵を描けた、ということに驚きを持った。この絵は、戦後、いち早く再開した「日展」に出品された、という。第一回「日展」にはこういう“傾向”の絵が並んだのであろうか?
もう一点は「題名不詳(チャイナドレスの女性)」。1950年頃の作という。60号ほどの縦の絵である。相当に高級そうな木のダイニングチェアーにチャイナドレスの女性が座って足を組み膝上にギターを上向き水平に横たえて左手で支え、右手を添えている。座っているのは屋外であろうか。遠景に森が見えるが、そこまでどう繋がっていくのかは曖昧にされている。画面右下には四角い台上に花瓶に花が生けられている。固有色から逸脱せずに素直に描いている。確かに色には魅力がある。が、それ以外に何があろうか。
会場に置かれていた資料によれば、油絵を学ぶために女学校を辞めて鹿児島から上京し、岡田三郎助氏の門を叩いて、住み込みで学んだ。21歳で文展に入選し、以降、文展、帝展と入選を重ね、33歳で女性初の「帝展特選」を果たしたという。34歳から帝展無監査。1937年(44歳)に改組した新文展でも無監査。戦時中のことが気になるが、資料では触れられていない。戦後、1946年(53歳)、いちはやく開催された第一回日展に参加、その時の絵が「五月の窓」である。1954年(61歳)から審査員。1976年まで(83歳)出品。生涯独身ながら、お弟子さんがたくさんいた様子である(島津経子氏、鹿島卯女氏など)。
小林嵯峨舞踏公演『幻の字の子供』
暑すぎる日だった。冷房の効いた会場に入って席を定め、ホッ、としていると、私の前の列の女性が、スマートホンで何やら熱心に調べていた。その女性は、やがて、隣の友人らしき人にスマートホンの画面を示しながら、やがて雷雨になる、ほら、雷雲がすぐそこまで近づいている、と言っていた。やがてその通りになった。外に激しい雷鳴が轟いているのが、会場にもかすかに聞こえてきたのである。
舞台、というか、踊りが行われる(はずの)スペースには、シンプルな“舞台装置”が仕込まれていた。
観客から見て左側(いわゆる“下手”)に人の膝ほどの高さに台が組まれ、その上に畳が一枚敷かれている。畳の手前のヘリにはやはり畳一枚ほどの大きさの、おそらくはアクリル板であろう、透明な板が垂直に立てられている。アクリル板の奥=畳の上に、清酒・剣菱の一升瓶が置かれている。畳の向かって左側と奥には蚊帳が、おそらくそれぞれ一張ずつ、都合二張、四隅で吊るされ、結果、中程で折られた姿になって上から吊られている。
観客から見て右側(いわゆる“上手”)奥の壁と床には、幅70〜80センチほどの細長いグレイの布の一端が壁の上方に留められ、そこから床へ下がり、そのまま床にのびて、畳半分ほどのところで終わっている(そのさらに向かって右側奥にはガラス製の金魚鉢が置かれていたようだ)。
今日は予約客で満席なのだがまだ数名が到着していない、もう少し待ちたい、ということで、開演が少し遅れた。客席では、顔見知り同士の話し声がにぎやかだった。
やがて、会場が真っ暗になり、観客のおしゃべりは止み、空気が張り詰めた。
しばらくして、天井からのライトひとつが少しずつ明るさを増した。そのライトが照らす先には、髪の毛を頭の形にぴたりと押さえ込んだ帽子のようなものをかぶって、ベージュのドレス姿の、思いがけないほど若々しい二の腕をした女性の踊り手が床に座っていた。私は不覚にも、その踊り手が、この日の主役=小林嵯峨氏その人である、とは思わなかった。なにせ、私は、小林嵯峨という名高い踊り手の踊りを、じつは、この日初めて見るのである。小林嵯峨氏の姿はこれまで何ヵ所かで遠くから見知ってはいたし、映像や写真図版などでも知ってはいたが、今、目の前にいる人は、それまで私が知っている小林嵯峨氏とはまるで違う人に見えた。
やがて腕をわずかに動かし始めた時、ただちにこの踊り手が只者ではないことは明らかになり、目の前の人は、小林嵯峨氏その人だ、と確信したのである。
腕、上体、腰、脚、首、顔、、、は互いに無関係に、滑らかに、しかしゆっくりと動き、一つの意味には決して収斂しない。やがて、小林嵯峨氏は立ち上がる。立ち上がる動きは滑らか、というか力強くて年齢を全く感じさせない。そして、すっくと立ったままでいる。、、、ずっと音がない。観客は固唾を飲んでいる。踊りは続く。
手に指がないことには最初から気づいていた。正確には指がないのではなく、両の手はストッキングのような素材の袋状のもので覆われているのだ。ゆえに、手、というよりも、ヒレ、のようにも見える。足も同様、こちらはおそらくはストッキングで覆われていてヒレのように見える。二の腕が若々しく見えたのも、やはりストッキングのような素材で上半身が手首まで覆われていたからだ、と分かってくる。皮膚とその素材との間にはわずかな空隙があって互いがピッタリと貼り付いてはいない。そうしたある種の異形さが形作られている。
立ってからの踊りが続いていく。口を開けて黒い空洞をつくり、その中に真っ赤な舌をわずかに見せたりもする。座っての踊りも続く。当たり前のことだが、じつに巧みな動き=踊りが続いていく。
下手にしつらえられている畳の敷かれた台の角に移動して、奥に向かって正座し、そこに置かれていた赤い着物を纏い始め、着物の蔭でベージュのドレスなどをすべて脱ぎ捨てている(はずだ)。前とうしろとを反対に着た着物を整え、“帽子”をとって髪をふりほどき、後頭部に白い仮面を付ける。立ち上がって、そのまま背中で踊リ始める。からだの前と後ろとを反転させてしまっているのだ(着物を後ろ向きに着た理由でもある)。会場を満たす音楽(「アランフェス協奏曲」だったか?)とともにしばらく踊る。体を前にせり出させて(じつは、仰向けにのけぞって)の踊りには踊り手のからだの強さに驚かされる。やがて、着物の裾を持ち上げて、丸く膨らんだお腹(じつはお尻)をむき出しにする。本当はお尻なのに、太ったお腹のようにも、孕んだお腹にも見える。仮面の女とお尻の持ち主との交合のようにも見えたりもする。
やがて仮面を取り、本来の人間の姿に戻って(反転した前後をもとに戻して)、とはいえ、髪は乱れ、逆立ち、着物の前後が逆さまになっているのだから、異様な姿ではあるのだが、その姿で踊ったあと、スイッといかにも軽々と畳に上がり、そこに腰を下ろしながら踊る。畳の上の一升瓶に手を伸ばし、中の酒を口に含んで、透明な板に向けて、プーッ! と“霧吹き”を行なう。板にしたたる生々しい形状。床に降りて、蚊帳の背後に姿を消していく。会場が暗くなる。
再び少しずつ明るくなると、そこには、長くて形の良い両の脚が逆さまに、Vの字になって、なかば中空に浮き上がっているような姿で見えてくる。つまりは、仰向けに寝て足と腰とを天空に向けて思いっきり高くしている浅黒い裸の男性の踊り手(滝田高之氏)がいるのだ。男は次第に、というか、きわめてゆっくりと、後転をし始めるのだが、両の足のあいだに枕状の紫色の塊をそなえていて、しだいにその紫色の塊が股の間にあらわになり、その塊の下に曲げた足が組まれていく。その姿は、枕のような塊が頭部、足が腕、腕が足に変じて、つまり、人間の通常の上下が逆さまになって、そこに座っているように見えてくる。こうしたゆっくりとした動きは、この男性の踊り手に大変な負担を伴わせているだろう。やがて体勢は崩れていくが、しかし、持ち直そうとし、床に倒れ落ちて激しい音を立てたりもしながら踊りは続く。
暗転後、こんどは、黒いズボンで上半身裸の小林嵯峨氏が登場し直立して佇めば、そこに、下手手前から黒づくめの服装、顔半分が失われた(仮面で覆われた)女性(真鍋淳子氏)が現れて、お腹から胸、さらに首へと、からだの正中線に幅広の真っ赤な“線”をローラーで引いて退場する。小林嵯峨氏の方は、音楽とともに、時にニワトリになったりして、コッ、コッ、、、と踊ったりなどする。暗転。
赤い“線”はそのままに、上に黒いタンプトップを着た小林嵯峨氏が登場し、踊り、さらには黒いドレスに着替え、麦わら製の(?)パナマ帽をかぶって登場し、踊って、チャーミングな笑みを見せて終わる。
なんと、なさけないことに、これを書きながらいろいろ思い出そうとしても、すでに多くを忘れてしまっている。
「アランフェス協奏曲」、「イエスタディ」、「アンドアイラブハー」、「アメイジンググレース」などの曲が、おそらくは加工されているのだろう、独特のテクスチャーで流れ、時に空襲で爆弾が投下される音やミサイルが飛来する音などに変じていくのだが、それがいったいどの場面でどう流れていたのか、その時小林嵯峨氏はどんな踊りをしていたのか、照明はどうだったのか、壁に投映された映像のこと、など、そういう本来「一体」であったことが、曖昧にしか思い出せない。
そんな状態でこれを書いていることを白状しておくが、おそらくは七つの“章”で構成されていただろうこの作品は、最初の“章”の完全に無音の踊りを含めて、若き小林嵯峨氏が土方巽のもとで過ごしためくるめく日々の中で体験し体得したものの集大成なのではないか、とたびたび思わせられた。
踊りの終了後、休憩になって、そのあいだに、額装されたさまざまな写真や、雑誌などの資料がお披露目されていた。中にはお父上と共に並んで写った幼き小林嵯峨氏の写真もあったりした。
ヴィム・ヴェンダースの映画『アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家』と福田尚代氏の個展のこと
アンゼルム・キーファーをいつごろ知ったのか、記憶が定かではないが、知った時には、当たり前だが、彼はすでに大スターであった。
こともあろうに具象的な形状を平気で描きこんでしまう「ニューペインティング」とか「新表現主義」とかいう“傾向”が海外から一気に襲来して席巻し、ミニマルアートやコンセプチュアルアートという“傾向”を軸に懸命に学んできた世代の私(ども)としては、これは一体なにが起こっているのか、と目の前の事態に、ワケというものが分からず、こんなものはただの“揺り戻し”だ、と強がっていたのだが(正直、今でもそんな気持ちが拭えない)、キーファーはその代表選手のひとり、というか、代表選手中の代表選手、とりわけ“危ない”気配を漂わせていた。
そんな頃、ある友人の好意で、都内のある場所に、おそらくは“秘密裏に”保管されていた(であろう)キーファーの複数の作品をこっそり見せてもらいに行ったことがあった。西武美術館での「キーファー展」以前のことだ。
その時、キーファーの作品の実物を初めて見たが、どれも呆れるほど大きな作品で、私が日頃取り組んできた“傾向”とはまるで違う作品だった。なによりも、海やら地面やらが堂々と描かれているし、物理的なサイズがむっちゃ大きくて、圧倒的な物量で、そのケタというものがまるで違っていたのである。わたしは、へえ、、、とそれっきり言葉がなかった。であるからして、西武美術館での「キーファー展」の印象は比較的薄い。
その後のことは省略するが、去年だったか、イタリアはベネツィアのあの「総督邸」で「キーファー展」がある、という情報が伝わってきて、ひえーっ、チントレットの大壁画があるあそこでやるの? そういえば、あそこの牢屋の陰惨さにはびっくりしたなあ、などと、そのうち忘れていたら、昔、観光で訪れたあれらの豪華すぎる大きな部屋(たち)の、床から天井まで、巨大なキーファーの作品がびっしり、文字通りびっしり、びっしり展示されている写真だったかをどこかで見て、ひえーっ、ますます凄まじいなあ、と思っていたのである。そしたら今度は、京都・二条城で「キーファー展」をやる、というではないか。来年(2025年)の予定らしいが、行けるかな。廊下のウグイスばりの音を効果音とかに使ったりして。なんて、、、。
で、ヴェンダースの映画、である。
結構な見応えだった。
なんといっても、映し出される仕事場がでかい。でかすぎる。
そのでかすぎる仕事場に、これまたでかすぎる作品がびっしり並んでいるのである。それらは制作途上なのか、完成しているのか、映画からは判然としないが、ともかくものすごい量であり、大きさである。私がかつて都内某所で見た絵の大きさをはるかに超えている。キーファーはそれらの間を自転車で移動していく。ということは、こともあろうに(?)仕事場はきちんと整理されているのだ。仕事場を仕切るある合理性というか、秩序が見えてくる。死んだ空間ではないのである。
大きすぎる作品群には、一点一点、それぞれに鉄製の支えがあって、キャスターがついている。なので、人力で移動できる。必要に応じて作業するスペースまで移動させていって、バーナーで焼いたり、絵の具で描画したり、溶かした鉛を滴らせたり、、、と描画しているのだ。
たとえば、バーナーで、画面に貼り付けた藁を焼く時には、当然ながら激しく炎が立って、画面横と画面背面とにそれぞれ控えているホースを持ったアシスタントが、キーファーの指示に従って、焼きすぎないように水をかける。作品はもちろん、床もビショビショだ。後片付けの場面はでてこない。
絵の具での描画もすさまじい。絵の具は大きなバケツに入っていて、それを特製のおそらくはステンレス製であろう、弾力ある長いヘラで、えいっ! とすくって、そのまま画面に叩きつけ、ヘラの先端でゴニョゴニョと描いていく。あらかじめ木炭での素描が施されており、その木炭の黒が混ざって、“調子”を作り出していく。すごい力技だ。
絵の具はバケツだけにおさめられているのではない。時に画面片隅に映り込む大きなテーブルには白い“山”があった。おそらくは白い絵の具であろう、と見た。同じテーブルには、他にもいくつかの色の“山々”があったし、すぐとなりのテーブルには絵の具の缶が並んでいた。つまり、大きなテーブルがそのまま“パレット”になっているのである。もちろんテーブルにもキャスターがついている。
作品の上部の描画のためには、本格的な昇降機を使っていて、なるほど、と思いながらも呆れてしまった。キーファー自ら運転して絵の前までやってきて、そのまま上に上がって描画を始め、先に述べたように描画を進めていく。
彼の作品に頻繁に登場する鉛。鉛を溶かすためのちゃんとした炉があって、その炉は、水平に置かれた絵の必要な領域の上まで移動できて、キーファーの手でそのまま画面上に注ぎ込むことができる。アシスタントが、もう少し下げましょうか、そうすればピチピチ跳ねることがなくなりますから、とか言うと、キーファーは、いや、跳ねるのがいいのだ、とか言う。結果、溶けた鉛の飛沫がピチピチ跳ねて、キーファーも思わず後退りしたりする。そうしたディテールが面白い。
また、作品のための素材が、巨大すぎる棚とそこに並んだ金属製の箱にきちんと整理されている。さすが、である。枯れた植物、得体の知れないオブジェ、引き出しにおさめられた無数の写真、、、。一枚の風景写真を無造作につまみあげるキーファー。
そして、図書館のような書庫。書庫のような作品=鉛の書物群、パウル・ツェランの言葉、、、。
整備された展示空間は、そのまま制作の一部をなしてもいる。驚くべきことだ。
こうした、南仏バルジャックでのキーファーの“日常”が軸になって、幼少期のキーファー、青年期のキーファーのエピソードが、幼少期をヴェンダースの孫甥(聞きなれない言葉だが、兄弟姉妹の孫=男性を指す言葉だという)が演じ、青年期をなんとキーファーの息子が演じることで挿入されていく。さらにそれらを踏まえて、最初期のキーファーの作品写真やインタビューなどの資料映像も挿入されて、キーファーの絶え間ない営みが多層的に描き出されていく。じつに手際がいい。さすが、である。
キーファーが生まれ育った館であろうか、ヴェンダースの孫甥(幼少期のキーファー)が、その内部の装飾を眺めながら巡っていくシーンは、彼の出自さえ想像させ、咲き誇るひまわりの下で寝そべってひまわり越しに空を仰ぐ姿は、彼の作品にたびたび登場するひまわりの“出どころ”を示しているかのようであった。
ひまわり、といえばゴッホだが、高校生だったかのキーファーが多数の応募者の中から選出された奨学制度でゴッホの歩いた経路を自らたどってレポートにまとめ、ヨーロッパ中の最優秀賞をもらった、というエピソードを私は全く知らなかったし、そこで紹介される高校生のキーファーによるゴッホ風の風景デッサンや、それ以前、幼少期の絵にも驚かされた。
青年期のキーファーについては、雪景色の畑に踏み込んで写真撮影するシーンや、最初期のドイツ山中の仕事場(木造の倉庫のような建物。初期の絵に度々登場している)でボイスに手紙を書き、ボイスに見てもらうために車にたくさんの絵を積み込んでボイスの元へと出かけていくシーンが印象的だ。白の中に真っ黒い細い線が伸びてボイスのところに続いていく。
こうして映画のシーンを次々に思い出しながら書いて(打ち込んで)いくとキリがない。ネタバレにもなってしまうので、この辺にしておくが、ぜひ、ご覧になられるとよい。
先に述べたベネツィアでの「キーファー展」会場で撮影したシーンさえもあって(チントレットの壁画も登場する)、心憎い映画になっていた。さすが、と言うべきか。
それにしても、すさまじい仕事への集中度である。まちがいなく、全てを制作に捧げてきているのだ。
「シルバーデー」に東京都現代美術館に行った
私は、自慢ではないが(自慢にもならないが)、とっくに65歳を過ぎておりハゲである。わずかに残された頭髪はとっくに“シルバー”なので、チケット売り場の窓口のお姉さんに、運転免許証(ずっとペーパー・ドライバーの“ゴールド”カード)を示すと、お姉さんは快くチケットを差し出しながら、これですべての展示をご覧いただけます、とにこやかに言った。「シルバーデー」はほんとだった。とっても嬉しかった。
カール・アンドレ展
気がつけば、と書いた(打ち込んだ)が、何かに熱中していて、あっ! という間に時間が過ぎ去っていった、というのではなかった。あれもやらねば、これもやらねば、と気持ちだけはせわしないが、実際には、何ひとつやれていないままで、あっ! という間に時間が過ぎていくのであった。これは、明らかに老化の現れだろう。いよいよ、やばいぞ。
拙宅の耐震補強工事は6月半ばから始まる予定だった。しかし、やむを得ぬ都合で7月半ばからになった。それを伝えられた時は本当にガッカリした。加えて、暑さの中での工事。職人さんたちも大変だろうが、私どもも大変である。が、弱音は吐けない。頑張る。
住みながらの工事を少しでも円滑に進めてもらうために、家具をはじめ、こまごまとした物品の移動作業や廃棄作業が続いている。私の仕事場は、すでに荷物でいっぱいだが、このあとも大物をいくつも“収納”しなければならない。私の仕事場にも工事を必要とする箇所があるので、その周辺はカラッポにしておかねばならない。仕事場としての“機能”だって、気持ちだけは保っておきたい。これらの事柄をすべて満たすのはかなり難しくて、じつに悩ましい。作業はノロノロとしか進まない。知力、体力の衰えが露呈する。無理が効かない。
そんなとき、思いがけず、大量の荷物の隙間に、木下直之『私の城下町 天守閣からみえる戦後の日本』(筑摩書房、2007年)が顔を覗かせていた。
思わず取り出して、これ面白かったなあ、この人の本はどれも面白いよなあ、とつい読み始めてしまった。例によって、面白かったという記憶はあっても、中身を忘れてしまっていたのである。
話は、著者・木下氏の祖父母を木下氏の父親が1953年に撮った写真のことから始まる。その写真は、木下氏が育った部屋にずっと懸けられていたという。日比谷の濠の前での写真である。背景の濠のさらに向こうに第一生命館が見えている。この写真が撮影された一年前、つまり1952年には、まだ、この建物の屋上には星条旗が翻っていた。1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効まで、日本は連合国軍の占領下だったのである。第一生命館にはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が置かれていた。日本の独立回復の日=サンフランシスコ講和条約発効の日=4月28日から星条旗が翻ることはなくなり、その三日後の5月1日には「血のメーデー事件」が起こって、写真の祖父母が立っていたあたりも騒然としていた。‥‥と巧みに話は続いていく。
そもそも、「皇居」はもともと、「江戸城」ではなく、「御城」(おしろ)と呼ばれていたらしい。その証拠に、江戸時代のどの地図にも「御城」と書かれているという。「江戸城」というのは現代の呼び名だったのである。江戸が「東京」となって「東京城」、やがて「皇城」となったらしい。そして「皇居」となったわけだが、つまり、もともと「御城」だったので、『わたしの城下町』という本が、自らの祖父母の姿をとどめた一枚の写真の話から始まった理由が、なるほど、このあたりで明らかになる。
この本は、こうして皇居や皇居周辺をめぐる話から始まって、小田原、熱海、、、と次第に南下して、首里城に至る。
読んだのは二度目だったが、今回も満足した。この本に従って、せめて皇居周辺とかを散歩してみるのもいいかもしれない。
数日後、東京駅に降り立った。皇居前広場を例えば銅像を巡りながら散歩しようというのではない。目指すは八重洲口③バス停。このバス停のことは『わたしの城下町』には出てこない。私は、千葉県佐倉市にある「DIC川村記念美術館」まで、③バス停からバスに乗って行くつもりだったのだ。「カール・アンドレ 彫刻と詩、その間」展見物である。
時間通りにやってきたバスに乗り込み、バスは順調に走り、その間、年配のご婦人の四人組が果てしなくおしゃべりを続け、「DIC川村記念美術館」で私はバスを降りた。ほとんど全ての人も降りた。四人組のご婦人たちも降りた。
ボヤボヤしていたら1ヶ月経ってしまった
ちょうど出かけるところだったが、図録の到着を待ち侘びていたので、さっそく開梱してページを繰り、大変な不満を感じた。どの図版も小さいうえにボケているではないか! と思ったのである。
発行=配達がこんなに遅くなって、数日後には展覧会が終わってしまう、待たせに待たせたあげく、こんなボケて小さな図版を並べた図録だなんて、これはいったいどういうことだ? プンプン! と家人に八つ当たりして家を出たが、家人にはなんの関係もなかったのだから申し訳なかった。
数日後、こんどはたっぷり時間をとって、当該図録を開き、じっくり1ページ1ページ見ていったら、たしかに図版は小さいが、雑誌掲載時の見開きの状態できちんと掲載してある。すでに出版されている本、雑誌発表時の写真図版からの複写で構成した『都市 風景 図鑑 中平卓馬』(月曜社 2011年)は600ページを超える分厚さで大迫力であるが、そこでは写真図版以外の“情報”は割愛されている。そこが今回の図録とは大きく違っている。東京国立近代美術館(以下、近美と表記)での展示では、小さくプリントアウトされて展示されたり、映像化したものが展示されていたりしてはいたが、そういうものであっても見開きのとなりの記事や広告など、掲載時の状況を示しながらしっかり収録してある。おお、とってもいいではないか、と感じ入った。実際の展示を補って余りある、と思ったほどである。時々手に取って眺めて、その都度同じ感想を持つ。それを家人に言うと、ごくごく短期間のうちにまるで正反対の感想になってしまったのは、どゆこと? となじるような口調で言われてしまった。
どうやら、配達された時にはメガネなしで見ていたらしい。その後は老眼鏡越しに見ている。
ボケているのは図版ではなく、私の方だったのである(とオチがついたはずだが、話はここで終わらない)。
国立西洋美術館に忘れて傘をとりに行った 4
ところで、辰野氏は今回の参加作家の中で唯一の故人。あまたいる故人の中で、なぜ、国立西洋美術館は彼女ひとりを今回「招き入れ」たのか、その理由が判然としない。“図録”=“インタビュー集・論文集”には、おそらくは新藤氏の文であろう、こうある。
「未知なる布置を求めて」との「章」の展示をポロックやモネ、ドニ、シニャック、ルノアールの作品と共に成す辰野登恵子氏、梅津庸一氏、杉戸洋氏、坂本夏子氏についての文章。この三人は、「絵画を編成する造形的なエレメントをみずから発見/発明しつつ、絶えず組みかえることで一律のスタイルに自作を固定することを避けつつ、作品群を一つずつ実験のフィールドにしてきた」作家たちだ、とまず書いている。
そして、辰野氏についてはこうだ。「抽象表現主義を超えることをめざしていたといえる辰野の絵画には脱グリッド化されたタイル状の形態や花模様の不規則な繰り返し、それらと多極的にせめぎあう色面や筆触、その他の造形要素の一回ごとに異なる布置の探求がある」。
うーん、、、そうなのか、、、布置か、、、布置と言ってしまえるのか、、、。
ともかく、辰野氏の油彩作品から、実に異様な感じをこの展覧会で覚えたこと、そのことに分け入る力を私は今持たないことを白状し、異様な感じ、というメモだけはしておこう。
また、“図録”=“インタビュー集・論文集”のなかで、新藤氏は、「招き入れ」た「作家さん」は「上野とのかかわりを持たれていたり、問いを投げかけてみたいと思わせてくれる論客の顔を併せ持つアーティスト」だと発言しているが、ならば、たとえば、中村一美氏や岡崎乾二郎氏や戸谷成雄氏が「招き入れ」られることがなかった理由も知りたいところではある。梅津氏はSNS投稿の中で、この展覧会への出品参加を求めに新藤氏が岡崎乾二郎氏を訪ねたところ、激しく叱責され、参加を断られたので、岡崎氏の「枠」を自分(梅津氏)が埋めることになった、と書いていた。ほんとだろうか。ま、どうでもいいけど。
国立西洋美術館に忘れた傘をとりに行ってきた 3
ロダンの「青銅時代」と「考える人」とを横倒しにした作品を中心にした小田原のどか氏の作品は、SNSからの情報で想像していたよりずっと面白かった。やはり作品は実際に自分の目で現物を見なければ分からない。
床に敷き詰めた赤いパンチカーペットの色の効果が絶大で、そこに黒々と転がっていたロダンは、美術予備校で石膏像を横倒しにしてモチーフとし、学生にデッサンさせ、「形」の問題を問いかけるような場合に比せば、遥かに面白く見えた。中が空洞ということでは同じでも、石膏像とブロンズ像との違いがそうさせているだろうし、本来の像を腕や胸で切り取って教材にしてきた石膏像と作品全体をきっちり鋳造してあるロダンのブロンズ像との違いが大きいだろう。そして、私(たち)は意外にロダンの彫刻作品ときちんと向き合う機会を持ってこなかったのかもしれない。
いつだったか、何かの展覧会を見に行った静岡県立美術館で、ロダン館というところに迷い込んで、たくさんのロダンの大きな(実寸の?)ブロンズ像に出くわしてびっくり仰天したことがある。あまりにびっくして、その時はじめてロダン作品をじっくり見た。ひとつひとつを丹念に見ていくと、気持ちが悪くなるくらいだった。ロダンは激しすぎて遠慮会釈というものがない。驚くべき作品群だ、と思った。日頃、ロダンについての情報はたくさん知っていても、情報を知りすぎていて、実際にロダン彫刻の現物を前にしてもじっくり見ることはなかった、ということにその時に気がついた。恥ずかしいことである。
小田原氏のこの作品で、作品として無理やり横たえられたロダンの彫刻をまたじっくり見ることになった。ブロンズ像を台座に固定しておく普段は見えない“仕掛け”も剥き出しになっているから、そんなところにも目が向いた。さりげなく展示されていたロダン彫刻の台座を、台座だけの姿でしげしげと見る事にもなった。普通はあり得ない状況でこうしたありさまに反応している自分自身にも意識が向いたりする。そういった意味でも、さまざまな覚醒を強いてくる面白さがある。
ただし、日本=地震国の国立美術館のコレクションであるロダン作品、というところから、大地震が襲ってきてロダンの彫刻も横倒しになったとしたら(実際に関東大震災の時にはロダンの彫刻は倒れて壊れてしまったそうだ)、、、みたいな“設定”を、巨大で真っ赤な五輪の塔をそそり立たせた一方で、あたかもその五輪の塔が崩れて床に散らばったかのようなインスタレーションとして作品に組み込んだりするのは陳腐で、説明の域を出ていない、と思う。
さらに、横倒し=水平、そこから「水平社」、転倒=転向、これらからの西光万吉という人物の作品の提示。ここからさらに、さまざまな問題へと繋いでいこうとしている様子も、彼女の日頃の真摯な問題意識や丹念な調査活動とは別に、語呂合わせや連想に興じているようにも感じさせられてしまう。彼女の執筆活動、出版活動の成果品である書物群を観客が手に取れるかたちで展示していたのも、それら一冊一冊は確かに興味深いが、この展示に同居させていることには若干の違和感も持った。