画材のトリビア3 2023-10-03
「不思議な卵の話」
今回の話題は物価の優等生と言われたのに、鳥インフルエンザや飼料高騰のあおりで、驚くほど高くなってしまった「卵」についてである。「卵」と聞いて、勘の良い人は「ははーん!エッグテンペラの話だな。」と気付かれたに違いない。その通り、今回はテンペラ絵具のゼミに関わるトリビアである。
人類が自分の手でアクリル樹脂のような合成樹脂を作れるようになる以前、ほとんどの接着剤は食べ物に関わっている。膠は動物や魚を煮たときに得られる煮こごりだし、牛乳から得られるカゼイン糊も、植物から得られるデンプン糊も人類の食習慣と切り離せない。絵具はつまるところ「色のついた接着剤」なので、絵具の歴史そのものが食と深く関わっているわけだ。ホモサピエンスが土器を使って煮炊きをするようになり、容易に膠を得ることができたであろうと考えると、土器の底についた煤と混ぜてものを描く道具にしたことも想像の範囲内にある。おそらく人類が最初に手にした絵具の接着剤は膠だったのだろう。もちろん、漆喰そのものが接着剤の働きをしたフレスコは別である。では、その次に絵具に使われた接着剤は何であっただろう。私は卵だったのではないかと考えている。
では、人類はいつ頃から鶏を家禽として飼い始めたのだろう。資料によれば、約4000年前位らしい。古代エジプトやギリシャ時代にはすでに菓子が作られており、それには卵が使われていた。卵でお菓子等を作って、使った容器を洗わずに放置すると洗っても取れなくなり、卵が接着剤の働きをすることがわかった事だろう。これに色の粉を混ぜればエッグテンペラとなるわけだ。余談ながら、日本人が鶏卵を食べるようになるのはいつからだろう。実は西洋よりずっと遅くて、明治以降らしく、そもそも肉食習慣のなかった日本人にとって、卵は食べる対象ではなかったようなのだ。ヨーロッパからカステラなどの菓子類が持ち込まれるようになって始めて、卵が食べる対象となった。だから、日本ではエッグテンペラは生まれようがなかっただろう。
さて、卵にそういう接着剤としての性質があるのは以下の組成に由来している。日本食品標準成分表によれば、卵黄100g中の成分は次の通りである。
水が蒸発した後、すぐに固まってしまうのはタンパク質であろう。脂質の内、乾性油のように多価不飽和脂肪酸を含むトリグリセライドは少なく、ほとんどがオリーブオイルのような一価不飽和のオレイン酸系であるためにそれ自身は固まらない。ただ、長い年月を経ると多価不飽和脂肪酸は酸化重合して、塗膜を強固なものにする。 前置きが長くなったが、ここからが今回の話の主題である。長い年月の間に私はたくさんの混合テンペラゼミを行った。自分のやっていたのは全卵にオイルを混ぜる「全卵のテンペラグラッサ」である。むろん、美術大学でやられるような本格的なテンペラの授業ではなく、テンペラってこんなふうにやるんですよ程度のものである。一般的にテンペラという言葉はイタリア語 temperare(=混合する)の名詞形であるから、基本的に「混ぜ合わせること」を意味している。フレスコのように顔料と接着剤が混ざっていないものに対して、顔料と接着剤を混ぜて使うものだったからテンペラと呼ばれたのだろうか。昔々のテンペラ実技ゼミは兎膠とボローニァ石膏で吸収性下地を作るところからスタートしていたので、最低2回以上必要だったが、四国や北陸など遠方のゼミともなれば、旅費面からも難しく、途中からは吸収性下地をこちらで作って持参するようになった。最近になれば、それも面倒なので、合成樹脂でできた「アブソルバン」を塗って持っていくことになった。いずれにしても吸収性下地は塗った絵具がすぐに染みこんで、手にはつかなくなるので、持ち帰りを考えるとありがたい下地である。やったことのない人は、水彩絵具や油絵具のように筆で面を塗っていくものと思われているだろうが、接触角が高く、ベたっと塗るのは難しいので、基本は面相筆などでハッチング作業を行う。これもエッグテンペラが人気の出ない理由だろう。
さて、実際のゼミがどう進められるかだが、普通にチューブに入っている絵具を使ったゼミと違い、このゼミでは様々なものを混ぜ合わせて自分で絵具を作らなくてはならない。まず最初に、卵を割って黄身と白身を分けるところからゼミはスタートするのだが、当時は「料理なんてやったこともないよー。」という男性も多数参加されていた。割った卵の殻を使って、それを乾性油などを計量する容器として使いたいので、卵をきれいに割って欲しいのだが、これ自体が難関である。最近の卵はちょっと力を加えるだけで簡単に殻が砕けてしまうようなものも少なくない。ましてや、割った卵を黄身と白身に分けるのだが、それができない人も多い。従って、10人のゼミであれば、新鮮な卵を2パックくらい用意していくのが常だった。
ところが、最近では卵黄と卵白を分ける道具は百均でも手に入れることができる。これを使うと、いとも簡単に黄身を取り出すことができて、失敗がないので、我々にとっては有り難い話である。次の難関は何かと言えば、卵黄を包んでいる卵黄膜というものを取り除く作業である。このために手の平を転がしては手をナプキンで拭いて、ヌメリを取っていって、図の様に卵黄をつまみ上げる。このつまみ上げた卵黄の底を爪楊枝で突いて中身をとりだして、ようやく絵に使えるものになる。白身の方はといえば、お箸などを使ってメレンゲをつくり、泡の部分を取り去って、下に残ったサラサラの部分を使う。卵黄膜を取った卵黄とサラサラの卵白を足すとほぼ卵1個分になり、これ対して、卵の殻半分量のサンシックンドオイルなどを加えて、テンペラメディウムとするのである。卵は実に変わった食品で、卵黄に含まれるリン脂質のおかげで、水とも油とも混ぜ合わせる事ができる。リン脂質は天然の界面活性剤で、強い乳化作用をもっているので、これがテンペラグラッサを可能にしているわけだ。現在のアクリルエマルション絵具にもつながるのだが、この話はここでは本旨でないので後日にしよう。実は我々は合成物の防腐剤や防カビ剤を有しているので、これらメディウムにそうしたものを添加するが、もともとは防腐作用の目的で酢をいれるのが普通だった。黴は酸性を好み、腐敗菌はアルカリ性を好むので、腐りにくくするには酸性にするのが手っ取り早い。卵黄と植物油と酢を混ぜたもの・・といえば、お気づきの通りマヨネーズである。このテンペラメディウムはつきつめてしまえば、乾く植物油の入ったマヨネーズなのである。以前に上海のとある美術大学でこの講義をしたことがあって、「ほらこのテンペラメディウムって皆さんが料理に使うものと同じだがそれは何だろう?」と聞いたところ、返事がない。「マヨネーズだよ!」と答えを言っても、通訳自体ぽかんとしている。横で見ていた台湾のディーラーの人が、「小杉さん、キューピーと言ったら通じるかも。」と言ってくれたので、そのように言うと初めて、みんなが「ああ、ああ」と納得してくれた。よく考えてみると、随分昔にタイを旅行したときに、醤油が欲しくって、「ソイソース、プリーズ」と言ったところ通じなかった。横にいたガイドさんに「キッコーマン!」と叫ぶと良いと言われ、その通りにすると懐かしい亀甲文様の描かれた醤油瓶が出てきたが、あれと同じ理屈だったわけだ。
話がとてつもなく脇道に逸れたが、先述の通り、黄身から卵黄膜を取り去る作業はとてつもなくハードルが高い。良くても成功率は7割程度。最近の卵はひ弱で、もっと酷いかと思う。うまくいかなかった卵は仕方なく、参加者の食卓にのぼることになる。こんな事を永年続けていたが、東京藝術大学の名誉教授・佐藤一郎先生の「絵画制作入門」が発売された時に読んで、ありゃあやられたなと感じ入った。そこには、黄身をティッシュペーパーに包んで、ティッシュペーパーごと底から爪楊枝でつついて、中身を取り出すやり方が書いてあった。これはいい。この方法でやると不器用な人でもほぼ失敗なく中身を取り出すことができ、卵の消費量がいっきに減った。このようにして合理化を続け、佐藤先生の方法も取り入れたという話を、同じく永年ゼミをやってきた先輩に話すと。「なるほどなあ。だけど小杉、昔はこんなふうにして苦労してテンペラメディウムを作ってたんやという味というか面白みというか、そういうのがなくなるやんか。」…「ははあ。仰せの通りでございます。」 完
画像1:卵の黄身と白身を分ける道具
画像2:卵の組成表
画像3:卵黄膜を取り除く作業
画像4:卵白のサラサラ部分を瓶に保存
小杉弘明氏による画材のトリビアコラムを連載します。
小杉弘明 プロフィール
1954年 大阪出身。
1977年 大阪府立大学 工学部応用化学科卒。
元ホルベイン工業株式会社 技術部長。
現カルチャーセンター講師。
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