画材のトリビア8 2024-07-22
絵具の価値を値段で測っていない?①
今回は絵具の値段と価値について考えてみたい。日本人は・・というか、日本人でなくとも、値段が高いことはその価値も高いと考えがちだが、実はそうでもないということを感じておられる人もいるだろう。亡くなって久しいが、永六輔氏がモノの価値について次のような事を言っていたのをテレビで聞いた記憶がある。「ものの価値は自分が決めるものであって、自分の価値基準より高ければ、デパートであっても値引してくれと言うし、価値が高ければ過分に支払っても良いと思う。」という内容であった。なかなかこう言い切れる日本人は少ないが、多少でも「自分においての価値」というものを見直してみるべきではないかと考えた。絵具においては、価値と値段は相関していないというのが、絵具を作ってきた側の人間の肌感覚である。
たとえば、絵具はなぜ色ごとに値段が違うのか。特に、「専門家用絵具」という作家達が使用する絵具において色ごとに値段が著しく違うのはなぜか。カドミウムレッドやコバルトブルーという絵具はなぜあんなに高いのか。また、輸入絵具はとても高いが国産絵具と比べて中身が特別上等なのかという話である。絵具と言っても、油絵具、水彩絵具、アクリル絵具などそれぞれによって少し事情が異なるところがあるが、その辺のところも含めて述べたいと思う。
基本的に絵具の価格差を生んでいるものの主な要因が何かといえば、
①有色顔料の価格、②顔料の吸油量、③体質顔料の種類と量、④絵具の比重になるだろう。
※顔料:水や油に溶けない色の粉のこと
※吸油量:簡単に言えば、顔料表面を包むのに要する油の量のこと
※体質顔料:顔料の中でも、糊と混ぜると透明になる顔料のことを体質顔料といい、色濃度の調整や流動特性の調整などに使われ、一般的に有色顔料に比較すると価格が低いので、増量剤としても使われる
※絵具の比重:絵具は容量売りなので、比重は重要なファクター…
油絵具に使われるアマニ油やポピー油、水彩に使われるアラビアゴムは全てを輸入に頼っている。アクリル絵具に使われるアクリル樹脂は石油から作られており、これも絵具価格に為替の影響が出ているのは自明の事柄であるが、これは全ての色について共通するものであり、個々の絵具の価格差に関わるものではないので、今回の話からは除外する。今回は、価格に影響する要因の中でも大きな位置をしめる①と②の要因について話を展開する。
1.有色顔料の価格
ご存知の方も多いと思うが、学童用の水彩絵具は金色とか銀色とかを別にすれば、均一価格である。先日、近隣の文具屋で調べてみると、S社のマット水彩絵具の全ての色は12mlで税込128円となっていた。当然のことながら、色それぞれに顔料の仕入れ価格も製造経費も違うはずだが、ある程度それらをネグることのできる一つの要因がある。学童用絵具には重金属を使ってはいけないと言う法律があることだ。専門家用絵具でもコバルトブルーやカドミウムレッドは極めて高価であるが、お分かりの通り、使われているコバルトやカドミウムといった重金属そのものが稀少で高価であるために顔料価格は高値となる。だから、絵具も高くならざるを得ないのである。学童用絵具においてはそれらがない分だけ、色ごとの価格差が極端にならないという事情がある。
同じ無機物でできている顔料でも、ソーダ、アルミ、シリカ、硫黄など安い元素ばかりでできているウルトラマリンブルーは安いし、ライトレッドのような弁柄系顔料も鉄の化合物なので安い。だから高い顔料は無機物ばかりかと言えばそうでもない。石油から作られる有機顔料でも高い物もあれば安いものもあり、それらに市場原理が働いているのは間違い無い。一つの例としてDPP顔料(ジケトピロロピロール)をあげたい。この赤い顔料は最も新しく合成された顔料の一つである。1970年代にスイスのメーカーが開発したこの顔料はその耐光性の高さや発色の素晴らしさから、1980年代には車用塗料や印刷インキ用として人気を博し、やがて絵具業界もこぞって使うようになった。そのままの名前では余りに長いので、一般的にはピロールレッドなどと呼ばれている。ただ、顔料の特許が切れるまでは開発メーカーの独占であったために非常に高価で、それまで高級顔料とされてきたキナクリドン系顔料よりもさらに高かった。従って、絵具そのものも設定価格がかなり高かったと記憶する。ところが製造特許が切れると、世界各国の顔料メーカーがこれの製造に着手したために一挙に値段が下がっていき、あれよあれよという間に、使いやすい価格に落ち着くことになった。皮肉なことに、DPPよりグレードの低いアゾ系顔料より安いタイプのものまで出現するに至った。結局、大量に作られるようになると、値段が下がってしまって、価値とは別なものになる良い例かと思う。余談だが、顔料にはマンガニーズブルーのように安くて良いのに用途が減少して姿を消した顔料もあるし、希少性はあったが、高すぎて使われなくなったチオインジゴ系バイオレットもある。結局、顔料は安すぎても高すぎても間尺に合わなければ淘汰されてしまい、絵具もなくなってしまうことになる。
専門家用絵具メーカーの作る絵具の色数は極めて多く、それに応じて扱う顔料種類も驚く程多い。顔料の値段は1kgあたり1000円前後のものもあれば数万円のものもあるので、それに応じた値段設定になることはやむを得ないだろう。
2.顔料の吸油量
2つ目の要因になぜこんな訳のわからない吸油量なるものが入ってくるのか、理屈がわからないことと思う。これは特に油絵具の場合に大きな意味をもってくる要因である。吸油量とはその名の通り顔料が吸う油の量の事で、実際には一定の顔料に対して、アマニ油を少しずつ滴下して、ナイフで混ぜていってペーストになったときの量を測定する。絵具は簡単に言ってしまえば、顔料の一粒、一粒を糊で取り囲んだものなので、吸油量の大きい顔料は作るのにたくさんの油が必要となる。では吸油量の決め手となる要因は何かと言えば、顔料の大きさや形なのである。顔料が全て一定の大きさのガラス球のようなものであったなら、差は生じないが、やっかいなことに顔料は大きさや形、あるいは表面の状態がそれぞれ大きく異なっているのである。実際に大きさや形が異なると何が起こるかについて説明していこう。
ここでは球体よりも立方体の方が理解しやすいので、図で説明したい。まず、一辺が1cmの立方体について考えてみると、体積は1立方cmで、表面積は1平方cmの面が6面あるので6平方cm。これを図のように、1000個(10ヶ×10ヶ×10ヶ)積み上げると、全ての体積は1000立方cmで、表面積の総和は1個の1000倍だから6000平方cmとなる。ここまでは大丈夫だろうか。次に一辺10cmの右側の立方体を考える。体積は当然、先ほどと同じく1000立方cmであるが、表面積は10×10×6で600平方cmにしかならない。一辺が10倍になると、表面積は実に1/10になるのである。同じ体積のものがあっても、個体が小さくなればなるほど表面積が大きくなる。一丁の豆腐を一人で食べるときと4人に分けて食べる時では、切った断面が出てくる分だけ、切った場合の方が醤油がたくさん必要になる理屈だ。同じ種の動物、例えば熊などでも、北方にいる熊と南方にいる熊では北方にいる熊の方が大きい。南に行けば行くほど、汗をかいて熱を発散させなければならず、そのために表面積を大きくする必要があるからだ。人間だってそうだ。基本的に北欧系の人は身体が大きく、東南アジアの人達は小さい。話が拡がりすぎたが、個体が大きくなると表面積が小さくなるということは理解いただけただろう。実際、有機顔料のように0.1μm以下の顔料は取り囲むのにたくさんの油を必要とするが、無機顔料のようにその数倍もあるような顔料であれば、極めて少ない油で充分ということになる。
大きさだけではなく、顔料自体の形によってもが吸油量変わってくる。顔料には球体のものも多いが、針状や板状あるいは無定形のものもあり、粒子径だけでは判断のできない差違を生じる。さらにはカーボンブラックのように表面がポーラスで、たくさんの穴があいているものまである。表面が凸凹していると表面積は飛躍的に大きくなり、吸油量は極めて高くなる。冷蔵庫に入れて使う脱臭炭がよい例だが、表面積が大きいので、さまざまな匂いの成分を吸うことができるのだ。というわけで、カーボンブラックは無機系顔料ではあるが、吸油量が高くて、たくさんの顔料を含有させることはではない。
油絵具は基本的に油と顔料でできているので、粘性を保つためには、吸油量に応じた顔料配合が必要となって、ごまかしが利きにくい。世界の主要絵具メーカーの油絵具を見てみると、コバルトブルーやカドミウムレッドなど主たる無機系絵具は有色顔料の配合量がだいたい60%前後あるだろう。価格の安い中級品では、有色顔料コンテントを下げて、体質顔料で増量しているので、見せかけは同じでも実は絵具濃度が低いという結果になる。また、有機顔料は先述の通り、粒子が細かくて吸油量が多いので、どんなに頑張っても含有量が40%を越えるような絵具は作りにくい。そもそも顔料単価の高い無機顔料は吸油量が低くて、たくさんの顔料が入るので、ますます高い物になっていくことになる。
さてここで、粒子径についてかなり端折った書き方をしてきたので、もう少しだけ具体的な話をしておきたい。小学校の先生が「うちのクラスは他のクラスより背が高くって」という時、みんなが同じ身長で背が高いというわけではなく、平均身長が他のクラスより高いというのが事実だとお分かりだろう。そう、チタン白の粒子径は0.23μmですと言われても、全ての粒子がその大きさのはずはなく、大きな塊から小さいものまで様々な分布をもっていて、その平均が0.23μmだということなのである。また、粒子というのは顔料にかかわらず、サイズが小さいほど凝集性、つまり塊になろうとする力が強いので、絵具屋が顔料メーカーから購入した段階では、いくつもの顔料粒子がくっついて大きな塊になっているものなのである。この塊を多次粒子、一つだけにしたときの粒子を一次粒子と呼んでいる。結局、絵具屋はたくさんくっついた顔料粒子をほぐして、一次粒子に近づけて、それを糊で包む作業をしているのである。こういう作業を顔料分散というが、塗料メーカーも印刷インキ会社も絵具屋も、皆していることは同じだ。顔料分散において完全に一次粒子にできる訳ではないが、大きな粒子(塊)をほぐしていくと、一定のレベルまでは顔料の隠ぺい力や着色力が増していき、発色も美しくなる。ここが絵具屋の力の見せ所なのである。分散技術が優れていれば、少ない顔料配合でもきれいで力のある絵具が作れることになるが、それがヘタであれば、よりたくさんの顔料を必要とし、色も冴えのないものになる。しかも、顔料配合率が高いという事は値段も高いということに直結する。
さて、あなたは本当に絵具の価値を見据えているだろうか。いつだったか、「あんたとこのなあ、ペンキみたいに綺麗な絵具はいらんねん。」と言われて愕然としたことがあったが、そう言われるとここまで続けてきた議論は雲散霧消する。
1章 完
小杉弘明氏による画材のトリビアコラムを連載します。
小杉弘明 プロフィール
1954年 大阪出身。
1977年 大阪府立大学 工学部応用化学科卒。
元ホルベイン工業株式会社 技術部長。
現カルチャーセンター講師。
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