なんだか、やはり暑すぎるし、台風も暴れすぎである。ハワイ・オアフ島は山火事でひどいことになったというし、カナダでも新たな山火事が起きているという。東京だって、先日来あんなに土砂降りだったのに、水源の一つ、利根川上流の矢木沢ダムの水がもう残り少ない、とか言っている。ワケがわからない。
そんな日々の中、この際、近頃耳にしてきた新宿区百人町のWHITE HOUSEに行ってみるべか、と重い腰を上げた。
そろそろ涼しくなっているのではないか、と期待して、じきに夕方になろうとする新宿駅に降り立てば、残念、まだまだ充分暑い。北方向に進み、靖国通りを渡る。昼も夜も、一日中、いや一年中、どんな時も多くの人々でごった返している歌舞伎町を突っ切り、職安通りを渡って左折しJRや西武新宿線の方向に進む。線路手前の一つ、二つ、その二つ目の小さな道を右に入ると、すぐ右側に写真で見たことがあるWHITE HOUSEの建物が見えてきた。美術家のあの故吉村益信氏のアトリエ兼住居だったところである。
この場所が、1960年代に、あの「ネオ・ダダ」やその周辺の人々のアジトのようなところで、建物の設計があの故磯崎新氏だったことは、美術に関心ある人であれば誰でも知っている(はずである)。
とはいえ、私は、この伝説的な建物が残っていたことを知らなかった。若い人たちが、すっかり痛んでしまったこの建物に着目し、手を入れて、”再生”を試みている、ということをどこかで知った。
行ってみたい、と思いながら先延ばしにし、今回、初めて訪れたのである。
戦後日本美術の大事な舞台の一つであるので、いささか緊張していた。正直に白状すれば、覗き趣味を満足させるみたいなところもあった。
門から敷地に入ると、開け放たれた窓の内側にカウンターがしつらえてあるのが見えた。その窓側にいたお姉さんに、えっと、、見物したいのですが、、、と尋ねたら、三百円です、とシンプルに言った。アートスペースでの展示を見物するための入場料なのだ。今、WHITE HOUSEは、カフェ・バーやアートスペースとして運営しているらしい。
アートスペースの方では「平野真美個展 架空のテクスチャー」が開催中だった。未知の人である。
かつては吉村氏のアトリエだったに違いないスペースの床は、一面板張りである。そこが展示会場になっている。天井が高い。上方に意外なほど小ぶりの窓が南と北に一つずつ。白い壁と天井。二階への階段がある。二階は生活スペースだったのだろうか。公開されていない。生活スペースらしき二階のすぐ下の一階がさっきお姉さんがいたカウンターのあるカフェバーになっている。
旧アトリエの展示スペースには、二つの作品と作者の資料ファイルとが置かれていた。作者はいなかったが、観客が次々に訪れて来ていた。
作品の一つは、床に広げた白いシートの上に横たえられたユニコーン。
もう一つの作品は壁にユニコーンの骨格を描いたデッサン、床にユニコーンの頭骨が複数(7〜8個?)置かれていて、デッサンと一体になって見える。
もちろんユニコーンは架空の動物だから、いずれも“作り物”である。作り物ではあるが、工作の精度は高い。
横たえられたユニコーンには血液循環や呼吸のためだろうか、何本かの管が機械に繋がれて作動している。つまり、作者は、この架空の動物に実際に命を与えたい、ということだろう。
が、そうした作者の気持ちが、私にはよく理解できない。
また、もう一つの作品。架空の動物ではあるが、その骨格を示すデッサンや、ツノの生えた頭骨の複数の標本の提示はいかにも現実味を装うものであり、これもまた、ユニコーンが実在する(実在してほしい)ことへの作者の激しい希求の所在の表れであろう。
これも、私にはよく理解できない。
置かれている資料を見れば、長い間飼ってきた犬が死んでしまった、という出来事が、今回展示しているユニコーンを扱う作品へ至るきっかけになったようである。もちろん作者には、ユニコーンが実在しないことは分かっている。分かっていて、骨格、筋肉、内臓、皮膚、毛並みなどを精緻に丹念に作り上げるのだ。そして生命維持装置に繋いで装置を作動させる。
クソ面白くもねえ! と1960年代初頭に「ネオ・ダダ」の人々は、この場所をアジトのようにして“大暴れ”した(「ネオ・ダダ」については近年刊行された菅章『ネオ・ダダの逆襲』(みすゞ書房、2022年)などに詳しい)。
それから60年ほどが経過して、同じこの場所で、この若い作者は、私は作り物以外を信用していない、と言っているのだろうか?
数日後、東京ステーションギャラリーへ「甲斐荘楠音の全貌」展に行った。JR の「大人の休日クラブ」の会員は割引がある、というので会員を示すカードを持って行ったのだが、割引は百円だった。
この人の名を「かいのしょうただおと」と読める人は少ないだろうが、一度覚えたら、彼が描いた絵と共に忘れないに違いない。そのくらい奇妙な日本画である。その奇妙さはどこに由来するのだろうか?
一つはデリケートなボカシによるモデリングで生じてくる奇妙で過剰なボリウム感。それから、女性のポーズや顔の表情。不思議な取り合わせの色彩、、、と、いくつかの事柄を挙げることができそうだが、1915年作の「毛抜」や1918年作の「横櫛」を見れば、日本画のきちんとした様式をわきまえた力量には確かなものがある。制作年不詳の「林檎むく人」などは、素晴らしい、と思った。が、そこに飽き足らないのが甲斐荘だったのであろう。奇妙な絵が次々に生まれてくる。未完とはいえ、「畜生塚」には驚いてしまった。
やがて絵を描かなくなり、主に東映の時代劇映画の衣装や時代考証に関わり、芝居の世界にも花柳界にも関わったようである。溝口健二の「雨月物語」に関わっていたことなど、私は全く知らなかった。
スクラップブックや女装した写真の展示もあり、多面的な甲斐荘楠音の姿を示していた。この人もまた、作り物以外信用できなかった人だったのだろうか?
(2023年8月18日 東京にて)