28歳での結婚も良いきっかけになったのか、坂本はさらに様々な挑戦を続けていく。「張り物」(1910年)、「うすれ日」(1912年)、「魚を持ってきた海女」(1913年)、「海岸の牛」(1914年)、「三月頃の牧場」(1915年)、「馬」(1916年)、「髪洗い」(1917年)、「静物」(1918年)、「牛」(1920年)というように次々に行われる挑戦は実に具体的で果敢であり的確だ。どの画面も一見穏やかに見えるが、実は一作ずつ挑戦の内容を自覚的に設定し、きちんとその結果を出している。実に強靭である。このあたりが坂本の最初のピーク、と見た。
パリ滞在中(1921年〜1924年)の作品にはブルターニュの風景が登場している。ここでもゴーギャンやナビ派とのつながりが暗示されているかのようであった(ナビ派の始まりはセリュジエがブルターニュのポン=タヴェンにゴーギャンを訪ねて直接の指導を仰ぎながら一枚の風景画(「タリスマン、愛の森を流れるアヴェン河」(1888年)を描いてパリに持ち帰り仲間に見せたことだったという)が深読みだろうか? 坂本の滞欧作には、明らかに、ヴュイヤールの「八角形の自画像」(1890年頃)などとの方法上の近似が指摘できると思う。あながち見当違いではあるまいが、私に何か確証があるわけでもない。その完成度において、坂本はまったくナビ派の人々に引けをとっていない。いうまでもなく、坂本の滞欧中の作品は、どれも素晴らしい。年譜をみると、里見勝蔵、石井柏亭、正宗徳三郎、坂田一男というような人々との交流がうかがえる。この時期、明らかに二つ目のピークを形作っている。
帰国後の仕事ぶりも素晴らしい。時にキュビズムを意識したかのような作品も現れるが、長く振り回されることはない。どの作品も決して手を抜かない。小さな一つ一つの筆触に実感が託され、筆を“走らせる”などということは決してしない。にもかかわらず絵は動いている。
さすがに、目を悪くしてからは、ものと背景とがはっきりと区分されて、画面に単調さが生じてきていることは否めない。しかし、たとえそうであっても、身の回りのどんなものも絵にしていく柔軟な眼差し、確かすぎる構成力は、自己模倣を回避させてどの絵にもみずみずしさを保持させている。
逆光の馬小屋内部と馬との場合でも、コントラストで処理しない。見えにくいところにしっかりと色を見出し、色どうしの響きを作り上げていく。
また、月。ここでも見出しにくい月の周囲の色の変化や色同士の響きに目を凝らしている。これらは、たとえ目が悪くなっても(片眼はほぼ失明状態だったという)、あえて見えにくいところに挑んでいく坂本の強靭さの現れだ。それが十分すぎるほど伝わってくる。