「通りの情景、洗濯女」(1899年)を見てみよう。
まず私の目は、画面右下に広がる赤紫と白と黄色のストライプ面に惹きつけられるが、その上部に女性の頭部を認めると同時に、赤紫と白と黄色の縦縞の広がりはその女性のブラウスで、女性は座っているのではないか、と思わせられる。しかし、女性は膝に白布をかぶせて座っているのではなく、右腕に引っ掛けているのがカゴの持ち手らしいとわかると、そのカゴの中には白い衣類らしきが入っていて、なるほど、この女性がタイトルの「洗濯女」だな、ということになる。女の背中には水色の背もたれらしきがあるが、その左上方には青紫色の不定形があって、それが女性のスカートを描いているらしいとわかった時、水色のところは路面=通りに転じる。タイトルが「通りの情景」となっているわけである。同時に、水色の左の青のマダラは花壇などではなく子供連れの女性の衣服であり、子供は二人、手前に犬。奥に街を行き交う人々。街路樹。馬車に乗っているご婦人もいる。馬車の手前には小さな子供もいる。などなどがわかってくる。つまり、「洗濯女」は座っているのではなく、洗濯物を持って路面を歩いているのだった。絵に描かれた「通りの情景」がこうしたものとして“安定”してくるまで、私たちの目は宙吊りになりながら画面をさまようのである。さまよっている間、形状の前後関係やその意味が反転したり、消えて行ったり出現したりする。描かれた厚紙の固有色=黄土色が随所に小さな不定形として覗いているのが効果的である。厚紙の固有色を利用して、そこに色をあてがうように描画した短時間でのスケッチのような作品。が、こうしてもう十分に出来上がっている。
もう少し若い頃の作品、「親密さ」(1891年)では、色面が積極的に用いられている。光を受けてパイプを燻らす男に目がいくが、そのパイプの煙が壁の模様とシンクロしていく様が面白い。その左側にもう一人の逆光の人物が紙巻きたばこをつまんでいる。そこまではたやすく認めることができるのだが、逆光の人物の肘のあたりにあるゆらゆらした線は何? と思った瞬間、画面下方にパイプをつまんだ大きな手を発見させられることになる。誰の手? この絵を描いたボナールの手? 浮世絵版画からの影響を考えさせられる構成である。
はたまた、「ボート遊び」(1907年)。この大きな絵(278×301㎝)も次々と発見をもたらせてくれる。画面は白っぽさで覆われ、画面のあちこちに、やや彩度の高い橙や茶、ピンク、青が散在している。目は自然に画面下方中央に誘われ、三人の人物がボートに乗っているのがわかる。絵を描くボナールもボートに乗っているわけだ。帽子をかぶった人物が抱えている黒いものは、あれっ、犬? と目を凝らせば、愛嬌ある黒い犬の表情が巧みに捉えられているのがわかる。さらに見ていくと肩口にタレ目の白い犬が顔を出している。この犬もうっかりすると見逃してしまいそうだが、見逃すといえば、画面中ほどの高さの帯状の広がりの中に何人もの少女や山羊、数羽の小鳥が描かれているのを認めた時の驚きはこの絵の表情を一変させるほどだ。わずかな調子の違い、わずかな筆触の違いに気づかされることで訪れるこうした発見は、ボナールの絵にはかなりの頻度で仕組まれている。固有色を無視する、というわけではないが、かなり自在に固有色から飛躍できるボナールの特質は、じつに確かな構成に支えられていることもよく見て取れる。この位大きな絵になると、絵の全体は瞬時に一望できない。そこに描かれている光景もまた、現場で一望できるものではない。私たちは視線を移動させながら部分部分を確認していく。ということは、現場の生き生きした感じを大事にすれば、数学的な透視図法の正確さなどにこだわっているわけにはいかない。臨機応変の構成が必要になる。つい「ヘタウマ」を連想した所以だが、やっていることは全く違っている。
今年、東京都美術館で開催された「プーシキン美術館展」では、セザンヌ晩年の「サン・ビクトワール」に見入って満足し、振り返って一歩進もうとしたら、ボナールの大きな絵に出くわして、腰が抜けるほど驚いた。あの大きな絵も仕組みがじつに複雑で見飽きるということがなかった。素晴らしかった。
ともかく、ボナールという人は、親しみやすく穏やかそうに見えて、非常に過激に突き進んだ人だ、ということがよくわかる展覧会だ。会期残りわずか。まだの人はすぐに見に行くべし。私はもう1回行きたい。でも、無理かも。
(2018年12月17日 東京にて)
●ピエールボナール展
国立新美術館
2018年12月17日(月)最終日です!
http://bonnard2018.exhn.jp/
画像:上「通りの情景、洗濯女」(1899年)
ピエール・ボナール オルセー美術館蔵
下「親密さ」(1891年)
ピエール・ボナール オルセー美術館蔵