藤村克裕雑記帳
2025-01-21
  • 藤村克裕雑記帳272
  • 「ルイーズ・ブルジョワ展」に滑り込んだ
  •  1月15日(水)、午前10時過ぎ、地下鉄・六本木駅に降り立ち、森美術館での「ルイーズ・ブルジョワ展 地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」を、滑り込みで見物した。確かに“地獄”を見てきたであろう作家の展覧会なのだが、この長いサブタイトルは、ルイーズ・ブルジョワの作品のひとつからの引用なのである。が、それだけではなく、観客の次のような感想を引き出すための仕掛けなのだ、とさえ感じさせられた。

     “ルイーズ・ブルジョワ展から帰ってきたところ、言っとくけど素晴らしかったわ”。

     もちろん、“素晴らしかったぞなもし”、でも、“素晴らしかったべさ”、でも、他の言い方でもまったく構わないのだが、私は、まんまと美術館のこの仕掛けに乗せられてしまった。この展覧会は素晴らしかった。ぐうの音も出なかった。
     何が素晴らしかったか? 
     ひとつひとつの作品への作家の圧倒的な集中度。そこに込められた作家の繊細さ、それを支え抜く作家の強さ。そして透徹した知性。

     ルイーズ・ブルジョワといえば、私の場合、ただちに思い浮かぶのは「眠りⅡ」1967年や「花咲けるヤヌス」1968年や「少女(可憐版)」1968−1999年のような、どうしたって人間の性器を想起させる彫刻作品や、布を縫い合わせて作った頭像などのちょっとこわい人体彫刻や、どろどろした赤いドローイング群だった。ある時、「C.O.Y.O.T.E」1947-49年(1979年に改題、ピンクに塗装)を何かの本で知ったときは、意外に感じてすごく驚いたことを覚えている。1997年の横浜美術館での「『ルイーズ・ブルジョワ』展」は見ていない。森美術館へのアプローチにある巨大な蜘蛛の彫刻はさすがに知っていたが、しげしげと見ることもなく、ルイーズ・ブルジョアについても不勉強で、ほとんど何も知らずにここまできた。ふと気付いた時、いつのまにか年配の女性作家がぐいぐい頭角をあらわしてきていた、といった程度の認識だったのである。これは、とても恥ずかしい。じつは大変なキャリアの持ち主だった。
  •  今回展示されている中で最も古い作品は1938年頃作という絵画「家出娘」である。ルイーズ・ブルジョワは1911年パリで生まれているから、27歳頃の作品。なお没年は2010年。享年98歳。
     図録の年譜で確かめると、1938年当時のルイーズ・ブルジョワは、パリでレジェに教わっていて彫刻をやることを勧められたりもしたようだが従わず、父親が経営するお店に小さな画廊を開いている。その画廊にアメリカ人の美術史家ロバート・ゴールドウォーター(1907ー1973年、当時31歳)がたまたま訪れたことをきっかけに、ほとんど時を置かず二人は結婚し、ニューヨークに移り住んだ。「家出娘」はその頃の作品であろうか。祝福された結婚ではなく、家出同然だったのかもしれない。
     12号Mほどの縦長の画面は上下四つの領域に区切られて、一番上の領域には小さく館(やかた)が描かれて、その周囲をグレイが包み込み、そこにさらに明るいグレイで雲のようなあいまいな形状が拡がっている。画面一番下の領域は、とがったギザギザですぐ上の領域と区切られており、キャンバスの地がそのままである。上から二番目のキャンバス地そのままのところに木炭で横にのびる波線が幾重にも描かれた領域と、その下の三番目の水色に塗られた領域との両方にまたがって画面右寄りに右向きに女性像が描かれている。水色の領域には油絵具が塗られてそれが固着した後さらに線で三角形の折り重なりが描かれている。どうやら下描きを木炭でしたあと、油絵具で色を施し、その後も木炭や鉛筆で線を描き加えているようである。
     やはり目につくのは女性像。手に小さなカバンを持って宙に浮いて描かれており、前方に進もうとしているかのようでもある。キャンバス地そのままの色面と上方の水色の色面との境界に伸びるギザギザや、水色の色面が乾いてから引かれた線が示す尖った形状の重なり、これらは切り立った山脈のようであるが、これらから距離を持って足元が描かれていることが“宙に浮いている”女性像だ、と感じさせている。鋭く尖った形状の重なりはこの女性像の不安な心理状態を暗示しているかもしれない。
     水色の色面はニュアンスに富んでおり、女性像を前方へと追い立てているようにも見える。
     金髪の長い髪の女性像は、ボーダーのブラウス(ワンピース?)を身につけ、背景の川(あるいは運河?)の水面を示す波線の重なりにゆるやかに呼応して、いわば透明化している(心理的な空虚さを表している?)。腰からつま先へと明度の低いグレイで陰らしき形状が与えられており、結果、腰や脚部の形状は強調されている。
     川面を示すかのような横方向に伸びる波線の重なりの中には泳ぐ人物の姿が小さく線描きされている(父親?)。
     全体に、描法はいかにも素朴であり、驚くような技量の所在を示しているのではない。が、小さく描かれた館、その館のそばを流れる川面、突き刺さるような地表、宙に浮く女性像、胸は透き通るほど空虚で、宙に浮いてしまえば強調された脚部は役に立たない、、、。こうした“道具立て”には過不足がなく、「家出娘」というタイトルとともにさまざまな解釈を呼び込んでいる。この絵の前でしばし佇むことになった。
     この作品が会場入り口すぐから見通せる左側壁に展示されていたのには理由があっただろう。
     
     ルーイズ・ブルジョワは、裕福な家庭の子供としてパリに生まれた。
     タペストリーの修復を家業とする父親は、男の子が産まれてくることを切望していたから、姉アンリエットだけでなくルイーズも女の子だったことにひどくがっかりして、繰り返しそのことをルイーズに述べたという。展示されていたビデオ作品の中のひとつで、老いたルイーズが、オレンジの皮に線描きして、その線描きに従って皮を剥き、ヘタのところを上手く取り出して皮全体を広げると、それは人間の姿をしていて、ヘタの部分だった出っ張りがおちんちんになる、という“遊び”を披露しながら、父親との関係を語っていた。おそらくルイーズは、父親から、おまえにはおちんちんがない、と理不尽に繰り返し責められ、その度に深く傷ついたのである。その父親は、ルイーズや姉弟のために雇った住み込みの英語の女性家庭教師と不倫関係を長年続けていた。それを知ってルイーズはさらに深く傷つき、のちの深刻な鬱病発症の火種としてそれを抱え続けることになったのである。
     また、ルイーズの母親=ジョセフィーヌは病弱で、冬季間、一家は南仏の各地で過ごすほどだった(ゆえに、ル・カネにアトリエがあったボナールとの交流もあったというし、ルイーズは終生ボナールに関心を持ち続けたという)。1932年、母親はルイーズが21歳の時に没し、ルイーズは悲嘆に暮れて川で自殺を図り、父親に助けられた。母親に見捨てられた、という気持ちは、父親との関係とも相まって生涯ルイーズに影を落とし続けることになった。
     母親の没後、ルイーズはソルボンヌ大学で数学を学び始めるがやがて断念し、アカデミー・ドゥ・ラ・グランド・ショミエールで油彩画を学ぶ(幼い頃から家業のタピスリーの修復を手伝って絵を描くことには馴染みがあった)。さらにパリ高等美術学校やルーヴル美術館付属校でも学んで、ルーヴル美術館でガイドの仕事をしながら、サロン・ドートンヌへ出品して入選したりしている。
     やがて件の1938年に至り、アメリカ人美術史家と結婚してニューヨークに渡るのである。

     展覧会の主催者は、この一点の絵「家出娘」を冒頭に展示し、「わたしは家出したも同然だった。/それでもなんとかなった。」と“添書き”することで、以上のような経緯を一気に示したかったのだろう。が、それを果たすには、正直、無理があった。私は、帰宅して、美術館ショップで購入してきた図録に何度も目を通し、やっと上記のような経緯を理解することになったのである。

     じつは、会場入り口すぐ、この展覧会を訪れた観客が、先の絵画=「家出娘」と出会う前に、立ち塞がっていたルイーズ・ブルジョワの作品は「隠された過去」という彫刻作品だった。
     図録ではエレベータ室と書いている人がいたが、古びたタンスのような家具あるいは教会で懺悔するスペース=告解室にも似た雰囲気の用途不明の古い工作物、その内部に、布で覆われた頭部=首が逆さまに吊り下げられていた。
     確かにこの作品もインパクトは十分ながら、2004年ルイーズ93歳の時の作品であり、さあ、これからルイーズ・ブルジョアの「隠された過去」を明らかにしていきますよ、まず、1938年頃の作品をご覧ください、というような狂言回しというか、いささか説明的な役割に甘んじているようでもあった。

     というわけで、これらの2点に迎えられた後、次の部屋に移動すれば、床中央に大きな四角い什器が設置されており、その上に小ぶりな8点の作品が展示されていた。加えて、壁にもうひとつゴムの作品があって、計9点。制作年はバラバラ。
     この部屋の壁の三面には、それぞれジェニー・ホルツァーによるプロジェクションがなされており、次の部屋からであろうか、悲痛な歌声(スーザン・クーパーによるパフォーマンス=バイオリンの音とともにルイーズ・ブルジョワのトラウマを歌う)も聞こえている。照明の効果も加わって、この部屋全体が異様な迫力に満ちており、観客は一気に“ルイーズ・ブルジョワの世界”に引き込まれていくのである。 
     とりわけ、ジェニー・フォルツァーのプロジェクションは、ゴチック体の大きなフォントで横書きされたルイーズ・ブルジョワの言葉(=文章)からの抜粋で成り立っていて、英語と日本語とで絶えず下から上へと迫り上がっていく。そのせいで、部屋全体が歪みながら降下しているような錯覚を生じている。歪みながら降下する、というのは、三面へのプロジェクションは同時になされるのではなく、ある時は三面、ある時は二面、ある時は一面、というように時差があって、組み合わせは多様だし、観客は什器の周囲を巡っていくので目に入ってくる壁面はつぎつぎに変化していく。それ故に部屋全体の下降するイリュージョンにさらに歪みが加わるのである。観客がここに展示されているひとつひとつの小ぶりな彫刻作品に集中すればするほど、目の片隅に入る壁面の文字列の上方への運動が、この部屋の下降の錯覚を際立たせ、いかにも不安な気持ちを増幅させてくる。その意味では、ジェニー・フォルツァーをこうして起用したことは確かに成功していた。
  •  この下降する部屋の什器に展示されたルイーズ・ブルジョワの作品のうち、制作時期が最も古いのは1963年作の「眼差し」であった。
     一抱えほどの大きさのラテックス製のこの不気味な彫刻は、ルイーズの父親が1951年に他界したことをきっかけに、彼女が深刻な鬱状態に陥って、作品制作もままならず、長期に渡って精神分析を受けながら、さらに自らが自らを精神分析しながら時を過ごした果ての時期に制作された“甦り”の作品のひとつである。「眼差し」という作品は一見いかにもおどろおどろしいが、じつは自己の内面を凝視し続けた果てに生み出されてきた作品、という意味で、自らの“地獄”を直視した強靭な意志と知性とがこの作品を支えているのである。
     この“甦り”の時期の他の作品群は「コラム2 無意識の風景」にも別にまとめて展示されているが、展覧会全体の構成が時系列順ではないので制作年が入り組んでいて、たやすく理解が及ばない。お願いだから、シンプルに、時系列順に展示してほしい、と思うのは私だけだろうか。
     そういう私の願いは主催者には届くはずがない。主催者は、三つの章とふたつの「コラム」とでこの展覧会を構成している。
     「第一章、私を見捨てないで」「コラム1、堕ちた女 初期の絵画と彫刻」「第二章、地獄から帰ってきたところ」「コラム2、無意識の彫刻」「第三章、青空の修復」。
     「第一章、私を見捨てないで」では母親との関係を起点にした母性に関わる作品群で構成し、「第二章、地獄から帰ってきたところ」では父親との関係をめぐる複雑な感情を基点とした作品群で構成し、「第三章、青空の修復」ではトラウマで傷ついたルイーズの心や人々との関係を修復・解放することを希求した作品群で構成し、ている、これらの間に「コラム」を差し込んで、「コラム1、堕ちた女 初期の絵画と彫刻」では、1946〜1954年の作品群を集め、ここに高層ビルの最上階のこの美術館の窓から一望できる東京の風景を背景にして1993年作の「ヒステリーのアーチ」を加え、「コラム2、無意識の彫刻」では1960年代の作品群を集めている。「第三章」が終わったところで、最後に一室、年表や各種資料群を展示している。時系列を無視しているわけではないが、作品の展開の仕方への理解はいささか難しくなっている。
  •  「コラム1」に展示されていた「C.O.Y.O.T.E」(1947〜1949年)に注目しておきたい。
     床に横たえられたステンレス鋼板を“台”にして、その上に設置された10組20本のほぼ同じ形状の“脚”を備えた大人の胸ほどの高さの細長い不思議なブロンズ彫刻である。
     原型は、明らかに同じ規格の建材を用いて作っている。
     建材、というところからは、身の回りのありふれたさりげないものを用いて制作する、という問題意識がかいまみえる。
     この作品では、上部の水平面上に横たえられた鋭角三角形の側面をした細長い形状が、ムーヴマンというか、緩やかな運動の方向性を暗示しているとはいえ、全体の形状はいかにも素気なく、素っ気ないが故に細部の造作の差異に目が及ぶ。また、同じ単位の繰り返し、ということでは、のちに一世を風靡した「ミニマルアート」を先取りしている。
     第二次世界大戦後のニューヨークの美術状況を考えれば、この作品を含むこの時期の作品が、いかに独自で、先進的でもあった取り組みだったか、ということに想像が及んでいくだろう。

     当時ルイーズは、一家が住んでいたアパートの屋上で、家事や育児の合間に、建材を切ったり削ったり彫ったりつないだり色を塗ったりして制作していた。それらは後年ブロンズに鋳造され色を塗られたが、この時期に制作された“立像”のシリーズと同じように、この作品「C.O.Y.O.T.E」も、まずは、建材をノコギリで切ってそれをつなぎ合わせて作ったものを、1979年にブロンズに鋳造してピンクに塗装し、タイトルを改めた(ようである)。改めたタイトルは、あるフェミニズム活動への支援の意味が込められていた、と図録にあった。
     もともとの木の原型=作品のオリジナルは、1949年にニューヨークのペリドット・ギャラリーで開催された「ルイーズ・ブルジョワ近作展1947ー1949:木彫による立像17点」で発表された(ようである)。当時、この作品のタイトルは、ピーター・ブリューゲル(父)(1525−1569年)の作品にちなんだ「目の見えない者たちの寓話」とされていた。同じシリーズの数点の作品のうちから選ばれた一点だった(ようである)。
     余談だが、ブリューゲルの絵に描かれた盲人はたしか六人(脚は12本)。前の者に繋がって一列で進んでいた彼らが、一番前の盲人が穴で転んだことで、大変なことになっている様子が描かれている。それは、「マタイによる福音書」の中の寓話に基づいているというが、深入りしない。
     図録には、ルイーズ・ブルジョワが、第二次世界大戦を避けてアメリカに移住してきたデュシャンやミロ、ル・コルビュジエなど、名だたる人々と交流があったことが書かれている。さらに、デ・クーニングやハンス・ホフマン、リー・クラスナーなどと共にあるグループ展に参加したりもしているのだが、彼ら=キラ星のような人たちからの影響関係はこの時期の作品群からまったく読み取ることができない。
     この時期のルイーズ・ブルジョワの仕事群を絵画作品や版画作品やドローイングを含めて見ることができたのは幸いであった。もっと見たい。
  •  すでに触れたことだが、1951年の父親の突然の死をきっかけに、ルイーズ・ブルジョワは深刻な鬱状態に陥り、1952年から1966年までは頻繁に、それ以降も1985年まで間を置いて、フロイト派のヘンリー・ローウェンフェルド博士から精神分析を受けた。この間、1950年代には作品制作がほとんどない(らしい)。そのかわり、というか、精神分析に関する多くの文章を書き残したという。それらからの抜粋が、ジェニー・ホルツァーによって会場の壁にプロジェクションされ、図録にも日本語で収録されていたこともすでに述べた。
     つまり、この時期にルイーズは、自らの意識や無意識、自らと母親との関係や父親との関係、自らの過去と現在など、つまりは彼女の“地獄”について、その“地獄”の真っ只中で、ていねいに観察し、意識化して文にしていたわけだ。このあたりのことは図録に掲載されているジェイミソン・ウェブスター氏の文章に詳しい。
     ともかく、そうした“地獄”から帰還しながら再び制作に取り組むようになったのが1960年代のはじめである。
     以前の木のような切ったり削ったりする素材ではなく、粘土のように可塑性に富む素材、さらには石膏や樹脂、ラテックスのような流動的な素材を用いて、類例のない作品を生み出すようになった(写真2に示した1963年作の「眼差し」は布とラテックスとで作られていた)。1962年作の「隠れ家」、同年作の「迷宮の塔」。また、吊して展示する形式を得た最初の作品「お針子の妖精」を1963年に、奇妙なレリーフ作品である「トルソー、自画像」を1963ー1964年に、、、と見ていくと、この時期から猛烈な勢いで制作に集中していく様子が見て取れる。この展覧会でもっとも感動的な作品群であった。1967年作の「眠りⅡ」のように大きな大理石を彫って磨き上げている例もあって、制作はいよいよ1960年代末の佳境に入っていく。2000年代には馴染みある布を巧みに使うようにもなった。
     ニューヨーク近代美術館がルイーズ・ブルジョワの展覧会を行なったのは、彼女が70歳を過ぎた1982年であり、いかにも遅いのだが、評価が定着してからは、すでに1947年に小さな紙切れに描いていた「蜘蛛」が巨大なスケールの彫刻として何点も実現したり、作品が大型化したりインスタレーション化、スペクタクル化したりするようにもなった。どの作品も細部まで神経が行き届いていて見飽きるということがないが、文を綴る力が尽きた。

     こうしてルイーズ・ブルジョワの制作の流れを時系列でおおまかに追っていくためだけにも、私は会場内を何度も行ったり来たりしなければならなかった。繰り返しになるが、私としては、個人作家の大掛かりな展覧会ほど、シンプルに時系列を重んじて構成してほしい、という気持ちが拭えない。確かにいい運動にはなるのだが、、、。
     それはともあれ、見応えのある素晴らしい展覧会だった。

    (2025年1月18日、東京にて)
  • 「ルイーズ・ブルジョワ展」
    地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ

    会期:2024年9月25日(水)~ 2025年1月19日(日)
    開館時間:10:00~22:00
    会場:森美術館(六本木ヒルズ森タワー53階)
    主催:森美術館、読売新聞社、NHK
    協賛:ゲラン株式会社、鹿島建設株式会社、株式会社大林組、株式会社竹中工務店、トヨタ自動車株式会社、三機工業株式会社
    特別協力:イーストン財団
    協力:全日本空輸株式会社
    企画:椿 玲子(森美術館キュレーター)、矢作 学(森美術館アソシエイト・キュレーター)
    企画監修:フィリップ・ララット=スミス(イーストン財団キュレーター)

    公式HP:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/bourgeois/


    写真1:「無題(地獄から帰ってきたところ)」1996年、ハンカチに刺繍、49.5×45.7cm
    写真2:「家出娘」1938年頃、キャンバスに油彩・木炭・鉛筆、61×38.2cm
    写真3:「眼差し」1963年、ラテックス・布、12.7×39.4×36.8cm
    写真4:「C.O.Y.O.T.E」1947〜1949年(1979年に改題、ピンクに塗装)ブロンズ・ステンレス鋼・塗料、131.8×209.6×28.9cm
    写真5:「コラム2 無意識の風景」の展示風景より、左奥から1962年、1963ー64年、1967ー68年、手前が1968年の作品。1968年作の手前の作品が大理石を彫って作られている以外は、いずれもブロンズに塗装。
  • [ 藤村克裕プロフィール ]
  • 1951年生まれ 帯広出身
  • 立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
  • 1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
  • 1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
  • 内外の賞を数々受賞。
  • 元京都芸術大学教授。
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