で、つげ義春である。この『Spectator』の115ページから118ページをごらんになっていただければ一目瞭然。1960年代半ばくらいの写真雑誌の写真図版をもとにいくつかの場面が描かれていることがわかる。記事には、2006年頃に「ねじ式」で参考にされたと思われる画像が2006年ごろに「ミクシイ」に連続投稿された、とある。それによって、「ねじ式」はつげの実際の夢だけではなく、「既存のイメージを複数つなぎあわせて描かれた、という解釈がじょじょに広がりつつある」、ともあった。
藤本氏と足立氏との対談では、「我々が以前より続けている、水木しげるの作品資料を探る活動の最中、そのアシスタントを務めたつげ義春の作品資料にもぶつかった」と足立氏が語っている。そうして“ぶつかった”資料のうちからの今回の公開らしい。(同誌の別の記事の中では、つげ氏は水木しげるの「アシスタント」をやっていたのではなく、「助っ人」として重要な役割を担っていた、との指摘もあった。)
足立氏は「主人公が苦悩するシーンの鼓笛隊のシルエット」について、「前に展覧会「石子順造的世界」(府中市美術館/二〇一一年)で原画を見たけど、鼓笛隊の部分は、とってつけたように貼りこんであった」ので「ねじ式」が「コラージュ的な作品だと気づかされた」と言っている。私もその展覧会で「ねじ式」の原画を見たが、足立氏が指摘する貼りこみのことは記憶していない。気がつかなかったのだと思う。情けないことである。
また、「スパナ男」がアイヌ語学者・知里高央(ちりたかなか)氏を撮った木村伊兵衛撮影の写真からのもので、それは『アサヒカメラ』誌上に掲載されたものだ、言っている。私はここでさらにびっくりしてしまった。
というのも、この知里高央という人のことは、私の恩師というべき石川浩(いしかわゆたか)さんと話していた時、たびたび登場したからである。石川さんは京都からやってきて北海道の江差で高校の教員になった。その時の同僚、一人が知里高央氏だった、というのである。お互い、住まいが近かったこともあって、とても親しくしていた、と様々な逸話を聞いた。教員の仕事の合間にアイヌ語辞典のためのカードを整えていた、その最中に急死した経緯などを記した石川さんの痛切な文章がある。(ちなみに、平凡社から6巻の著作集が出ている知里真志保は高央氏の弟、岩波文庫「アイヌ神謡集」の知里幸恵は姉。三省堂の全7巻のユーカラ全集の金成マツは伯母、というように、知里一族がどれほど優秀で、大きな仕事をしたかは、アイヌに関心を寄せる心ある人なら誰でも知っている。)その石川さんの文章にも登場した娘さんがこの対談で言われている知里むつみさんなのである。
さらに余談を一つだけ。「件の男は火鉢にのせたヤカンの前に座る」とあるのはまちがい。火鉢ではなく、あれはマキ(薪)ストーブ。そういえば、つげ義春夫人は藤原マキであった。
ストーブの右側にあるのは湯沸かし。排煙の煙の熱で湯を沸かすようになっている。よく見れば、ストーブの下にタイル貼りの“台”が敷かれているのがわかる。昔の北海道の普通の家の冬の居間はだいたいこんな感じだった。写真の知里氏がスパナを握っていないのはいうまでもない。)
他にも写真図版と「ねじ式」のコマとの照合が複数なされていて、じつに興味深い。
藤本氏は言っている。「それにしても、「ねじ式」は長く愛されてきた名作なのに、こうした参考写真が使われてきたということについて何も論じてこなかったというのは、研究家や評論家は何をやってたんだろうか、とも思ってしまいますね。」
足立氏は言っている。「仮に「ねじ式」が、作者の記したとおり「ラーメン屋の屋根の上で見た夢」だったと信じて考えるに、夢が過去に見た情景を構成したものであるとしたら、情景を記録しつつ魔術的な面も持っている写真の力というものは、夢を描く資料としては最適なものでしょ。それをチョイスする力もまた才能だよね。ただ、こうした参考写真の発掘で「ねじ式」が理解できたかといえば全然だよ。それどころか、ますます面白いし、謎めいていく気がする。」
なるほど。
とここで、「ねじ式」が掲載された時の『ガロ』を探したのだが、あったはずのところにない。見つからないのは、ないのと同じだ。くどいが。ついでに探して見たが、赤瀬川原平の「おざ式」掲載の『ガロ』もまた行方不明。そのうちこの『Spectator』もどこかに紛れてしまうのだろうか。ああ。
2018年3月26日 東京にて
●『Spectator』
http://www.spectatorweb.com/
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