東京・六本木・国立新美術館で開催中の「ジャコメッティ」展を見た。
あのマーグ財団からの作品を中心にして、最初期の作品から晩年のリトグラフまで、ほぼ年代順に整理されての展示だ。見応えがある。
彫刻作品では、かなりの数の作品がアクリルのケースに入っていて隔靴掻痒の感も否めない。が、アクリル板への写り込みやケースの稜近辺に生じてしまっている屈折による像の歪みなどが結構カッコよくて、思いがけない楽しみ方ができる。作品と作品とのあいだに見える向こうの作品との関係などもカッコよい。それはジャコメッティの作品ゆえか、会場構成=インスタレーションの成功ゆえか、判然としない。つい作品に見入ってしまって我を忘れ、やがて息を吐きながら視線をそらした時、壁の白さだけが眼に飛び込んでくる、そんな場面も多々あったが、このタイミングすらも会場構成に組み込まれているようにさえ感じさせられたのだった。とはいえ、ジャコメッティの作品なしに同様のことができるか、といえばその答えは明らかであろう。
彫刻作品では、つい周囲を巡ったり、膝を使って眼の高さを変化させたり、近寄ったり離れたりで作品との距離を変化させたり、など、させられてしまう。膝をなかば曲げて眼の高さをやや低いところに置くと、息をのむくらいカッコいい作品が多い。そのカッコよさに長い間浸っていようとすると、まるで筋トレになる。このように、ジャコメッティの彫刻作品は、ここから見てね、と促してくるのである。膝を曲げながら作品の周囲を巡ろうとすると、太腿がプルプルし始める。ホドホドにするのがよい、と判断した。
彫刻作品の周囲を巡ることを自然に促される、といえば、「キューブ」でそれがとりわけ顕著だ。わずかに眼の位置が移動するだけで、作品の相貌が激変する。出会い頭に一瞥する形状がもうそれだけでカッコいいので引きつけられるだけでなく、つい回りを巡りたくなるのだ。どの面もわずかに膨らんでいるのと、稜がまっすぐでシャープだということが主要な理由であろう。なので、膨らみの向こうと断ち切られた稜線の向こうとの対比が次々に生じ、つい、ひと回りもふた回りも反対回りもしてしまう。近寄ったり離れたり、背伸びしたりしゃがんだりさえもして、心ゆくまで相貌の変化を楽しんでしまうのである。
そういえば、ユベルマンというひとがこの作品をめぐって一冊の本を書いていたことを思い出していた。私も翻訳で読んだことがあったはずだ。しかし、不覚にも中身をすっかり忘れてしまっていた。大変に精緻な内容だった、という感触だけがある。帰宅して、本棚を引っ掻き回して探し出しパラパラしてみると、あれま、上を向いた面上にニードル様のもので引っ掻いて描いたデッサンがあることを手掛かりに論が進行している。あれま、あんなに見入ったのにデッサンがあったことにはまったく気付いていなかった。えーん。すごく損した気分になった。ま、も一回見に行けば済むことだが。
眼の位置がわずかに動くと作品の相貌が激変するのは、なにも「キューブ」に限らない。それは彫刻と言われる表現形式の特質だといえる。とはいえ、ジャコメッティの彫刻には正面性というか、既に述べたことだが、正面のある一点から見てね、というようなところがある。その「一点」をさがす楽しみもあるのだ。もっともそれは私なりの楽しみ方。どう楽しもうが、当然のことながら自由なのである。
会場入り口すぐに置かれていた大きな立像では、横に回らなければ、下半身に対して上半身がわずかなズレ=捻りが作り出されていることに気付けなかった。それに気付いたあとに、もう一度正面から見ると、じつに生き生き感じられてくる。そのことは、いつのまにか「ジャコメッティ」という“形式”に慣れてしまっていて、見ることがおろそかになってしまっている、ということだろう。見るということを絶えず更新することをジャコメッティの作品は観客に求めてくる。
台座、といってよいかどうか、足下の直方体の形状のことも興味深い。手前が低く、奥が高くなっているものが多数ある。なぜそうした形状になったのか?
「私の彫刻はここから見てね」とジャコメッティが促してくることと関係がありそうだが、この文では深入りしない。
デッサンも素晴らしい。とりわけ、最初期の人体デッサンの出品には感激した。
また、先日、ある方が、最晩年の版画集『終わりなきパリ』の普及版であろうか、惜しげもなく私にしばらく貸して下さった。おかげで私は毎日見入ることができた。素晴らしい作品集だった。そのオリジナル本と収録されている版画の一部が展示されていたのも思いがけないことで嬉しかった。
それにしても会場を冷やし過ぎ。寒いぞ!
2017年6月29日 東京にて