大阪・国立国際美術館で「ボルタンスキー」展を見てきた友人の感想などのことを、以前ここに書いた。だもんで(おっと、ナゴヤ風?)、東京にやって来たら見に行くセキニンがあるような気がした。セキニンだなんて、ただの錯覚なのだが、六本木・国立新美術館に行ってきた。
ボルタンスキーという人の作品のことは1970年代から知っていたような気がする。雑誌などで紹介される彼の作品の情報からは、一見して、ただちにホロコーストとの関係を感じさせられていた。とはいえ、ボルタンスキーのことを詳しく調べてみたことはなかった。今回も図録などを入手していないので、何も知らないに等しい。何年か前に東京都庭園美術館で開催されたボルタンスキー展の記憶もあやふやになってしまっている。その図録も手元にない。ぶっつけ本番で書くのである。
モギリのお姉さんから「会場マップ」を受け取って一歩踏み出すと、なんと、激しい咳き込みの音が繰り返し聞こえてくるではないか。同時に正面壁上方に丸い小さな青いライトが並んで、「DEPART」と文字の形状を示している。ボルタンスキーの世界への「出発」ですよ、と言うのであろう。派手な咳き込みの音が続いている。さらに進むと、右手にスペースが設えられているのが分かる。
案の定、暗いスペースで映像=映画が上映されている。ベンチもある。ありがたい。
映写されていたのは、窓が一つある屋根裏のような部屋で体を壁に預け足を床に投げ出してひどく咳き込み続ける人物の姿である。見れば、人物の頭部は仮面で覆われ、咳き込みながら血のようなものを吐いている。口のところだけ仮面に穴があけられているようだ。ズボンも床も血のようなもので汚れている。咳はずっと続き、血のようなものが繰り返し吐き出される。肺を病んでじきに死んでいく人の姿。イヤーな気がしてくる映像である。カット割りがあったかどうか記憶にない。カメラは上から見下ろすようにして撮影していく。あのように何度も血のようなものをたくさん吐くようにするには、何か仕掛けが必要だろうが、それを詮索するのはいかにも余計なお世話だろう。「咳をする男」。2分28秒の1969年の作品。
引き続き「舐める男」。2分02秒。これも1969年作品。壁を背景に椅子に座らされた人形。女を表している。等身大。この人形の膝のあたりから上方へと仮面を被った男がぺろぺろと舐めていく。無表情の仮面の口から“本物の”舌が出てぺろぺろするのである。カメラはその様子を追っていく。これもまたイヤーな気持ちにさせられる映像だ。
というわけでのっけから、変化球は投げません、豪速球でいきます、とボルタンスキーは言っているのだろう。病、死、貧しさ、愛、欲望、‥‥、そういう厄介な問題群を、豪速球で、ど真ん中目指して。
おののきながら次の部屋に踏み込む。暗い。展示されているものがはっきりとは見えない。
私の老眼は、夕方になると物差しの目盛が見えにくくなった、と気づいた時から始まった。つまり、暗いということは、見えにくい状態があえて作り出されている、ということだ。それは老人に対してばかりではないだろう。
というか、窓のない展示空間は本来どこからも光が届かず真っ暗だから、電気の力で明るさが作り出される。どんな明るさも暗さも人為的、と言ってよい。光源は作品と一体になった黒い塗装の“スタンド”(正式な名称が分らない)や複数の裸電球である。シーリングライトは使われていなかったようだが、確認を怠った。加えて壁が全てグレイに塗られて(グレイの紙が貼られて)いる。
そのグレイ塗装(あるいは壁紙)の壁には、日常のスナップ写真(モノクロ)らしきを一定の大きさに引き伸ばして、整然と縦に10枚横に15列、計150枚、格子状に展示してある。すごい物量である。それは了解できる。が、暗くて写真の“中身”がよく見えない。ある雰囲気が伝われば十分、というのだろうか?
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