段ボール箱には、中に収められていた製品を示すロゴ、(たとえばハーマンミラーとかのロゴ)が印刷されている。そのロゴは、段ボール箱自体は高価なものではないが中に入っていたはずの製品は“由緒正しい”比較的高価なものだった、ということを雄弁に語っている。言い換えれば、その製品にまつわるさまざまなイメージや文脈が自然にオルゴールが取り付けられた段ボール箱に重なってくるのである。
思い切ってつまみを回してみる。段ボール箱の空洞に反響して、どこかで聞いたことのある短い旋律が奏でられる。同じ箱の別のつまみを回してみる。同じ旋律が奏でられる。ひとつの旋律が聞こえなくなる前に別のつまみを回してみる。当然のことだが音の重なりができる。聞いたことのある短い旋律が別のものに転じ、元の旋律に戻ってくるのだ。それは単独のつまみでは作り出せない状況である。つまみが二つあることによって、オルゴールで即興演奏ができる、と言ってもよい。面白い。
様々な箱のつまみを回してみる。ギャラリーの空間は、つかの間のコンサートホールのようになる。
つい、つまみを回すことにばかり集中してしまって、音を聞くのが疎かになるのが情けない。
壁いっぱいにたくさんの段ボール箱がくっつけられている作品では、一つのつまみから一つの高さの音しか出ない。わずかな間隔を置いて同じ高さの音が二回出ることもあるので、どうやら、ある旋律を奏でるはずのオルゴールの爪を、ある高さの音の爪だけを残して、他の不要な複数の爪は何かの方法で取り去ったものではないか、その操作をすべての高さの音についておこなって、そのオルゴールを箱に取り付けたのではないか、と想像できる。たくさんの段ボール箱に取り付けたオルゴールがすべてそろうとあるひとつの旋律が奏でられるはずなのだが、つまみを回すタイミングが特定できないので、どんな旋律になるか、どんな音の重なりになるか、その時その時にならないと決まらない。一回限りの出来事が今ここで起こっている、ということが際立ってくる。
時を置いて思い起こしてみると、どんな曲だったか、箱の数はいくつあったか、などのことがなかなか思い出せないが、驚きに近いわくわくした気持ちのときめきは、ありありと蘇える。
(2014年7月9日 東京にて)