藤村克裕雑記帳
2024-08-14
  • 藤村克裕雑記帳265
  • 東京都現代美術館「高橋龍太郎コレクション」展に行ってきた
  •  連日の猛暑の中の拙宅の耐震補強工事も、工務店と職人さんたちがお盆休みに入って、一時休止である。しめた! 外出できる。で、8月11日(日)、張り切って東京都現代美術館に展覧会見物に行った。
     都営新宿線・菊川駅に降り立ち、普段ならそのままテクテク歩くのだが、暑すぎる。バスで行く。午前10時過ぎの菊川駅バス停には列ができていたが、そこは建物の日陰であった。そんな些細なことが嬉しい。程なくバスはやってきて現代美術館前に到着。「日本現代美術私観 高橋龍太郎コレクション」展に入った。

     日本現代美術のコレクターとして名高い高橋龍太郎氏(1946〜)である。いまやそのコレクション総数は3500点を超えるという。それらの中から選んだ作品に、東京都現代美術館の収蔵作品を加えることで構成した展覧会(と聞いている)。なぜ、公立美術館が、個人のコレクションに依存した展覧会を開催するのか? 他人のフンドシで相撲を取るようなものではないか? というような疑問は当然のように浮かんでくるが、ともかくは一通り見てから考えてみることにした。この展覧会の担当は学芸員の藪前知子氏と聞いた。

     入場後まず出くわしたのは、故久保守氏と故中原實氏の各一点ずつの油画作品だった。と、書いて(打ち込んで)みて、手が止まる。作品のサイズはもちろん、タイトルや制作年も記憶に残っていないことに気付かされるのだ。そんな時は、いつもなら、会場から持ち帰ってくる「出品目録」を頼りにできる。だが、この日には、なんと、「出品目録」が会場のどこにも置かれていなかったのである。
     なので、会場から出る時に、入退場をチェックしているお姉さんに「出品目録」のことを尋ねてみた。そしたら、私どもでは分かりませんので少しお待ちください、と“係”の人を呼んでくれた。現れたその男性に(お名前も所属も聞きそびれた)、「出品目録」はいつできますか? と尋ねると、9月上旬には図録が刊行される予定なのでその頃には「出品目録」もできるはずですが、詳しいことは、当館のホームページからこの展覧会を検索して、「出品目録」に関する告知や「出品目録」の公開がなされるのを待ってもらえないでしょうか、とのことであった。
     「出品目録」なしに展覧会の図録を作れるのか? なぜ図録の刊行時期と「出品目録」との公開が重なるのか? など数々の疑問が生じたが、食い下がっても、流行りの“カスハラ”になりかねないので、ほどほどにした。が、いかにも釈然としない。男性係員の方はとってもきちんとした方だったのに。
     公立美術館の展覧会で、観客のために「出品目録」が準備されていないなんてことは、今まで私は経験したことがなかった。この事態はどう考えてもありえないことである。担当学芸員氏は(もちろん館長氏でも東京都知事氏でもいいけど)こうした事態に至った事情の説明を行い、その説明を含めて「出品目録」を少なくともホームページ上に可能な限り早く公開・配布すべきである。ぷんぷん!

     で、この文を続けて書く(打ち込む)ために、しょうがないので、拙宅にあったはずの久保守氏と中原實氏の資料を探すことにした(ぷんぷん)。
     結果、中原實氏の資料だけはなんとか見つけ出して取り出すことができた(前述の耐震補強工事を円滑に進めるために、現在、全ての荷物を“塊”にしているので思うように探し出せないのだ)。取り出せたのは、1989年に武蔵野市が発行した「中原實展」の図録だったが、中を繰れば、、、あった。当該油彩作品は1947年作の『杉の子』(167.0×135.0cm)だったのである。
     もう一方の久保守氏作品だが、彼の資料が拙宅のどこにあるかは分かっている。が、その場所の前には、今、大きな荷物がいくつも積み重なって鎮座しているので、取り出すのは諦めた。展示されていた久保氏の作品は、空襲で焼け野原と化し何もかも無くなった後の冬の東京の風景を、おそらくは写生を元にして油絵として描いたのだろう、大変きちんとした絵であった。
     これら二点、いずれも東京都現代美術館の所蔵。どちらも作者の本格的な技量をよく示すとてもいい絵であった。会場に置かれていて観客が自由に持ち帰ってよい「展覧会ガイド」(会場に掲げられていた文章と同じ文章が日英の二か国語で、加えて会場配置図とがA3両面に刷られている)によれば、この二作品からこの展覧会を開始したのには次のような理由がある、とのことであった。①二点とも高橋龍太郎氏が生まれた1946年頃に描かれた作品であること、②東京都現代美術館が扱う戦後美術(高橋龍太郎氏の「胎内記憶」と重なる50年間の美術)の起点に位置付けうる作品であること。なんだか、コジツケのような気がしないでもない。きっと多々あるであろう東京都現代美術館所蔵の1946年前後制作の作品群から、なぜこれら二点を選んだのか、という理由が曖昧なのではないか。加えて、高橋氏は、「いい絵」には興味がない、ということをYouTubeで閲覧可能なインタビューなどで繰り返し述べている。なのに、なぜ、この二作品で始めるのか、それが分からない。分からないが、思いがけない絵を見ることができたのはラッキーといえばラッキーであった。

     これら二作品を掲げたスペースの床には什器を置いて、高橋氏の若き日の姿を捉えた写真や、吉本隆明『擬制の終焉』など学生当時の愛読書、編集に携わっていたというサルトル特集掲載の「三田新聞」のコピーなどをガラスケース越しに展示し、高橋氏の「胎内記憶」を暗示していた。これらを「胎内記憶」というのもなんだかなあ、と思ったが、こだわらずに先に進んだ。

  •  次のスペースは、草間彌生氏に捧げられている、という印象だった。
     私が注目したのは、幾重にも紙を重ねながら豊かな調子を含んだ黒で“網目”を描いた作品(タイトルなどの情報が分からない。撮影禁止だったし、なにせ出品目録さえないのだ)とビデオの映像。いずれも私は初めて見たものだが、ビデオ映像では、一頭の馬とドレス姿の自分に白い丸のシール(=水玉)を貼り付けたうえで、草間氏が馬に乗って移動したり馬を引いて移動したりする様子が、まるで非現実の木漏れ日の中を進んでいく光景のようで、広がりを感じさせてくれて、小さなモニタの荒れた画面にもかかわらず、私は一気に囚われたのである。
     進んだ先の池の水を飲む馬、池に入り込んで進んでいく草間氏の姿、池にキャンバスを浮かべて水玉を描きこんでいく草間氏、その水玉が画面から剥離したように水に浮かんでいくシーン、、、というように始まったこの映像を見ることができただけで、私はもう十分に満足し、この展覧会を訪れてよかった、と思ったのである。
     ただし、注意すべきは、これは当時の草間彌生氏の活動の一部を撮影した映像作品であって、撮影をした人、編集をした人などは別にいるわけである。映像内にクレジットが出ていたが、不覚にもこれも記憶できていない。
     草間彌生氏と高橋龍太郎氏とは、とても深いところで因縁があるようで、高橋氏が慶應義塾大学医学部を中退し映像作家を目指して苦闘している時に、ニューヨークの草間氏の活動を示すビデオ映像を見る機会があって、「才能」というものの違い(!)に直面させられ、高橋氏は映像作家になる夢を諦めて、医者への道のりのやり直しをする決断に至った(らしい)。
     展示されていたビデオ映像が、高橋氏が「才能」の違いを見せつけられたというそのビデオ映像と同じものなのかどうかは分からない。分からないが、展示されていたビデオ映像からは、若き日の高橋氏の気持ちを十分すぎるほど想像することができる(「自らの才能に限界を感じ」て夢を絶つのもまた才能なのだろう)ようなじつに興味深いものだった。
     そんなわけで、この一つのスペースすべてが草間彌生氏の作品で埋まっていた。高橋氏は草間氏の最初期からの作品をほぼ網羅してコレクションしているようである。これは、すごいことだ。やはり、高橋氏は草間氏との“因縁”を強く意識しているのだろう。 
     高橋氏が90年代半ばに自らの営むクリニックの待合室に展示するために草間作品を購入した時、「自分が生きてきた時間が祝福されていると感じた」、と「展覧会ガイド」にあって、この思いがけない言葉に感動させられた。作品を購入して手元に置くことの意味を深く考えさせられたのである。

  •  続くスペースには、赤瀬川原平、合田佐和子、司修、荒木経惟、森山大道、横尾忠則、宇野亜喜良、タイガー立石、、、など60年代70年代初頭のスターたちの作品が並んで、これらを久保守作品、中原實作品を含めて「1 胎内記憶」として構成していた。冒頭の二点と草間作品を除けば、当時、印刷物を活躍の舞台としていた人々の作品が多いのが特徴、といえば特徴だろう。森山大道氏が深夜の新宿あたりを“徘徊”しながら撮った(らしき)何が写っているかほとんど分からないビデオが珍しい。が、全部見るには至らなかった。いかにも長そうだったのである。
     以下、「2 戦後の終わりとはじまり」「3 新しい人類たち」「4 崩壊と再生」「5 『私』の再定義」「6 路上に還る」と続いていく。記憶に残った作品についてのみメモする。

     小沢剛氏が当時各家庭の玄関先に当たり前に見かけた牛乳瓶受けを用いて「なすび画廊」と名付け、友人・知人に作品を“設営”してもらって、銀座一丁目の「なびす画廊」に面した街路樹とかにくくりつけて展示した活動が展示されていたのには驚いた。
     私も、当時、福田美蘭氏から案内をもらって(だったか、記憶が曖昧だが)、「なすび画廊」の見物に行ったことがあったが、その時、福田氏はおもちゃのカメラを牛乳箱の中に置いていた。それもちゃんと展示に含まれていたので大変感心したのである(ただし、あの時の箱は黄色かったような気がする)。
     小沢氏のこの作品「なすび画廊」は、一見おふざけのように見えるが、作品発表をめぐる画廊、とりわけ貸画廊という制度に切り込む鋭さがあった。持ち運び出来て、ゲリラ的に各所に(=時には小沢氏の背中とかにまでも)“設営”できる牛乳箱を画廊にしてしまう発想は、こちらは私は実見していないがあの「蟻鱒鳶ル」の岡啓輔氏によるかつての高円寺での自室の窓を画廊にしてしまう「岡画郎」(変換間違い・変換確認ミスではない。何かの問題が生じた時、岡氏が自分の名前は岡画郎で、画廊をやっているのではない、といいわけするための方策だったのである)、こちらも私は実見していないが、段ボールの箱を画廊=「パープルームギャラリー」にしてしまう最初期のパープルーム(梅津庸一氏主宰)などとともに出色の取り組みだ、と私は思っている。
     この「なすび画廊」を高橋龍太郎氏がこうして所蔵しているとなれば、「岡画郎」の資料や最初期の「パープルームギャラリー」だった段ボール箱や資料も所蔵しているのであろうか? などと考えたり、あ、そうか、さっき見た中原實氏の「杉の子」には、眠る女の子の“枕”が日本列島になっていて、その日本列島に巻きつく糸の先にはなぜか茄子が結び付けられていた。中原作品と小沢作品とは“なすび繋がり”だったか、、、粋な計らいをするなあ、、、などとつい余計なことを考えたりしてしまうのであった。
     「なすび画廊」の隣には、八谷和彦氏撮影の「ザ・ギンブラート」(1993年)と「新宿少年アート」(1994年)の記録映像があって、この展示にも驚いた。いずれも、中村政人氏が組織して行なったイベントであったが、実態がほとんど共有されていない。なので、実に貴重な資料だといえる。長くモニタの前に佇んだが、未編集の故か、撮りっぱなしのダラダラ感がつらくて、全部見るには至らなかった。キャプションにこの映像を全部見るのに必要な“所要時間”が示されていないのは不親切だと思う(森山大道のビデオ作品も同様だったが)。
     先に述べた小沢剛氏の「なすび画廊」は、この「ザ・ギンブラート」を機に発表されたような記憶がある。この時の小沢氏は、明らかに貸画廊の老舗=なびす画廊を標的にしている。というか、「ザ・ギンブラート」が若い美術家たちが貸画廊から飛び出て作品発表の場所を求める試みであり、それが同時に貸画廊制度への批判となっているものであった。その動きの中心になっていた中村政人氏が、この時期に『貸画廊』というインタビュー集を作っていたことはとても重要であるが、このことはキャプションでも触れられていなかった(ように思う)。「ザ・ギンブラート」の参加者の一人だった会田誠氏は日動画廊前の路上で自分の絵や写真を販売していたと伝説的に伝えられるが、展示されていたビデオでその姿を確認するには至らなかった。立ったまま、長時間ビデオ映像を確認し続けるのはつらい。
     八谷氏のこのビデオは東京都現代美術館所蔵。つまり、高橋コレクションの「なすび画廊」を“補強”する意味でのチョイスであろう。
     ついでに述べておけば、「ザ・ギンブラート」は、誰でも分かるように、銀座をブラブラする意味の「ギンブラ」のもじりであり、「新宿少年アート」は、当時若い美術家たちに一定の影響力があった中村信夫氏の『少年アート』(1986年、スケール)とその信奉者への“あてこすり”の意味もあったに違いない。

     奈良美智氏のドローイング作品、これが素晴らしい。と感じたのはどういうことだろう? 展示されていた作品が発表されたのを見たかどうか記憶にないが、小山登美夫ギャラリーがまだ佐賀町だったかのあの古いビルの小さなスペースにあった時、鉛筆で描いた小さなドローイングをたくさん壁に展示していたのは見ている。見ているが、奈良美智の名をその時に記憶したわけでもなく、発表されていたドローイング群の良さはちっとも分からなかった。このことは白状していいだろう。チンプンカンプンという曖昧な感情を抱えてあの階段を降りた記憶がある。今、同じような時期の奈良作品を見て、素晴らしい、と感じるとすれば、私は何をどう見ているのか、見てきたのか、自信がなくなる。逆に、発表当時、おお、面白い、と思った加藤泉氏の作品は、今回はちっとも面白く見えなかったし、良い、とも感じなかった。こういうことは、じつに困ったことである。

  •  呆れてしまった、としか言いようがないのは、やはり西尾康之氏の「Crash Sayla Mass」(2005年)であろう。2006年、上野の森美術館での「ガンダム」展で発表されたのを見て度肝を抜かれた記憶がまざまざと蘇る。全長6メートルといわれる巨大な彫刻である。
     彫刻、といっても只事ではない。大きさのことはもとより、作り方がすごい。「陰刻鋳造」という独自の技法なのだ。
     ふつう塑像は心棒を立て、そこに粘土を付けたり取ったりして形状を作り上げていく。そのままでは乾燥していずれ壊れてしまうので、石膏で雌型を取り、その雌型に石膏を流し込んで石膏原型をつくって保管する。石膏原型があればそれをさらに、たとえばブロンズに置き換えることができる。ふつうはそうするのだが、西尾氏は粘土をいきなり雌型にしてしまうのだ。粘土の”内側”に雌型の形状、つまり凸凹が反転した形状を作って(だから「陰刻」である)、そこに石膏を流し込んで(だから「鋳造」である)そのまま石膏原型にしてしまう。つまり、手順をひとつ(ふたつ)省略してしまうのだ。こうした想像を絶する“技法”で作り上げたのが、この巨大な女性像=セイラなのである。
     見れば、作品の表面に指の跡が無数にあってものすごい迫力である。爪まで作っている指がびっしり並んでいるところもある。そして、この大きさである。一体どうやって作りあげたものか? 
     すごい! としか当時も今も言いようがない。
     お腹のところは抉れて操縦席が造られている。そこも見てちょうだい、と今回は床面と平行に大きな鏡が置かれている。サービス満点である。
     かてて加えて、このように巨大な彫刻を、こともあろうに、「買って」しまって、コレクションしている個人=高橋龍太郎氏がいる。驚くべきことだ。この事実に心底びっくりした。それは森靖氏の「Jam bore EP」(2014 )がコレクションされていたことを今回知った以上の衝撃であった(二度目はびっくりしないのである)。コレクションもある意味で「表現」なのかもしれない、と考えた。
     おそらくは、2006年、上野の森美術館でのあの「ガンダム展」の会場で、私が西尾氏の作品(=セイラ)を前に口あんぐりしている時に、高橋龍太郎氏は、これ、買っちゃう! と決めたのだろう。で、買っちゃったわけなのである。すごいな。本当にすごいな。
     私の手元には、「ガンダム展」会場で当時購入した図録とボールペンが残っている(はずだ)けれど、“巨大セイラ”を買っちゃうなんて考えたこともなかった。「ガンダム展」を企画・組織した東谷隆司氏はすでに死んでしまったし、いつのまにか長い時間が経って、こうした形で“再会”し、今度もまた呆れているのである。しかも、こんどは西尾氏と高橋氏とに口あんぐりなのだ。
     そんなわけで、「2 戦後の終わりとはじまり」の章から、「3 新しい人類たち」の章に至ったのだが、前本彰子氏とできやよい氏が印象に残ったくらいで他の記憶があまり残っていない。

     エスカレータで地下に降りれば、高橋龍太郎氏の年譜があった。興味深く拝見したが、若い人たちが熱心に見入っていたのがじつに印象的だった。
     Chim↑Pom from Smappa!Group、三瀬夏之介氏などの展示に続く巨大空間=ホワイエの展示は見応えがあった。特に、弓指寛治氏。この人にはこうして絵を描かなければならない必然性というか、確かな理由のようなものがあるように見える。そのことによってであろう、一枚の絵でこの贅沢な空間を圧倒していた。ここまでが「4 崩壊と再生」。
     「5 『私』の再定義」では、梅澤和木氏が印象に残るものの、岡崎乾二郎氏を含めてほとんど印象に残っていない。
     「6 路上に還る」で、記憶に残っているのはSide Coreと國松希根太氏くらいか。

     総じての感想だが、この際、3500点以上と言われる高橋コレクションの全貌を全館あげてたとえば購入順に示してしまう、というような展覧会を実現した方が、遥かに豊かな問題提起になったのではないか、としきりに思ったのである。
     個人が“身銭”を切って作品を購入し、途方もない「コレクション」を形成してきたわけである。税務をどのように処理しているかなど知るところではないが、ともかくこれは並のことではない。
     そのような「高橋コレクション」に東京都現代美術館が介入して作品を選定し、さらに所蔵品で補足しながら章立てを行なって整理し、“美術史”に位置付けようとすることは、はっきり言って成功していない。随所に感じ取れる“マウント取り”というか、“啓蒙的な姿勢”が鼻につく。つまり、もっともらしい“章立て”とか美術史的な整理などということにこだわることなく、「高橋コレクション」の全貌に焦点を合わせ、「高橋コレクション」自体を示していく、というような、“太っ腹”な美術館側の姿勢が求められていたように思う。せっかくの機会だったのに残念である。

     それにしても、どこか、巨大な倉庫の中で行われたらしい、薮内知子氏による高橋龍太郎氏へのインタビューのビデオ映像は、私の場合、その倉庫の様子にばかり目が行った。いったい全体、高橋氏は、自分のコレクションを日常生活の中でどう用いて、生活空間の中にコレクション作品をどう活かして、どう暮らしているのであろうか、というようなことが気になってくる。梱包された数々の作品が巨大な倉庫に山積みされている光景は、その片隅の様子だけでも大迫力だが、そればかりではいかにも悲しい。コレクションをどう活かしているか、そういうところにこそ切り込んでほしかった。高橋氏は3500点以上の作品とどう付き合っているのか、それが知りたい。

     (一休みして、開発好明展やコレクション展も見たが、ここまでこの文を綴ってきて、もう疲れてしまった。今回はここでおしまい。)

     帰路は木場方面からのバスが随分遅れたが、バス停はすでに日陰になっていたので、ま、“楽勝”であった。
    (8月14日、東京にて)
  • 「日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション」

    会期:2024年8月3日(土)- 11月10日(日)
    開催時間:10:00-18:00(展示室入場は閉館の30分前まで)
    *8月9日、16日、23日、30日の金曜日は21:00まで開館
    休館日:月曜日(8/12、9/16、9/23、10/14、11/4は開館)、8/13、9/17、9/24、10/15、11/5
    会場:東京都現代美術館 企画展示室 1F/B2F、ホワイエ
    観覧料:一般2,100円(1,680円)/ 大学生・専門学校生・65 歳以上1,350円(1,080円)/ 中高生840円(670円)/小学生以下無料

    公式HP:https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/TRC/

    画像1:チラシ 広報物デザイン/いすたえこ
    © YAYOI KUSAMA
  • [ 藤村克裕プロフィール ]
  • 1951年生まれ 帯広出身
  • 立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
  • 1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
  • 1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
  • 内外の賞を数々受賞。
  • 元京都芸術大学教授。
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