「ダダ」をもじったADDAというギャラリーなんですけどね。どういうことかっていうと‥‥真っ白なきれいな壁がある。パッと見た時、真っ正面のコーナーがあるでしょう、それを八十センチの距離で、上からずっと撮ったんです、約五十枚。それを五十センチ右に移動させると角が、コーナーが二つできちゃう。そうすると、入った瞬間に、画廊全体が妙にゆがむわけですよ。だから評論家などは、これはミニマルだって言うんだけれども、ぼくにとってはそうじゃない。「決闘」で言ってきたことの完全な実践なんだ。壁のコーナーにあるシミ一つを正確に計ってそれで移動させるわけでしょう。だから、写真の行為っていうのは、ものすごく抽象しちゃうとそういうことになるんじゃないか。もう一度、画廊のコーナーならコーナーを見直すことね。つまり、これは当たり前の画廊なんだ、画廊には絵が吊り下げられているんだという概念に対して、それをもう一度見直してみよう、ということをやったわけですよ。フランスの友人が勝手に“DECALAGE”というタイトルをつけてくれた。一種の「移動」ですね。それが、ぼくの中では書いてきたことの一つの実践なんです。今回は一つの画廊というワク組みがあってそういうことをやったわけなんだが、今度は町の中へ出てものを撮ろうと思っている。たとえば、ひとつの街を全体として五十センチずらしてしまう。だからある意味では、あらゆる美学みたいなものを排除し、物を物として正確に引き出すことによって、もう一度物を見直せ、ということなんじゃないか。そう考えると、写真というのは、やることがまだまだたくさんあるんじゃないか、と気がついた。そういう意味でぼくは健康になったわけですよ。
この中平氏の作品のこととは別に、私が驚いたのは、この作品が制作・展示されたのは「三人展」で、他の二人は武藤一雄氏、そして大石一義氏だったこと。武藤氏とは面識も何もないが、大石氏には近年個人的にいろいろお世話になってきていることもあってときどきお話も伺うこともあるが、この三人展については全く聞いたことがなかったのである。図録に収録されている八角聡仁氏の文章によれば、武藤氏の作品は落書きを撮った写真の上にさらに落書きを描き加えるといったものだったようで、大石氏の作品はマルセイユの壁や地面に大きな紙を当てがって白チョークでフロッタージュしたようなものだったらしい。
ちなみにこの展覧会を企画したピエール=アラン・ユベールと中平氏とは「パリ青年ビエンナーレ」で知り合った。1977年には今度は中平氏がユベール氏を日本に招いて彼の個展をおこなって、彼の送別会で昏倒して記憶喪失になったわけである。『新たなる凝視』には退院後の中平氏をユベール氏ともうひとりのフランス人が訪ねてきてくれたことを次のように書いている。
彼らの姿(イメージとルビ)そのものだけは、私、彼らと何処かで出会った人達なのだ、とだけ判っていましたが、その中の一人、マーク・キルビー氏が、極めて巧みに日本語を喋り、父の書道作品にまで関心を抱き、ただ父とのみ話しておりました。私は、その当時、全言語欠落状況そのもので在り、彼と話し合うことすら、不可能でした。彼は、私の存在そのものに、かなり動揺し、「さようなら‼︎」と一言だけ語り、間もなく帰って行きました。全く申し訳ない、と思います。突如、私、フランス語を思い出し、彼にフランス語で手紙を書き上げ、自らの謝意を送りました。そこまで私、フランス語を思い出したのですが、だが、どうしても、フランスへの再度行きを具体的に思い出すことが、出来ないのです。
さて、近美での「中平卓馬 火|氾濫」展でもうひとつ驚いたのは、ノートや手帳に書かれた日記やショート・ホープの箱に赤ボールペンで書かれたメモだった。。現物と出くわして、几帳面な手書き文字を目にし、読んでもみて、なんとも言い難い気持ちになってしまった。記憶障害にめげず写真家の歩みを続けたということは、かくも意志的であらねばならなかった、ということとか。
また今回も長くなってしまっているが、最後にふたつ。
中平氏の最初期に東松照明氏の誘いで史料編纂委員のひとりとして取り組んだという「写真100年 日本人による写真表現の歴史」展(1968年 西武百貨店、翌年名古屋・大阪・岡山・新潟を巡回)のこと。史料編纂委員には他に東松照明、内藤正敏、多木浩二、今井壽恵など13名の各氏がいたが、かれらは全国に埋もれた膨大な日本写真に分け入って調査した(らしい)。その仕事は委員それぞれにとって強烈な体験だったらしく、私は内藤正敏氏からこの時のことを伺ったことがある。内藤氏は、田本研造という写真家を“発見”したことについて熱く語っておられた。同じように中平氏もこの時に“発見”した田本研造、山崎庸介についてどこかに書いていたと思うが、例によって直ちに思い出せない。申し訳ないことである。
田本研造(号は音無榕山)は紀州の人。江戸時代末期に長崎を経て函館に渡り、壊疽を患って片足の切断手術を受けた。その手術をしたロシア人医師ゼレンスキーから写真術を学んだという。慶應3年に松前・福山城を撮影した写真が残っている(らしい)。明治2年、函館に「写場」を設け、明示4年、北海道開拓使の要請で石狩に渡り、札幌、篠路、石狩、小樽などで写真撮影を行なった。彼の写真は記録に徹したものだ、ということができるだろう。
山崎庸介は原爆投下後の長崎をとらえた写真で知られている。彼は陸軍の報道班員で、博多の西部軍から命じられて8月10日に長崎入りして撮影に当たった。約120枚の写真が残されている(らしい)。彼が撮ったのも記録のための写真であった、といえる。とはいえ、瓦礫の中で呆然と立ちつくす少女の足元に焼死体が転がっている写真は多くの人々の記憶に残っているのではないだろうか。
中平氏が膨大な写真群の中からこのふたりを抽出した理由がとても気になる。この「写真100年」展に向けての仕事は『日本写真史 1840ー1945』(日本写真家協会編、平凡社、1971年)として書籍化されているが、これを今見てみると、災害や戦争による「死体」の写真がたくさん収録されていることに気付くだろう。というか、現在の私たちの日常生活からこういうものが排除されていることに気付くのだ。このことの意味は根深いように思う。
さて、中平氏は「写真100年」展の編纂の仕事を通じて多木浩二氏と知り合うことになり、やがて『プロヴォーク』に至るのだが、中平氏自身はやがてこうした時期をはじめ、「アレ、ブレ、ボケ」といわれてきた自らの写真群を自ら否定するに至る。そして、すでに述べたように、その時期のネガやプリントを焼いてしまうに至るのだ。
こうした劇的な転回や1977年の急性アルコール中毒からの記憶喪失といった出来事、その後の歩み、といった姿が私にある種のロマンを掻き立ててくることが否めない。
そして、なにより私は中平氏の著作や写真集から多く学ばせてもらってきた。彼の本と触れ合うことがなければ、わたしはユジェーヌ・アッジェもウォーカー・エバンスもベンヤミンも『日本写真史 1840=1945』も知らなかっただろう。そうした「恩」というものがある。そして、彼自身が否定した「アレ、ブレ、ボケ」の時代の写真が好きである。いまでも時々、書棚から彼の写真集や資料を取り出して眺め、あれこれ考えている自分に気づくことがある。
(2024年5月7日、東京にて)
中平卓馬 火―氾濫展
会期:2024.2.6–4.7
会場:東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー 公式HP:
https://www.momat.go.jp/exhibiti
画像1:左『中平卓馬展』図録 右『都市 風景 図鑑』(月曜社)
画像2:左『アンダーグラウンドーフィルム-アーカイブス』平沢剛編(河出書房)
画像3:『来たるべき言葉のために』中平卓馬(風土社)
画像4:『挑発する写真史』金村 修 , タカザワ ケンジ (平凡社)
画像5:デカラージュ会場風景