熊谷守一は東京美術学校を主席で卒業したが、その思弁的な性向によって画家としての仕事は遅々として進まず、実際の絵画的達成は60代(1940年以降)になるまで果たせなかった。しかし、この描かない画家の真価は,(晩年に大成する仕事から遡行することではなく)すでに描かない画家であったとき周囲の画家たちに与えていた(彼らの証言に残る)影響に明らかだった(その意味で熊谷の存在はデュシャンの存在と似ている)。
熊谷の絵画的思考の根本は、眼に入ってくる視覚情報の断片の集合と人間が見ていると把握する像の間の落差にあった。その落差は確率的、統計学的に決まるのである。ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの影響を受けたと語っていた熊谷が、絵を描けない時に熱中したのは確率の研究、計算だった(計算式と数字が埋まるノートが残されている)。入力された感覚と認識の落差が大きいほど(情報価値がそうであるように)絵画の感覚的強度は増す。
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この抜き書きだけでも、岡崎氏の熊谷論は巷に流布する熊谷守一への先入観を一掃するものだということが分るだろう。素晴らしいと私は思う(難しくて分んないところもあるけど)。
であるからして、熊谷守一のことは、いつのまにか、岡崎氏の熊谷読解と切り離せなくなってしまった。だからこそ、竹橋でのこの大きな展覧会を機に、もう一度虚心に熊谷守一の作品とじっくりまみえたい、そう思ったのだった。数年前の岐阜県立美術館での熊谷展は見る事ができなかった(これは、思い出すだに悔やまれる)。
竹橋を訪れたのは平日の午前中。なのに、けっこうな賑わいだった。外人さんも若い人も多い。
展示は、以下のように大きく三つに区分されていた。
「1、 闇の守一:1900−10年代」
「2、 守一を探す守一:1920−50年代」
「3、守一になった守一:1950−70年代」
この中の要所要所に「謎」が6つ提起され、作品鑑賞の手掛かりにふくらみを持たせようとしている。6つの「謎」とはこうだ。
①「《轢死》を回す」
②「赤い線を引く」
③「海外作家にまねぶ」
④「たくさん作る」
⑤「動く絵」
⑥「光と色を考える」
(ただし⑥はこの展覧会カタログには記載されていない。カタログ冒頭の蔵屋美香氏による論文「いろいろな熊谷守一」の短縮バージョンが⑥のパネルだから、ということだ。)
これら6つの「謎」に対応しながら、展示は描かれたモチーフごとに(たとえば人体、風景、静物、動物、花、猫…というように)分類・整理されて展示・構成されていく。そして最後の展示スペースに『宵月』1966年)など月のある夜の絵、そして『朝のはぢまり』(1969年)(いつからこう表記するようになったのだろう?)など“光”そのものを描こうとしたシリーズに至って終わる。つまり、この「熊谷守一 生きるよろこび」展は、闇で始めて闇に回帰し、そして“光”で閉じているわけだ(このために、さきの「蔵屋美香」氏を表記しようと「くらやみか」と打ち込むと私のPCは「暗闇か」と変換してしまったという“事故”さえも生じた)。闇ではじめて光で終える、これを強調するためだろうか、最初と最後の展示スペースだけは、ほぼ黒といえるほどの低明度のやや緑味を帯びた色の壁になっていた。
というわけで、この展覧会は、制作年を重んじて順に並べていく、というようには構成されていない。むしろそれは回避されて、上記のようなテーマに従って描かれたモチーフごとに編集されて並べられている。だから、虚心に見たいと思って訪れた私は自力での“再編集”を強いられることになった。熊谷の制作や問題意識の「流れ」をつかもうとすれば、当然のように時系列をおさえねばならず、会場をあちこち何度も行ったり来たりしなければならなかったのである。つづく→