7月19日、画家・数野繁夫さんの奥様、みはるさんから暑中見舞いのはがきが拙宅に届いた。そこには、昨年(2013年)12月に数野さんが亡くなったことが記されてあった。病気療養が続いていたことは知っていたが、亡くなったことは全く知らず、びっくりした。そして、いろいろなことが思い出された。数野さんについて書こうと思う。
数野さんと出会ったのは、もう40年以上前。以来、私は、数野さんを大事な恩人のひとりだと思っている。私は、絵の見方、考え方を一から数野さんに教わった。
1970年6月末、私は、絵描きになりたい、と思って、北海道帯広市から上京した。
高校を卒業しても田舎でうろうろしていた私を見て、心配したある人が、ほんとに絵描きになりたいのだったら東京に行って勉強してゲーダイというところに行かなければだめだ、と忠告してくれたのを信用しての上京だった。しかし、東京には「美術研究所」というところがあってそこで勉強できる、という以外、何の情報もなかった。だから、上京後すぐ、ともかく山手線に乗って、窓から外を見て「美術研究所」というものを探した。鴬谷と日暮里の間に「寛永寺坂美術研究所」という看板を見つけて、そこを訪ねて入れてもらった。しばらくしてから、ゲーダイというところに入るためにはそれ専門の予備校があることを知った。
71年3月の受験も失敗し、次の年は「どばた」という予備校に通うことにした。4月、クラスの発表があって、私は「数野クラス」だった。「すうの」と読むのか「かずの」と読むのか、ともかく指定された教室に行くと、遅刻したわけでもないのに、学生がもうびっしり満杯で石膏デッサンをしていた。のんびりした「寛永寺坂美術研究所」とは全く違った様子に面食らった。やむをえず、三列目の隅の方にわずかなスペースを見つけてそこで描いた。やがて、気に入った場所で描くためには、月曜の朝6時半くらいに来て教室が開くのを待っていなければならないことを、誰かから教えてもらった。
数野(かずの)さんは、週二回、そんな教室に現れるのだが、後ろからざっと見回して、幾人かに二言三言声をかけ、それでもう消えるのだった。一学期の間、私に声がかかることはほとんどなかった。いま考えると、ものを見ないで、から回りばかりの、“絵以前”の状態だったから、声のかけようがなかったのであろう。 つづく