作品には通し番号がふられているが、いま600番台。いくらでも考えは浮かんでくる。材料のこと、空間のこと、内と外のこと、かげのこと、裏と表のこと、といったことに見方の変革の手掛かりはある。そして私は、日常とつながりながら作る。スパゲッティをゆでながら、新聞紙を束ねながら。ひも=なわのことを考え、カゴのことを考える。
材料は身の回りから意識的に調達する。拾ったり、もらったり、育てたり。カゴの材料として売られている自然素材は、実は技術的・意思的に寸法や質などが選ばれている。私はたいしたものでないものをあえて使い、そのことで別の発想と出会う。
はじめてカゴを作ったのは、興味本位で籐カゴを作った時。ほんとうの意味で、カゴと出会ったのはアメリカでのこと。主人の仕事の関係でニューヨークにいた時。ネイティブ・アメリカンのカゴを見たことや、当時の美術学校中心に盛んだった現代工芸=ニュー・バスケットに展覧会や雑誌で触れたのが大きい。その時、うまい・ヘタ、ではなく、考えることを楽しむ、という作り方があることを知った。そして、ジョン・マックィンのワーク・ショップでの2週間。何も教えてくれないから自分で考えた。それからのめり込んでいった。
私の技法はとてもプリミティヴだ。たとえばそこにある『立体的曲折』(2002年)。はじめてクマヤナギを曲げた。熱を与えて直角に曲げていく。その時、一つ決めてある。それは、同一平面でない方向に曲げる、っていうこと。それだけで、もうパターン化できない。それが面白い。こんなふうに、技術は一回性のものとして使う。技術はコンセプトをかたちにするためのものだ。私は、結果がわかると、やる気が失せる。だから同じことをやらない。
もういちど、なわの作品。裂をはさんだものがある。隣と絡めたものがある。では…、一本のなわに右回りの撚りと左回りの撚りを作れないか…?前にやったことや民族学などからの知見が浮かんで育ってくるものがある。結び目を作ってはどうか? 出来る。では、結び目って何?なわは、なわだけのためにありうるか? … こんなふうなのが私の興味。
私は、なりゆきで作ることはない。考えが先に決まっているから、目標が明快。その目標に向かって進む。当然のように様々な問題が生じてくる。どう対処するか、判断はその都度行う。しかし、絶対に目標は外さない。違った目標には絶対に向かわない。違った目標を混ぜ込まない。途中で浮かんできたアイディアや目標はメモして、別の時に試し、テーマとして育てていく。そうすることで、私の意図が伝わる。
作品の形状は自然乾燥によって固定される。だから、形状は「型」を作る時に決めてある。そうしないと作れない。「型」は段ボールなどで作る。形状が決まっていても、当然、細部までは決められない。作りながら生じてくる材料の制限に添うようにあるいは抗うようにして、ギリギリのところで細部を決める。
作品は年間20作品位。調べものをしたり、教えに行ったり、材料集めをしたり、交流したり、と忙しい。完成までの間、途中で作品が腐らないようにするのに苦労する。
ヤマボウシで作った『域を印すⅢ』には点々をつけてあるが、点々があるのは外。カゴは領域を確保すること。すきまだらけ、穴だらけでも領域の確保はできる。
カゴ作りは「穴」を作ることでもある。私は「穴」を作りたいから作っているのかもしれない。
カゴ作りで避けられない材料どうしを交差させること。それは立体交差。象形文字のよう。「文字そっくり」と思う。
カゴはとてもロジカル。私はそんなカゴに育てられた。
1時間ほどの関島さんのトークが、ちゃんととらえられているかどうか心もとないが、拙文を読んでくださった方々とその要旨が共有できれば幸いである。
(2014年9月3日 東京にて)