数野さんは、つい何年か前までゲーダイ=芸大の油画科で脇田和の助手をしていたこと、学生時代は山口薫の研究室だったこと、学部の卒業制作は主席・買い上げだったこと、など、私もいつの間にか知るようになった。
『アトリエ』という受験生のための当時の“指南書”に、数野さんの「とげ抜き」のデッサンの制作過程が載っていることを誰かから教えてもらって、本屋に見に行ったりもした。廊下に貼られた案内はがきを見つけて、数野さんの絵を見に行ったこともある。鯉のぼりが描かれた絵だった。
そうこうしているうちに、一学期も終わり近くになり、数野さんが個人面談をするという。
私の番になって、階段脇の小さな部屋に入ると、まあ、すわれ、と言われた。そして、おまえ、家でなにやってるの? ときかれた。私は、百姓です、と答えた。数野さんは笑いながら、そうじゃなくて、ここから帰ったあと何をしてるのか、ってきいてるんだよ、と言った。あれま。
そのあとのことは、まったく覚えていない。気がつくと、数野さんは夏休みにヨーロッパを回るんだって、と誰かが話していた。
二学期、数野さんが無事に帰ってきたから、とクラスでコンパがあった。私は思い切って数野さんの席に行って、どこが一番印象に残っていますか? と尋ねてみた。即座に、ギリシャだ、と返ってきた。コンパは、その後、飲みなれない連中があちこちで倒れて救急車が出た。救急隊員が怒っていた。なんだか、とてもなつかしい。
やがて私にも、数野さんがどういう時に学生に声をかけているか、が分かるようになってきた。見ている実感がよく伝わるばかりでなく、何か目的意識を持って描いている、という時に、声掛けしているのだった。なるほど、のんべんだらりと描いていてもだめなんだ。
加えて、講評会の時など、思いがけない絵に対して数野さんが発する言葉に、目を覚まされたものだ。たとえそれが、コンクールの選外、いわゆる“お蔵入り”の絵でも、数野さんは、ここがよい、と思った絵を、わざわざ探して取り出してみんなに示し、この絵は、確かに成績は良くないが、こことここのベタ塗りのこの形の組み合わせが、絵の中の「空間」を形作っている、こういうことができるのは素晴らしい、頑張れ、という具合に言うのだった。二度三度そういう話を聞くと、描写することと構造のようなものを形作ることとの関係を意識せざるを得なくなり、そして、少しずつ、数野さんが言わんとすることが理解できるような気がしたものである。
「絵の中のほんと」という難解な言葉もよく飛び出したし、「あたりまえのものをあたりまえに」ということもよく言った。苛立った時には、「あと1分でこれを描けなかったらおまえを殺す、って言われたらどこを描くか?」という言い方もした。
めったにないことだが、直接、学生の絵に手を入れることもあって、そんな時、後ろから見ていると、筆を入れるたびごとにぐいぐい絵が大きくなっていく。本当にびっくりした。ぜんぜん力が違うことを見せつけられた。
数野さんは理屈っぽいことは殆ど言わない。しかし、絵に骨太の構造を求める数野さんの姿勢は、数野さんに教わった者たちへ確かに伝わっていた、と思う。 つづく
画像:「サンマルツアーの種のあるトマトのある風景」2000年