藤村克裕雑記帳
2020-06-11
  • 色の不思議あれこれ174
  • 「神田日勝 大地への筆触」展 その1
  •  待ち遠しかった表記の展覧会が6月2日から開いた。東京ステーションギャラリー。
     すでにここに書いたように、私には馴染みのある(ありすぎる)人なので、今、その作品群をまとめて見たらどう感じるか、怖さ半分、期待半分だった。で、どうだったか? 期待以上に見応えがあって、勉強になった。みなさんもコロナに気をつけながら、ぜひお出かけになると良いと思う。 
     そもそも神田日勝は、油絵の手ほどきを兄=一明から受けた。「1952年ー1956年頃」作の『風景』がそのことを伝えてくれる。例外的にキャンバスに描かれたこの作品には、用具の使い方、技法、効果など油絵の基本的なことが一揃い含まれていて、一明がとても本格的にきちんと日勝に油絵を教えたことを雄弁に示している。その兄が1955年に東京芸大油画科に合格した。一明の仲間だけでなく、弟=日勝も大きな刺激を受けたはずだ。
     その次の年=1956年から、十勝地方の公募美術展「平原社展」を舞台に日勝の対外的な発表活動は開始される。
     『痩馬』(1956年)と『馬』(1957年)。私は今までこの良さがよくわからなかった。今回じっくり見て、日勝が知っている「馬」を“理想化”して描いている、と理解できた。とりわけ飼い葉桶(箱)に突っ込んだ首の両顎の間の喉元、頬骨、コメカミなどの形状の表現は触覚的で説得力がある。日勝のまぶたに焼きついている一瞬見せる馬の姿や特徴、撫でた手に残る骨のデコボコした感触、それらをなぞりながら、幾度となくペインティングナイフを動かしている。馬小屋で馬を見ながら描いたのではないだろう。一見、モノクロームを呈しているが、色調は豊かで、日勝の繊細さを示している。飼い葉桶(この絵では箱だが)はすでにセザンヌ風だ。こうした多視点・逆遠近の“形式”を日勝が知っていていけないはずがない。世間にはセザンヌ風の“デフォルメ”が流布していたし、兄の一明や、卒業した中学の美術教師=山本時市から、「セザンヌ」を教わったりもしただろう。日勝のアルバムには東京・ブリジストン美術館(現アーティゾン美術館)所蔵のセザンヌの『静物』の絵葉書も貼られていた。その現物は会場で見ることができる。セザンヌは形式を探求してあの『静物』に至ったのではないが、日勝がアルバムの『静物』の絵葉書を繰り返し眺めて、セザンヌの“形式”を“採用”したとしても不思議はない。また、馬房の壁の表現には、すでに日勝特有の質感表現がなされようとしている。画面の隅々まできちんと手が入り、画面のどの箇所にも神経がゆきとどいている。「画面」という意識がすでに確立されているのだ。日勝のすべての原点が全てここにある。一明は「いい絵だ。大切にとっておけ。」と書いた手紙を日勝に送っていた(らしい)。さすがだ。
     1960年になると、日勝は「全道展」に大作の出品を開始し、活躍の舞台を広げていく。1961年には「全道展」で兄共々大きな賞を受けた。その時の兄=一明の作品『赤い室内』が今回展示されていたのには感激した。この作品の写真図版を手掛かりに考えたことはすでに書いた。実物は図版で感じていたよりももっと強靭で、隙間の抜けがクリアである。丸や四角の反復というような造形的な配慮もなされ細部まで神経が行き届いている。日勝が学び取るのに不足はない。この絵以前も、この絵も、この絵の後も、日勝は何度も何度も兄の絵に目を凝らしただろう。

  •  また、今回の展覧会の図録には、一明へのインタビューが掲載されていて、二人の兄弟の関係をみていく上で貴重な資料になっている。図録にはまた、一明の学生時代の『顔』(1958年)、『赤い室内』の次の年に制作した『室内静物』(1962年)とさらに『赤い室内B』(1964年)、これら三点の写真図版がモノクロでではあるが収録されており、日勝への影響関係をみていくうえで非常に参考になる。日勝の節目節目に兄からの影響が色濃いのは明らかだ。私は、一明の仕事の展開をほとんど何も知らない(いつか丁寧に追いかけてみたい)。従ってあてずっぽうで書くのだが、日勝が日勝独自の画題を見出し展開したのは、馬と牛のシリーズでではなかったか。なぜそれができたのか。その手がかりが会場に展示されたある作品の写真図版の複写写真(ややこしい)、『集う』(1965年)にあるように思えてならない。この絵は、1965年の帯広市での展覧会(帯広市民劇場第16回公演美術展)で発表されたあと、その所在が分からない(らしい)。日勝自身が塗り潰した、上に別の絵を描いた、という説もある(ようだ)。そんなわけで、当の作品は見つからないものの、習作が残っていた。『自画像』(1964年)の裏側に描かれていたのである。その習作『集う』(1964年)が今回鑑賞できる。この配慮が素晴らしい。
     馬や牛のシリーズでもそうだが、『痩馬』を含めて日勝の作品はほとんどすべて「モンタージュ」の方法で作られている。きっと、写真資料などを手元に集めて組み合わせそれを描いていくのだ。出来上がってくる絵から生じてほしいある特定の効果を得るためにそうするのである。つまり、どの絵も現物を前にして描いていない。人物の場合でも馬や牛の場合でも「知っている」「馬」や「牛」を描いている。克明に描いているかに見える毛並みなども「知っている」毛並みを誇張して描いている。あんなに長い体毛を備えた農耕馬も牛もどこにもいない。また、神田家で飼育していた牛はホルスタインだったはずだ。莚を敷いて死んだ馬や牛を横たえた石造りの床はどこの床か。こうしたことを問題にするのはナンセンスなのだ。日勝の絵は明らかに「モンタージュ」を方法的基軸にしているのだから。
    つづく→
    画像:上「神田日勝 大地への筆触」画集・「痩馬」1956年
    下「集う」1969年
  • [ 藤村克裕プロフィール ]
  • 1951年生まれ 帯広出身
  • 立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
  • 1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
  • 1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
  • 内外の賞を数々受賞。
  • 元京都芸術大学教授。
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