映像がものすごくきれい、ということに話をしぼろう。3Dという最近人間が手にした映像の技をゴダールがいじり倒しているが故に、ものすごいきれいさが実現できているのだと思った。これは、たやすいことではない。
テーブルやベンチ、椅子などの形状を利用しての奥行き感の強調、花瓶や電気スタンド、柵や繋留の杭などを利用しての重なり作り、などといったことは3Dのためのオーソドックスな手法であるに違いない。そうした手法は当然のように踏まえられる。
が、それだけではない。例えば、ふたりの人物が左右に分かれてそれぞれ同時に何をしているかを3Dで重ね撮りするとか、ライトしか見えない夜景を撮るとか、激しい逆光で撮るとか、ガラス越しに撮るとか、水を撮るとか、ソラリゼーションのような表情に画像処理するとか、手持ちで撮るとか、カメラを逆さまにして撮るとか、シャワーから降り注ぐお湯に向かって撮るとか、…など、ふつうあり得ないようなことをしている。当然のように目は混乱に陥る。
さらに、モノクロとカラーとの使い分け、コマ送りの挿入、テレビモニタやスマホの画像の2Dとの対比的な挿入、というような要素が加わる。例えば、昔の映画からの引用、ニュース映画からの引用など、とりわけ、ノイズしかないテレビ画面だけのカットのきれいさは記憶に残る。
また、窓からの景色が絵のようにみえる室内に陽がさし込むシーンなど、3Dと2Dを反転させるような意図も見えることがあって、印象的である。
水についてだけ思い起こしてみても、降る雨、水たまり、濡れた路面、車のフロントグラスに当たる水、河、湖、水中、スクリューでかき回された水、落ち葉が浮かんだ水、青空が映り込む水、底のありさまが見える水、手を洗う水、など、その表情は実に多様である。だいたい、水を3Dで撮ろうなどとゴダール以外の誰が考えるだろうか。
狂言回しのような役割を担っているように見える犬とその周囲・周辺もまたじつに多様な表情を見せている。超ローアングルからのアップなど、犬の毛並みのテクスチャーが美しい。
カットが変わる度に、私はびっくり仰天し、目をどこに向ければ良いか混乱させられながら、いずれも、ものすごくきれいだ、と思った。編集もゴダールならではである。つまり、3Dの映像だからこそ可能な表現であり、3Dでなければできない表現である、と思った。
ゴダールは85歳だとかいう。すごいじいさまだ。感嘆せざるを得ない。
それにしてもスジがほとんど分からなかった。もう一回みないと、完全にチンプンカンプン。この映画でも、かつてのゴダールの名言、流れたのは血ではなく、絵具だろうが、誰(と誰と誰)が死んだことになっているのか、それさえ分からないままなのが悲しい。赤ちゃんを生んだのはいったい誰? 等。
もう一回みるか、DVDの発売を待つか、いずれにせよ謎の数々は放置できない、という気持ちになっている。
ヒットラーへの言及など、隠れテーマもありそうだ。
じつに面白かった。
(2015年2月26日、東京にて)