新館では、仮面が実際にどう使われていたかを示す記録映像が映写されていた。
これも大変親切である。ケース入りの展示だけでは、どうしても仮面が造形物=彫刻に見えてしまう。というか、ピカソやモジリアニのような人々がアフリカの仮面を造形的に“発見”して以来、いつのまにか私たちは仮面本来の役割を忘れてしまうようになった。日本でなら、柳宗悦のような人が“発見”した「民藝」のことも想起できる。そうしたねじれを、現場での記録映像がさりげなく改めさせてくれるのである。仮面を装着した人は“衣装”もつける。そして日常の自分から変身し、精霊とか悪魔とか、ある一定の役割を担うのである。そして、動く。踊ったり、声を出したり、歌ったりする。周囲には人々がおり、リズムをとったり、歌ったり、見物したり、逃げ惑ったり、手伝ったりする。日常の空間が変容するのだ。
コートジボアールのバウレ族の映像を見ていた時、隣に座っていたご夫人たちのグループのなかの一人が仲間につぶやくように言ったのが聞こえた。
「ゆるキャラって、昔からあったのね」
私は不意をつかれて衝撃を受けた。ゆるキャラ…って…。
衝撃が大きすぎて、あとのことをしばらく覚えていない。
「ふなっしー」とか「くまもん」とかの無数の「ゆるキャラ」といわれる精霊たちが現代日本の日常をカッポしている、と思うと世界が別の相貌で感じられる。
我に返ったとき、ご夫人のグループはすでに立ち去っていた。