予告編が終わって、眼鏡を装着せよ、との案内がなされると、映画はすぐに始まった。
赤の角ゴチック体で「アデュー」、もちろんフランス語の綴りで、それが数回反復されて、つぎに「あの頃が一番よかったなあ」とかなんとかフランス語の文が示され、もちろん私は日本語の字幕を読むのである。すぐに「133501」の数字が示されるが、何を意味する数字かまったく分からない。そして、いくつかの短いカットのあと、「1」と画面前方に、「ナチュール」のフランス語綴りが後方に、つまり3Dで示され、もちろんここでも私は「自然」と日本語の字幕を読むのだ。
そして、3Dで湖(レマン湖?)を右から左手前へと来る遊覧船(?)。手前に繋留のための杭ふたつ。このものすごくきれいなカットから、めくるめく3D世界が展開していく。…が、3D映画に慣れないせいか、目の使い方が分からなくて戸惑う。とは言え、色というか、光というか、ともかく映像そのものが、ものすごくきれいだ。
その後、当然のよう短いカットごとに新たな情報が押し寄せてきて、次々とたたみ込まれる。いちいち書き出すことは避ける。ソバージュの金髪娘の背後で赤いパラソルがゆっくり開くとか、路上のテーブルに並べられた本につぎつぎと手が伸びる、とか。字幕に「収容所列島」と出て「ググることはない」と台詞があったり、にもかかわらず、スマホにソルジェニツィンの顔が映っていたり(ググったわけだ)、「文学的考察」という字幕から始まる「プッス」「プッス」「プチ」「フッセ」の言葉遊びとか、ゴダールだもの、しょうがないのだ。はじめの方の僅かな時間での展開についてだけでも、この程度の紹介で精一杯だ。フランス語が分からないせいもあって、もう開始早々にもかかわらず、ついていけていない。ついていけない、というその混乱状態がおもしろい、という人を、ゴダールの映画は選んでいるようにさえ思う。私は、すでに、そういうタイプに教育されてしまっている。
話のスジを追うことを諦めてしまうと気が楽になる。が、やはり、字幕が出れば読んでしまう。貧乏性なのだ。字幕を読んでいるあいだは映像をみることができない。何とも変態的な時間の集中。時に、音にびっくりする。排便の音まで使われている。そして「うんちは平等だ」などというのだ。ベートーベンの7番など、音楽の引用がいつものように実に効果的である。
つづく