「清水多嘉示」のお嬢さん=青山さんは、展示されていた写真資料を示しながら、清水多嘉示がどのようにパリで「首」の作品群を作っていたかを教えてくださった。学生が順番にモデルを務めてそれを勉強したらしい。そうして作った作品は石膏に置き換えられ、保管され、やがて日本に持ち帰られたのである。で、思わず尋ねてしまった。ご実家は相当に裕福だったのでしょうか?
かなり不躾で失礼な質問だった。
が、青山さんは、清水多嘉示の実家は長野県でも大きな地主でとくに養蚕で有名な家柄だった、ということを丁寧に教えてくださった。パリへの送金は幾度も行われ、中には当時のお金で80円ほどをパリに送金した記録が残っている、ということさえ教えてくださった。そんなことを伺いながら、私と家人は会場の順路を逆に巡ってしまっていたことに気づくことになった。
清水多嘉示は油絵を学ぶためにパリに行ったのだが、ブールデルの作品と出会って彫刻を始めることになったのだそうだ。だから、パリには油絵用と彫刻用と二つのアトリエがあったそうだ。不覚にも知らなかった。
小ぶりの全身像の前まで連れて行ってくれた青山さんは、これは、初めて作った全身像で、ブールデルから、これはとてもいい作品だからブロンズにしておきなさい、と言われた作品です、と教えてくれたり、戦時中に作られた母子像の前で、こんなギリシャ風の衣服ではなくもんぺ姿にしろ、と言われても決して応じなかった、と聞いています、と教えてくださったり、赤ちゃんが眠っている像の前で、このモデルは私です、と教えてくださったり、素晴らしい首の作品の前で、この作品のモデルはムサビの学生さんだった人で残念ながらもう亡くなられました、と教えてくださったりした。戦後作られた三人の女性が輪になったあの有名なモニュメント作品の原型の前でも、様々なエピソードを教えてくださった。
そんなわけで、お嬢様の解説付きでもう一度、順路通りに鑑賞できたのだった。とても贅沢な時間だった。
それだけではない。青山さんは、出口から一旦出たところの扉の部屋に案内してくださったのである。
そこには、デッサンや油絵、各種資料が部屋中びっしりと、床のたくさんのテーブル上にも、もちろん壁にも梁にも、全く隙間なく、展示されていた。どれも実に興味深く、丁寧に見たり読んだりするには、時間が足りない。会期末に訪れたことを後悔していた。
とりわけ、終戦後すぐの8月16日の日付で、「特攻寺」なるものを提案するためのデッサンが描かれ、文章も書かれていたことに驚いた。こうしたことの意味を考えるにはじっくり見て読んで考える時間が必要である。なのに時間がなさすぎた。もう一度こうした展示がなされるとすれば、その機会を見逃さないようにしたい。
私たちがざっと見るだけのことをし終わるのを待って、青山さんは再び説明してくださった。私たちも次々に疑問が湧いてきて、ついいろいろ質問してしまう。青山さんには感謝しても感謝しきれない。
それにしても、こうした展示を実現し、原型や各種資料を保管管理するムサビの底力にも驚嘆させられた。ムサビの創設者の一人をめぐることとはいえ、なかなかできることではない。
画像:「第2回日彫展(高島屋)」会場風景 1954年
展示は終了しました。
(2019年7月20日、梅雨のあけない東京にて)