10月13日、日帰りで表記の展覧会に行ってきた。どうしても見ておきたかったのである。
藤原和通(ふじわらかずみち)氏は、「音楽」と「音」を、言うならば“命懸け”で追求した人だ。また、生涯、キノコに深い関心を寄せつづけた人でもあった。サービス精神が旺盛な人でもあった。1944年倉敷市に生まれ、2020年横浜市で亡くなった。
藤原氏の晩年、私は、何度か藤原氏の仕事場で話を伺う機会を得て、その仕事ぶりと人柄に魅了された。私は、この藤原和通という人を、「天才」だ、と確信しており、直接何度もお話を伺えた幸運を感謝している。
藤原氏が亡くなったことは長く藤原氏のアシスタントを務めた新江和美氏からの電話で知った。ともかく遺品が散逸しないようにアドバイスするのが精一杯だった。新江氏は厄介な事柄をひとつずつクリアして、新江氏自身が藤原氏の作品や各種資料を所蔵するかたちでそれらの散逸を防ぎ、現在もそれらの保管と整理・研究にあたっている(はずである)。その新江氏が今回の展覧会に全面的に協力した、と聞いた。新江氏と私とはちょっとした行き違いから、行き来がなくなって久しい。やむを得ないことと思っている。
担当学芸員の洪性孝(ホン ソンヒョ)氏とは一度下諏訪の松澤宥邸でお目にかかっていた。
この「藤原和通 そこにある音」展は素晴らしい。岡山県立美術館は、岡山県出身の藤原氏の活動を紹介するはじめての機会であることを充分に“自覚”して、藤原氏の活動の時系列に沿って「Prologue」と四つの章で構成しており、展示も勘所を外していない。実に見応えがある。とはいえ、必要だったと思われるデモンストレーションや観客の“体験”づくり、といった要素には課題も見えた。
「Prologue 音楽家・藤原和通」
水平の台の上に写真や資料を並べ、透明な板で作った箱状のカバーを台に被せている。反射で見づらいが、驚くべき展示である。藤原氏はよくこうしたものを手元に残していたものだ。
まず写真三点。
一点目、松の並木を背に、並んでしゃがむ小学生たちの前にすっくと立つ小学生・藤原少年の写真。
二点目、中学校のグラウンドでトロンボーンを吹く藤原少年の写真。
三点目については長くなる。
中学でトロンボーンを吹いていた少年が、倉敷青陵高校合唱部で音楽の先生から音楽室の鍵を預けられるほど信頼を受け、出入り自由、心ゆくまで音楽に浸り、やがて音楽家になる夢を抱いた。未確認情報ながら、京都大学法学部に合格するも夢断ち難く中退。大阪で学習塾をやっていたお姉さんを手伝ってお金を貯めて、オペラを作りたい、と上京した。その足で、当時、桐朋学園大学音楽学部教授もしていた作曲家・石井歓氏を大学に訪ねた。石井氏は合唱曲を多く作っていた。弟子にしてください、と頼み込んで、簡単な試験のあと弟子入りを許された。ふつうなら入試を経て大学で教わるだろう、と尋ねると、無駄を省きたかった、とこともなげに言った。このあたり、「天才」の片鱗が顔を覗かせている。
ただちに東京駅そばにあった中古楽器屋でピアノを買い、石井氏の諸々のことを手伝いながら懸命に学んだらしい。セリーの技法を身につけ、当時の超売れっ子の作曲家=宮川泰氏のまるでラクガキのような走り書きの楽譜の清書をはじめとするアルバイトなどにも精を出し、“むっちゃ”忙しくしているうちに沸々と疑問が湧いてきた。「音楽」は「音」で成り立っているのに「音」のことを何も知らない、自分の関心はどうやら「音」にあるようだ、「音」を追求したい、、、と石井氏の元を去った。とはいえ、そう単純でもないかもしれない。石井氏は、1966年に開設された愛知県立芸術大学に教授、音楽学部長として赴任したので、東京と名古屋との二拠点での生活になったのである。また、あのハチャトリアンのもとに留学した、という話もある。いずれも未確認情報である。
石井氏のもとを去って、このあたりが「天才」の面目躍如なのだが、なんと、奈良県の奥吉野に移り住む。雇ってください、と訪ねた先はなんでもあの川喜田半泥子の実家というか直系の家柄だった。体つきを見られて即座に、あんたにはムリ! と断られたが粘り、雇ってもらった。懸命に働いて、一年後には班長を任されるまでになった。班長だった時は、川で丸太を運ぶ仕事などをやっていたという。(ちなみに、あの熊谷守一も岐阜で同じような仕事をしていた時期があったはずである。)
と、ここまで来て、やっと三枚目の写真のことである。奥吉野の山を背景に三人、その中の一人として特徴的な樵(きこり)の帽子を被った藤原青年が写っている。
これら三枚の写真の横にはさらに驚くべき資料が置かれていた。
まず、見開きで置かれた「劇団新人会広報誌『新人会』1969」という印刷物。「『人斬り以蔵異聞』三幕」とあって、俳優陣、スタッフ陣の名前の並びの中に「音楽:藤原和通」と確認できる。その下に台本が置かれている。藤原氏はれっきとしたプロ劇団の芝居の音楽を作っていたのだ。
それらの横に「男声合唱のための『だん』」の手書きの楽譜。表紙と譜面が並んで置かれている。1968年に横浜国立大学グリークラブのために藤原氏が作曲した“証拠品”である。が、私は楽譜が読めない。ああ、「猫に小判」。越後屋になりたい。
「だん」の手前に表紙を上に「混声合唱『唄〈東北民謡〉10』」と書かれた冊子。「音響楽譜出版部」とある。1967年。確か、テープレコーダーを担いで東北を回り、民謡や童歌を録音して歩いたことがある、と言っていた。それと関係があるのだろうか。
一見ささやかな展示であるが素晴らしい! 「音楽家」としての藤原氏の姿の一端を示すことができている。
ここで示された1969年、1968年、1967年という“年代”の意味は私にとってはきわめて重い。藤原氏が亡くなったあと、私は私なりの追悼の思いを込めて、田代睦三氏に協力してもらいながら、藤原氏の1970年から1974年までの活動を示す私家版の冊子を500部作って、一周忌にあたる4月5日に発行した。その「年譜」の年代に重大な誤りがあったことが、これらの展示物が明示している。うーん、悔しい。今後、今回の展覧会の『図録』などに学んでいきたい。
「Chapter 1 音響標定 ECHO LOCATION」
この章は私が編集・発行した冊子『藤原和通1 1970〜1974[音響標定]』の内容と重なった。拙冊子発行後、私もいくつかの重要な資料や知見を新たに得てきたが。それを超えている。
「音響標定」とは70年代初頭の藤原氏の一連のめざましい活動に付けられたタイトルだが、 奥吉野で「音」を探求した藤原氏が、ある確信を携えて再上京した時、この「音響標定」という言葉はまだ見出されていなかった。が、藤原氏が作って設置した「音具」を用いること、「音具」が置かれた場所にやって来た人々が「音具」からの「音」を共有し「音」を確認し合うこと、そのような、未だかつてない「音」の発表=「コンサート」を実現すること、という構想は揺るぎないものになっていたはずだ。それは、「音」にさわるコンサートであり、演奏者と聴衆という区別がなくなるコンサートであった。ここには、従来の「音楽」への批判の眼差しがあっただろう。
まだ「音具」という言葉がなかった時期に、藤原氏の「音具」がはじめて世に登場したのは、1970年10月の東京日本橋「ときわ画廊」での「YOBOUE」だった(「音響標定」とのタイトルが初めて登場したのは1971年5月深夜の「田村画廊」前の路上での「music exhibition」のための案内状)。「ときわ画廊」には公道に沿って大きな一枚板のガラス窓がふたつあって、中が丸見えで人工的な空き地のようでもあった。藤原氏によってここに運び込まれて設営されたのは、言ってみれば味も素っ気もない実に重そうな、巨大な石臼のような「音具」だった。そこから突き出た太い四本の“取っ手”を大人4人が懸命に押す。そうすることで、なんとか“臼”が回って「音」が出た。大人たちは“取っ手”を押しながら「音」の振動にさわっている。それを4人の大人が共有している。画廊でのこの「音具」の発表は大きな反響を呼び起こした。演奏者と聴衆という区分が消えただけでなく、「音楽」と「美術」も渾然一体となった。以来、藤原氏の「音具」は巨大化し、1974年6月の渋谷山手教会横空き地で制作されて、ごくごくわずかな時間だけ作動できた超巨大「音具」に至る。それらは自然石の代わりのコンクリート製の“面”を、もう一つのコンクリートの“面”や“棒”で擦ることで音を出す。
この一連の「コンサート」活動は高く評価され、1975年の「パリ青年ビエンナーレ」、1976年の「ベニスビエンナーレ」に招待されることになった。
この章には、そんな「音響標定」の現場写真や図面、案内状やポスターが手際よく展示されていただけでなく、1974年の渋谷での「音響標定」を示す特注の大きな垂れ幕が下がり、かわなかのぶひろ氏による映画『音響標定』のプロジェクションがなされていた。1974年渋谷での「音響標定」を準備段階から撤去まで捉えたかわなか氏のこの映画が上映される機会は殆んど無かった。今回は実に貴重な機会を提供している。
それだけではない。
一般財団法人「松澤宥Ψの部屋」所蔵の「ポートフォリオ」の展示が、二重三重に私の“思い込み”に揺さぶりをかけてくる。
「ポートフォリオ」は和文と英文それぞれタイプ打ちされた「〈音響標定〉発表歴」が一点、モノクロームの写真四点の構成である。藤原氏から松澤氏に贈られたものであろう。
そのうちの「〈音響標定〉発表歴」からは、1967年から1973年まで「音響標定」は14回行われたことが読み取れる。が、今回展示されている1972年栃木県足利市での「音響標定」の「案内状」には「藤原和通音楽公演/音響標定No.5」と大きく印刷されている。「発表歴」での数え方ならNo.10になるはずである。これをどう解釈したらいいのか。こんなにたくさん「音響評定」をやっていたなんて、“聞いてないよ!(by ダチョウ倶楽部)”。
ヒントは写真にあるようだ。そこには藤原氏自身が“一人用の”「音具」を一人で作動させているところが捉えられている。当時、藤原氏が住んでいた「目黒の叔母さん」の住宅の一室に備わった縁側で、藤原氏が「音」を出すべく頑張っているのだ。この写真のような“おこない”を「音響標定」に加えるとすれば、「発表歴」までの時点で、「音響標定」は14回行なわれた、としてもおかしくはない。さらに、他にも小振の「音具」があった可能性がある。たとえば、最近松澤邸で見つかった「山式用音具」がそれだ。この「音具」の現物が展示されているのは嬉しい。
ひとつ気になるのは、一人で行なっていることである。写真を撮った人がいるから、厳密には藤原氏ひとりではないわけだが、一人きりで「音響標定」が成立するのであろうか?
アルバムの機能を備えた「山式用音具」の場合を考えてみよう。この「音具」も一人用であろう。しかし、リレーのように様々な人々が次々に「音具」を作動させていき、その都度、その様子を写真撮影してアルバムに収めることが求められていた。
また、「栃木県足利市若草町」での「石の歌」のように手に持った自然石を擦り合わせることを四人で集まって同時に行なった例もある。
「音響標定」はいつも複数人で共有されたはずだった。一人きりでの「音響標定」は知られていなかったのである。ここをどう考えたらいいか。また、「〈音響標定〉発表歴」には、1972年に長野県下諏訪泉水入瞑想台との記述がない、つまり「山式」のことが省略されている。「山式音具」を加えれば「音響標定」は15回行われたことにもなろう。
この章には、「ポートフォリオ」の他にも、「魔胎工房・田中孝道」氏による「藤原和通死亡診断書」や「ベスビオ大作戦」関係の図面やコラージュのように、驚くような資料が並んでいた。
→その2 へ続く(次回の更新は10月28日頃を予定しております)
「藤原和通―そこにある音」
会期:2024年9月21日(土)~11月10日(日)まで
開催時間:9時から17時
・9月28日(土)、10月26日(土)は19時まで夜間開館
・いずれも入館は閉館30分前まで
*8月9日、16日、23日、30日の金曜日は21:00まで開館
休館日:9月30日(月)、10月7日(月)、15日(火)、21日(月)、28日(月)、11月5日(火)
会場:岡山県立美術館 地下展示室
観覧料:一般:350円、65歳以上:170円、大学生:250円、高校生以下:無料
公式HP:
https://okayama-kenbi.info/okabi-20240921-fujiwara/
写真1:岡山県立美術館入り口の告知板
写真2:図録より、「男声合唱のための『だん』」藤原和通作曲(1968年)の楽譜
写真3:図録より、「YOBOUE」1970年、東京日本橋・ときわ画廊
写真4:図録より、「音響標定」1974年、東京渋谷山手教会横空き地、山崎博撮影
写真5:「ポートフォリオ」より、目黒区の住宅縁側にて、時期不詳、「松澤宥Ψの部屋提供」