藤村克裕雑記帳
2024-06-28
  • 藤村克裕雑記帳261
  • ヴィム・ヴェンダースの映画『アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家』と福田尚代氏の個展のこと
  •  いつだったか、家人が、こんどキーファーの映画をやるみたいだよ、と言った。それは楽しみだねえ、と応じていたが、いよいよ「新宿武蔵野館」に見にきたのである。6月27日、木曜日、薄曇り。日比谷に行けば3Dだ、というのだが、3Dでの鑑賞のためにはメガネ代が別に必要だ、と知って、2Dで十分でしょ、とケチったのである。
     アンゼルム・キーファーをいつごろ知ったのか、記憶が定かではないが、知った時には、当たり前だが、彼はすでに大スターであった。
     こともあろうに具象的な形状を平気で描きこんでしまう「ニューペインティング」とか「新表現主義」とかいう“傾向”が海外から一気に襲来して席巻し、ミニマルアートやコンセプチュアルアートという“傾向”を軸に懸命に学んできた世代の私(ども)としては、これは一体なにが起こっているのか、と目の前の事態に、ワケというものが分からず、こんなものはただの“揺り戻し”だ、と強がっていたのだが(正直、今でもそんな気持ちが拭えない)、キーファーはその代表選手のひとり、というか、代表選手中の代表選手、とりわけ“危ない”気配を漂わせていた。
     そんな頃、ある友人の好意で、都内のある場所に、おそらくは“秘密裏に”保管されていた(であろう)キーファーの複数の作品をこっそり見せてもらいに行ったことがあった。西武美術館での「キーファー展」以前のことだ。
     その時、キーファーの作品の実物を初めて見たが、どれも呆れるほど大きな作品で、私が日頃取り組んできた“傾向”とはまるで違う作品だった。なによりも、海やら地面やらが堂々と描かれているし、物理的なサイズがむっちゃ大きくて、圧倒的な物量で、そのケタというものがまるで違っていたのである。わたしは、へえ、、、とそれっきり言葉がなかった。であるからして、西武美術館での「キーファー展」の印象は比較的薄い。
     その後のことは省略するが、去年だったか、イタリアはベネツィアのあの「総督邸」で「キーファー展」がある、という情報が伝わってきて、ひえーっ、チントレットの大壁画があるあそこでやるの? そういえば、あそこの牢屋の陰惨さにはびっくりしたなあ、などと、そのうち忘れていたら、昔、観光で訪れたあれらの豪華すぎる大きな部屋(たち)の、床から天井まで、巨大なキーファーの作品がびっしり、文字通りびっしり、びっしり展示されている写真だったかをどこかで見て、ひえーっ、ますます凄まじいなあ、と思っていたのである。そしたら今度は、京都・二条城で「キーファー展」をやる、というではないか。来年(2025年)の予定らしいが、行けるかな。廊下のウグイスばりの音を効果音とかに使ったりして。なんて、、、。
     で、ヴェンダースの映画、である。
     結構な見応えだった。
     なんといっても、映し出される仕事場がでかい。でかすぎる。
     そのでかすぎる仕事場に、これまたでかすぎる作品がびっしり並んでいるのである。それらは制作途上なのか、完成しているのか、映画からは判然としないが、ともかくものすごい量であり、大きさである。私がかつて都内某所で見た絵の大きさをはるかに超えている。キーファーはそれらの間を自転車で移動していく。ということは、こともあろうに(?)仕事場はきちんと整理されているのだ。仕事場を仕切るある合理性というか、秩序が見えてくる。死んだ空間ではないのである。
     大きすぎる作品群には、一点一点、それぞれに鉄製の支えがあって、キャスターがついている。なので、人力で移動できる。必要に応じて作業するスペースまで移動させていって、バーナーで焼いたり、絵の具で描画したり、溶かした鉛を滴らせたり、、、と描画しているのだ。
     たとえば、バーナーで、画面に貼り付けた藁を焼く時には、当然ながら激しく炎が立って、画面横と画面背面とにそれぞれ控えているホースを持ったアシスタントが、キーファーの指示に従って、焼きすぎないように水をかける。作品はもちろん、床もビショビショだ。後片付けの場面はでてこない。
     絵の具での描画もすさまじい。絵の具は大きなバケツに入っていて、それを特製のおそらくはステンレス製であろう、弾力ある長いヘラで、えいっ! とすくって、そのまま画面に叩きつけ、ヘラの先端でゴニョゴニョと描いていく。あらかじめ木炭での素描が施されており、その木炭の黒が混ざって、“調子”を作り出していく。すごい力技だ。
     絵の具はバケツだけにおさめられているのではない。時に画面片隅に映り込む大きなテーブルには白い“山”があった。おそらくは白い絵の具であろう、と見た。同じテーブルには、他にもいくつかの色の“山々”があったし、すぐとなりのテーブルには絵の具の缶が並んでいた。つまり、大きなテーブルがそのまま“パレット”になっているのである。もちろんテーブルにもキャスターがついている。
     作品の上部の描画のためには、本格的な昇降機を使っていて、なるほど、と思いながらも呆れてしまった。キーファー自ら運転して絵の前までやってきて、そのまま上に上がって描画を始め、先に述べたように描画を進めていく。
     彼の作品に頻繁に登場する鉛。鉛を溶かすためのちゃんとした炉があって、その炉は、水平に置かれた絵の必要な領域の上まで移動できて、キーファーの手でそのまま画面上に注ぎ込むことができる。アシスタントが、もう少し下げましょうか、そうすればピチピチ跳ねることがなくなりますから、とか言うと、キーファーは、いや、跳ねるのがいいのだ、とか言う。結果、溶けた鉛の飛沫がピチピチ跳ねて、キーファーも思わず後退りしたりする。そうしたディテールが面白い。
     また、作品のための素材が、巨大すぎる棚とそこに並んだ金属製の箱にきちんと整理されている。さすが、である。枯れた植物、得体の知れないオブジェ、引き出しにおさめられた無数の写真、、、。一枚の風景写真を無造作につまみあげるキーファー。
     そして、図書館のような書庫。書庫のような作品=鉛の書物群、パウル・ツェランの言葉、、、。
     整備された展示空間は、そのまま制作の一部をなしてもいる。驚くべきことだ。
     こうした、南仏バルジャックでのキーファーの“日常”が軸になって、幼少期のキーファー、青年期のキーファーのエピソードが、幼少期をヴェンダースの孫甥(聞きなれない言葉だが、兄弟姉妹の孫=男性を指す言葉だという)が演じ、青年期をなんとキーファーの息子が演じることで挿入されていく。さらにそれらを踏まえて、最初期のキーファーの作品写真やインタビューなどの資料映像も挿入されて、キーファーの絶え間ない営みが多層的に描き出されていく。じつに手際がいい。さすが、である。
     キーファーが生まれ育った館であろうか、ヴェンダースの孫甥(幼少期のキーファー)が、その内部の装飾を眺めながら巡っていくシーンは、彼の出自さえ想像させ、咲き誇るひまわりの下で寝そべってひまわり越しに空を仰ぐ姿は、彼の作品にたびたび登場するひまわりの“出どころ”を示しているかのようであった。
     ひまわり、といえばゴッホだが、高校生だったかのキーファーが多数の応募者の中から選出された奨学制度でゴッホの歩いた経路を自らたどってレポートにまとめ、ヨーロッパ中の最優秀賞をもらった、というエピソードを私は全く知らなかったし、そこで紹介される高校生のキーファーによるゴッホ風の風景デッサンや、それ以前、幼少期の絵にも驚かされた。 
     青年期のキーファーについては、雪景色の畑に踏み込んで写真撮影するシーンや、最初期のドイツ山中の仕事場(木造の倉庫のような建物。初期の絵に度々登場している)でボイスに手紙を書き、ボイスに見てもらうために車にたくさんの絵を積み込んでボイスの元へと出かけていくシーンが印象的だ。白の中に真っ黒い細い線が伸びてボイスのところに続いていく。
     こうして映画のシーンを次々に思い出しながら書いて(打ち込んで)いくとキリがない。ネタバレにもなってしまうので、この辺にしておくが、ぜひ、ご覧になられるとよい。
     先に述べたベネツィアでの「キーファー展」会場で撮影したシーンさえもあって(チントレットの壁画も登場する)、心憎い映画になっていた。さすが、と言うべきか。
     それにしても、すさまじい仕事への集中度である。まちがいなく、全てを制作に捧げてきているのだ。
  •  福田尚代氏の仕事への集中度もまたすさまじい。彼女が用いるのは、言葉、本=多くは文庫本、消しゴム、刺繍糸、針、はさみ、のり、といったさりげない物品である。にもかかわらず、私は、彼女の作品に出くわすたびに驚かされる。今はもう、出くわすのを待っていられなくて、情報があれば、そこに見に出かけるようになってしまった。今回の西船橋・Kanda & Oliveiraでの個展も同様である。西船橋には初めて降り立った。
     一階、二階、中二階、階段踊り場で展示していた。建物が独特で、これも大変面白いが、深入りしない。入り口入ってすぐ右側の部屋の床には四角く“境界”を備えて、その内側に無数の白い小さな形が拡がっていた。それらは、白い消しゴムを擦ることで形成される滑らかさを備えた形状だったり、カッターナイフで稜線だけを残してそれ以外をくり抜いて形作られたりしている。ともかく呆れる数なので、ぼんやりと全体を感じ取りながら、ふと目を止めた一つ一つやそのあいだを確認するように観察したり、視線をジャンプさせて次々に目を移していったりなどせざるを得ない。これら一つ一つの“極小ゴム彫刻”を形作るために要した時間や労力を想像すると、確かにぞっとさせらるが、本当にすごいのは、そんな“労力の集積”などという、つまらぬ見え方を軽やかに凌駕していることである。ただひたすらに、きれい! なのだ。手芸的なきれいさではない。こうすればこうなる、と結果をもくろんで作り上げたきれいさでもない。なんといえばいいか、日々の営みを踏まえて、今、この時、この場所でしか成立できない、というきれいさ。たとえば、自分のからだの大きさのことがよく分からなくなってくる。上から見下ろしている、ということもあるだろうが、つい深く没入させられてしまうのだ。
  •  しばし堪能したあと、二階に移動すれば、自然光に満たされた真っ白な空間である。床は明るいベージュの板で、じつに気持ちがいい。
     正面壁に文字が直接書かれている。下方に進むに従ってグラデーションを成して消えていく。映像とかに依存しない心地よさがある。
     他の壁に額縁入りの作品や天井から吊り下げられた作品がある。
     床には、白い台座の上に本の作品が置かれている。今回は文庫本が少なく、ハードカバーの本が多い。表紙の色が鮮やかに際立っている。が、見どころは、すべてのページを縦二つに折り曲げて天地を扇型にし、木口にたった一箇所、折り方を変えて本の中の言葉が示されていることだ。言葉を読むには台座が低いので、しゃがむことが必要になり、その屈伸運動が辛くてあまり熱心に見ることができなかった。どの本のどんな言葉? というところまで読み込まなければ十分ではないような気がしたがやむを得ない。こんな本の使い方をしたひとは、どこにもいないだろう。
  •  半透明の消しゴムでつくった作品をガラス板上に並べた「ひとすくい」と名付けられた作品は本当に美しい。複数の作品の互いの間隔の設定やガラス板を用いたことがとてもよく効いている。ほかにも、色のついた消しゴムでつくった“極小彫刻”を集めてならべた作品、少女漫画の目だけを残して塗りつぶしたドローイングや、竹製の物差しを竹で作った作品、糸栞をほぐして集めた作品、少女漫画の目だけを集めてコラージュした作品など、どれも尋常ならざる福田氏の集中度が伝わってくる。この人が回文を作る人で、今まで何冊もの書物の形にまとめてきたことを考え合わせれば、言葉すら冷徹に見つめるその眼差しに恐れ慄かざるを得なくなる。集中度と言うのは、こうして身近な素材でひたすら手元をみつめることの中にも強く現れ出るのである。彼女の個展は明日限り。次はいつになるか、、、。回文の“お土産”もあった。

    (2024年6月28日、東京にて)

    ・[映画]新宿武蔵野館
    Anselm
    アンゼルム "傷ついた世界"の芸術家
    (6月21日(金)~ TOHOシネマズ日比谷ほか全国順次公開)
    公式HP
    https://unpfilm.com/anselm/

    ・[参考リンク]
    世界遺産・二条城を舞台とした アンゼルム・キーファー氏の大規模展覧会開催の決定について
    公式HP
    https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000322923.html

    ・福田尚代 ひとすくい
    2024年5月18日 - 6月29日
    時間:13:00-19:00(水曜-土曜)
    会場:Kanda & Oliveira
    公式HP
    https://www.kandaoliveira.com/ja/exhibitions/


    画像1:アンゼルム、チケットとプログラム
    画像2:福田尚代作品。Kanda&Oliveira1階での展示部分
    画像3:福田尚代作品。
    画像4:福田尚代作品。「ひとすくい」
  • [ 藤村克裕プロフィール ]
  • 1951年生まれ 帯広出身
  • 立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
  • 1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
  • 1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
  • 内外の賞を数々受賞。
  • 元京都芸術大学教授。
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