同じように、どうやって作ったのか、会場で判然としなかったのは、金川一というひとの「ネコ」という作品。紙を極小にちぎってそれを“台紙”に貼付けて作ったらしきテクスチャーが独特の表情を生じており、そのテクスチャーと描き出されたネコの形状との間に不思議な“調和”を生んでいる。ネコの毛並みの手触りを作り出したかったのだろうか。「パパ」の場合とはやや異なった作画の動機を感じさせる。
このふたり、他の作品も加えて考えると、当たり前だが、明らかにそれぞれの個性が明らかである。松田康敏という人が対比を手掛かりに描いたり作ったりしているのに対して、金川一という人はデリケートな諧調を駆使して描いている。こんな風に、死刑囚ということで一括りにはとてもできないのだ。
とはいえ、会場に並んでいた作品がどれもよく似ている、ということは否めない。互いに互いの作品を見比べたりするわけでもなく指導者がいるわけでもないのに、よく似ている印象が生じるのは、なぜか?
ひとつには、筆圧の高さ。それゆえ、線は明瞭になり、塗りも際立つ。
また、大部分の作品は写真や既製の図像をモトにして描かれていたように思える。写真をその写真と寸分違わないように描くのはそれなりの修練を要するものだ。まず、写真の画像に線はない。にもかかわらず、ひとは形体を区別・識別するのに線を用いる。それが人間の知恵である。その知恵は神秘といってさえよいほどだ。ところで、形体を区別するために引いたその線は、絵から消えてなくならなければ写真と同じ図像にならない。写真表面にはテカリだってある。そのテカリさえ描き込むこともある。絵の素養がない人がいきなりこんなことをできるはずがない。写真から線で形状を読み取り、形状を描き出す。探り描きもあったかもしれない。描き直しも生じただろう。一続きに収斂していくその線の形状に納得がいくまで一生懸命やるから、自然筆圧は高くなり、線は明瞭になっていく。さらにそこに色を加えていくのだ。はみ出さないように、塗り残さないように、必要と思われるところにキッチリと丁寧に塗っていく。ここでも筆圧は高く、塗りは徹底される。結果、線が残っても残らなくても線的に明瞭な絵が出来上がってくる。
林真須美という人の絵には具体的な形体があまり、というかほとんど登場しない。にもかかわらず、線的に明瞭に区分された色鉛筆による塗りには、塗り自体に特異な表情が現れ出ている。そういう表情が引き出されてやっと、色を繰り返し塗り込むことに納得した違いない。そのように成立しているシンプルな形状が、たとえば青空であり、独房であり、独房の中の自分を示していることにキャプションの記述から気付かされると、彼女が可能な技術の範囲で精一杯の表現をしているのだなあ、と想像できる。
また一方、風間博子というひとのように、それまで殆ど絵を描いたことがなかったにもかかわらず、急速に力を露わにし、具体的なものの描写はもちろん、絵として説得力をもった世界を構築しているひともいる。彼女の場合、光をとらえようとしているのが特徴的で、じつに丁寧で曖昧さがない。このひとは一貫して無実を訴え続けているという。
いろいろ例示していくとキリがなくなる。
ともかく、使える画材は限られ、紙さえも一定の大きさを超えたものは使用が許可されない、そんな条件下で、絶えず監視されながら絵を描いているわけである。いつ刑の執行があるかも分からない(すでに執行されたひとも含まれていた)。まさに想像を絶する状況である。何かに集中しないと壊れてしまうのかもしれない。
慌ただしく出かけて、確かにこの目で見てきたのだが、恐いもの見たさ、とはいえ、重い体験だった。
何日か置いて、市ヶ谷、ミズマ・アート・ギャラリーで「池田学展」を見た。この人も徹底的に細部を積み上げていく。今回展示されていた「誕生」は、構想2年、制作3年3ヶ月だという。大変な力作である。線的に明瞭で丁寧すぎるくらいの塗り込み(描き込みというべきか?)がなされているのはこの人の場合も同じである。しかし、死刑囚の絵とはまったく異なった世界を示していた。それを、絵を描くことの素養や修練の違いとしてしまってよいものかどうか、にわかに結論が出せないでいる。
(2017年9月5日、東京にて)
※画像は作品画像カタログより。