8月30日の智美術館での関島さんの素晴らしいトークを、現場でのメモから思い起こしてみたい。
私の作品は、カゴの歴史、素材、構造、技術といったことについて考えながらできてきたもの。だから、一見カゴに見えなくても、私はカゴだと思っている。
作品のタイトルに「記録」とか「超組織」というような言葉を選んでいるのは、使っている自然素材で、“花鳥風月”の世界、というように見られたくないから。私は作る過程への興味、あるいは作る構造への興味から、その時知りたい、と思ったテーマをもとにして作る。
たとえば「なわ」の作品。縄はものをしばったりするための不定形のもの。編まれてかたちあるものとは異なるもの。そこに挑戦した。
縄は綯って作る。つまり、撚る、撚りをかけるという原点を持つ。蔓(つる)を撚れば橋にもなる。それから、結縄のように、ものごとを記録することもできる。そんなことを念頭に置きながら、「なわ」を綯う。繊維を撚る。何日も何日も続く単調な作業。その中で10分とか15分とか、決まった時間が過ぎたところでカウントし、その時に赤い裂(きれ)をはさむ。隣のなわと絡めるなどしていく。作業の時、材料の繊維は濡れている。乾燥すれば固まる。この性質を利用してかたちも作る。
編むことは動作。その結果、組織構造ができる。それは物理的な原理に基づいたもの。物理的な原理とは何か? 繊維は「みつどもえ」以上にしないと固定できない。私は、たくさんのカゴを見て、そのパターンを発見し、ルールを発見してきた。その結果、6種類の構造が抽出できることに気付いた。「絡める」、「結ぶ」、「巻く」、「組む」、「織る」、「捩(もじ)る」の6種類。1980年代半ばのことだった。以来、そうした「定式」をどう超えるか、ということを考えながら作ってきた。
私は自然素材を使ってきたから、材料がいうことをきかないときに「定式」を超えることが始まる。材料で超えるわけだ。材料だけでなく、構造で超えることもあるし、道具で超えることもある。作る順序を反転させることで超えることもある。
私には自分に禁じていることがある。それは、既知の技法を使わない、きれいな素材を使わない、ということだ。
つづく