今回の展覧会の出品作には、この黒と同様の性質の黒が与えられた「放哉句 爪きった指」があった。この作品の場合では、右側に書かれた文字を潰すための黒の太い線状の広がりと上方の縁に沿った横方向の黒線が、「必死三昧」の左側の黒と同様の役割を果たしている。加えて、中央下には片方の手の輪郭がこだわりの全く感じられない線で示されている。「爪」という字は潰れていてほとんど読むことができない。書き損じというか、シミのようにさえみえる。ここでは、「書」としての相貌は後方に退いて、全体が「絵」のようにさえみえる。
井上有一という人は、もともとは画家を志していたという。だから、意味を伴う文字やその群れのことだけでなく、散在するかたちが形成する「画面」のように、「書」という営みを捉えることができたのだろう。だからこそ文字ではない領域、つまり、読むこともできないし意味も持たない紙の地に着目できたのではないか。今回展示されていた「ブッコウ国師げ」とか、あの「噫横川国民学校」などでは、書き付けられた文字の特異な表情、そこから感じさせられる異様な書きぶりということももちろんあるが、文字と文字とのあいだから覗く紙の地の色のかたちの果たす役割が大きいのではないか。
また、筆の穂を成す毛束の一本一本が一本一本の線となって集合し太い文字を形成していることの“効果”についても着目したい。これは、摩った墨に大量の膠を混ぜて、そこに筆を突っ込んだまま一晩かけて凍らせ、翌朝それをかき混ぜて使ったという「凍筆」で書かれた「死」という作品に顕著に見て取れる。文字がシルエットだけで形成されていない。シルエットの成り立ちが透視されるように露わになっている。こうした“構造”もまた、「絵」とじつに多くの共通項を持っている。
シルエットとしての書ということを補足すれば、書の世界には双鉤塡墨(そうこうてんぼく)という技がある。文字と紙との際をトレースして写し取り、内部を塗りつぶす。言ってみれば“手仕事コピー”である。そのようにして、たとえば王羲之の書は私たちに伝えられている。王羲之のオリジナルの文字は一つも残っていない。すべて双鉤塡墨で“コピー”されたものだ。これはじつに大事なことを示している。つまり、書ではその輪郭にこそ書きぶりをはじめとする全ての情報が集中している、ということだ。
井上有一は、その「輪郭」に加えて、輪郭の内部の構造=細い繊維組織の束の数々が作り出す線の表情をも導入したわけである。塗装や印刷用のカーボンブラックとボンドとを混ぜて水で溶いて作った「ボンド墨」を繰り返し用いてきたのもうなずける。そのことで、世界がいっそう複雑化したのだから。
そんなわけで、他にも様々なことを考えさせられた。じつに面白かった。
(2015年7月14日、東京にて)