家人が、私のピアノの先生がリサイタルをするそうなんだけど、行く? と言うので、行く行く、と答えた。家人に私の分のチケットも買ってもらって、その先生のリサイタルに行ってきた。
家人の話に時々出てくる人だが、私は全く知らない人だし、ピアノ・コンサートなどというものには、トン! と縁がない暮らしをしてきた。のみならず、私は、日頃から全く音楽を聴かない。自分で楽器を演奏したり歌を歌うなどもしない。なので、緊張して迎えた当日であった。12月1日。
最寄りの駅から会場に向かう道筋で、後方から子供たちの賑やかな声がしていることに気がついた。もしかしたら、後ろの子供たちもリサイタルに行くんじゃないか、と思っていたらその通りになった。小学校の低学年くらいの子供たちである。お母さんらしきご婦人たちも一緒だったものの、え? 大丈夫なの? と思ったけど、これが大丈夫だった。子供たちが邪魔をすることは一切なかった。私なんかより遥かに“場慣れ”していて、ピアノ演奏を聴くことが身についていたのである。素晴らしい。
少し空席があったものの会場はほぼ満員だった。集まった人々は、やはりそれなりの雰囲気を醸し出していて、開演までのあいだ互いに挨拶したり談笑したりしていて、私はますます緊張していった。隣の席の家人も少し緊張している様子だった。ステージにはスタインウェイの大きなピアノが鎮座していた。
ブザーが鳴り、やがて照明が変化して、いよいよ若い男性のピアニスト=家人の先生が登場したのだが、登場直後にズボンの裾がめくれ上がっていたのに気づいたらしく、あ! と慌てて、一瞬どうしようと逡巡し、そのまま膝を折って手を伸ばし、裾を整えて恥ずかしそうにした。それが会場の緊張感を一気に和らげた。結果、いかにも温かい拍手で迎えることになったのである。もしもあれが演出だとすれば、極めて巧妙な演出だったが、そうではあるまい。
一曲目、スクリャービンのピアノソナタ第4番。静かに始まり、やがて次第に盛り上がってジャーンと終わっていくのだが、押し付けがましいところは全くなくて、こういう曲を選んだセンスの持ち主であることをとても好ましく感じた。
二曲目、モーツァルト ピアノソナタ第12番。前の曲に比べると、さすがに古風な印象も否めないが、次第に没入させられていた。
三曲目、グラナドス 『ゴイェスカス』より3曲。愛の言葉、嘆きまたはマハと夜泣きうぐいす、藁人形。全然知らなかった人の全然知らなかった作品である。リズムが強調され、いかにもスペイン! という感じだった。
四曲目、チャイコフスキー 組曲『四季』全曲。一月から十二月まで、つまり12曲。
いずれも、はじめて聴いた曲ばかり。
居眠りしたらどうしよう、と思っていたのだが、居眠りなんかしている暇はなかった。目の前で進行する事態についていくだけで精一杯だった。年齢のせいか、すでに帰路では記憶が曖昧で、ほとんど何も覚えていなくて情けなかったけど、とっても面白かった。家人は素晴らしい先生に教わっている、と確信した次第。
なんと言っても、目の前で実際に演奏しているのだから、その迫力たるやすごいものがある。圧倒的である。なぜあんなに素早くしかも正確に指が動くのか理解できないが、もちろん長い鍛錬の蓄積のゆえだろう。ここで、才能、という言葉の重みが身に沁みる。そしてさまざまなことを考えた。美術は、ちょっと甘い、かもしれない、などと。
家人が、私が教わるなんて申し訳ないくらい、と呟いた。家人は、小さな頃に少し教わっていたピアノを老化やボケに抵抗するために再開しようと、一年ほど前にインターネットでさまざまに探してこの先生と巡り合った(らしい)。月に二度だけのレッスンを受けているもののほとんど進歩がない、と家内はかなり苛立っているようである。その苛立ちの訴えを、私は耳を馬に変容させて受け流している。馬には申し訳ないことである。やはり、家人も先生の演奏に感動したのだろう。押し付けがましさが全く感じられないので、余計に感動させられたはずで、それゆえの発言だと思った。レッスンを増やして貰えば? と応じたものの、これ以上はとてもムリ、と言う家人もまた尊重せねばなるまい。
何度目かのアンコールの拍手を受けて、マイクを持ってピアニスト=家内の先生が話し始めた。その話がとっても良かったが、残念、ここでは割愛する。ともかく私は、家内がこの先生からクビになってもこの人のファンで居続けようと思った。
アンコールの演奏はスクリャービンのエチュードから。思いがけないほど力強い演奏だった。再度アンコールを、の拍手が止まなかったが、件の先生は何度目かの登場の時に、もうお帰りください、というようなジェスチャーをして、また笑わせてくれた。素晴らしい。
ちなみにその先生の名は、「臼井秀馬」。
こういう時間もいいものだなあ、としみじみ感じながら帰宅したが、ぐったり疲れていた。やはり緊張しきっていたのだろう。
次の日(12月2日)、お昼ご飯も早々に家を飛び出して日吉駅に降り立った。慶應大学アート・センターが日吉キャンパスの来往舎で「ポートフォリオBUTOH『塩首』〈全編〉上映会」という催しをする、というのだ。無料! である。年寄りにはありがたい。
『塩首』というのは、舞踏家ビショップ山田=山田一平氏の「北方舞踏派」結成記念公演として彼らが根城にした1975年の山形県鶴岡市稲生町番田で行なった有名な公演のタイトルである。その『塩首』の記録映像が残されていたことなど、私は全く知らなかったのだが、SNSというヤツからこの催しの情報を得て驚嘆し、絶対に見たい、と前日のコンサートの余韻も振り切ってやってきたのである。
14時ピッタリから慶應大学アートセンターの石本華江氏がこの映像の由来をはじめ、この日には映写されない講演前の様子や講演後の様子を捉えた映像のサワリを紹介しながら、巧みに無駄のない話を20分間ほど行なった。この話の中で大事だと思ったのは、「VIC」=Video Infomation Centerという組織=運動体のことである。1972年から現在までビデオを用いて多種多様なイベントの記録を行い、実験的なテレビ放送(アパートでのCATVの試み=1978年)なども行ったという。国際キリスト教大学=ICUの学生たちが母体となって結成されたというのだが、私は不勉強で全く知らなかった。ともかく、1970年代初頭にビデオに着目してこれを記録媒体として意識的に用いていたのは、それ自体が驚くべきことである。おかげで『塩首』の公演記録も残され、こうして私のような者も見ることができる。
全編映写された『塩首』の映像は、冒頭からショッキングだった。
塩漬けされた(らしい)首が舞台中央に設定された丸い穴状のところや、その上方にあつらえられた横に細長い箱状のところ(=横倒しの棺桶か)、舞台上の何箇所かの台上に晒し首のように並んでいるところから始まるのである。丸い穴状のところにはビショップ山田氏、横に細長い箱の中には芦川羊子氏、麿赤兒氏、玉野黄市氏、森繁哉氏の生首=塩首が並び、台上にも固有名のない(というか、北方舞踏派や大駱駝艦の踊り手たちの)生首=塩首が並んでいる。とっても気味が悪い。
やがて、中央の穴から贅肉を全て削ぎ落とした果ての姿の痩身のビショップ山田氏が登場し、その体をしばらく晒して、やがて穴に消え、森繁哉氏がいささか少女趣味的なスカート姿で登場し、踊り、ふとジャンプしたかと思えばそのまま空中で膝を折って、床に膝、脛、足首を激しく打ちつけ、にもかかわらず何事もなかったかのように再び踊り続け、男たちの群舞が始まり、、というように、さっきまで生首=塩首だった人々が次々に登場して踊り続ける。登場するのは中央の穴からであったり、穴の上方の横に細長い箱からであったりするが、時に穴の上には板が延べられて、例えば芦川羊子氏はそこで二つの扇を用いて信じ難いほどに甘美な踊りを行なって、映像越しとはいえ観客を呆然とさせ魅了し尽くす。さらに、横に細長い箱の中では頭にツノを生やした男たちが背中だけで踊ってみせる。その男たちはあたかもホルスタインのようだが、あとで、黒と思われた背中の色面は実は青で、麿氏は、日本海の色を連れてきた青だ、と述べたそうだ。などなど。
最終盤で横倒しの棺桶から鼻筋に白い“化粧”をした長髪のビショップ山田氏が登場し、それがまるで中村宏氏撮影の「肉体の反乱」の映像で私は見知っているだけではあるが、あの映像の中の土方巽の動きをなぞっている、というか土方が憑依したかのような踊りといった印象で驚かされた。その後もう一度登場したビショップ氏は、今度はほとんど動かないで踊り抜き、これにも驚かされた。
そしてカーテンコール。
二時間。お腹いっぱいであった。
休憩後、ビショップ山田氏を中心に森下隆氏、小菅隼人氏によるシンポジウム。どの話も印象深いものだったが、とりわけウクライナのバレーダンサーを振り付けた時の話や、会場におられた小林嵯峨氏を“巻き込んだ”「ショー」の話など、忘れ難い。
そういえば、この間、「山本裕子遺作展」(11月30日〜11月4日)を観ることができた。私より若いのに学校では先輩だった人だ。彼女は現役合格だったのである(私は3浪しちゃった)。ずっと着実に制作発表活動を続けてきていたが、膵臓がんが見つかってじきに亡くなった。その遺作展だったが、最初期(1980年代初頭)のあの繊細で独特だった作品は出ていなかった。物理的に保管が難しかったのかも知れない。私はあの時期の山本さんの作品が好きだった。
それから、大先輩・木村克朗氏の最初期から近作まで、300点にも及ぶ大作群が一堂に並べられた個展を見に、木村氏のトークのあった日に京都まで日帰りしたことや(11月10日)、「実験映画を観る会」で宮崎淳氏の7作品をまとめて見たことや(11月26日)、竹橋の近代美術館で会期終了間際の「棟方志功 メイキング・オブ・ムナカタ」展を見たことも(11月30日)メモしておきたい。
木村氏の初期作品には意外にも「やまと絵」からの大きな影響を感じることに後日気づくことになったが、最初期から保持し続ける「層」への問題意識、その一貫性は圧倒的であった。また、トークで触れられた数々のエピソードも忘れ難い。
棟方志功展では最初期の「雑園習作」(1929年)に驚かされただけでなく、「大和し美し」(1936年)で始まる文字と絵との一体化、「門舞男女神人図」(1941年)でのキュビズムを導入しようとしたかのような思い切った試み、「柳仰板画柵屏風」(1951年)の陰刻が画面全体を覆うかのような広がりになった表情の実現、、、などが印象に残った。もともと才能に溢れた人が制作に集中して残された作品群は、おそらくまだまだ全貌が明らかではないにしろ、圧倒的な迫力だった。
とはいえ、PCの操作ミスで数日間の仕事が全て消えてしまったというアクシデントなどあって、全く出かけることができなかった催しも数多い。なんとも残念な11月であった。
そうした残念な11月にさしこんだ一筋の光明。それは、大相撲九州場所で幕下優勝はなんとあの聖富士(さとるふじ)だったこと。熱海富士の肩や首筋を揉むあの可愛らしい手を見ることができなくなる日=つまり彼が関取に昇進する日は近そうである。心なしか先場所より聖富士の眼光が鋭くなっていた気がしたのは私だけだろうか。
画像:上「臼井秀馬」ピアノリサイタルチラシ
2枚目「塩首」の一場面
3枚目 木村克朗氏
4枚目 棟方志功展会場