3月11日、あの大震災の日。
だから、というわけではないが、東京・四谷・大京町のアートコンプレックスセンター地下大ホールで「井上洋介没後一周年大誕生会」展をみた。
会場をびっしりと埋め尽くす絵画群。文句なく、す、すごかったぞ。ざっと見ただけで2時間近くかかった。壁面の長さが100メートルという会場に、床から天井までびっしり。あ、床にも。なんと、トイレの中にまで展示されていた。女性用トイレに展示されていた(はずの)作品を見に行くのはさすがに遠慮したが、一点一点まったく見飽きることがなかった。もっともっと見ていたかった。
井上洋介といえば普通、絵本作家、イラストレーター、漫画家、となるのだが、どっこい、「大誕生会」会場には絵本やイラストや「一枚漫画」の原画とかが並んでいるのではなかった。いわゆるタブローが460点。ほとんどが油絵だ。こんな展覧会にはなかなか出くわせない。
キャプションも目録もないので、データーがはっきりしないが、ゆるやかに制作年に従って展示されていた。1950年代からずっと最近までの作品群。絵本やイラストなど“本業”を加えれば、仕事の総量はたいへんなものだろうが、この会場に並ぶタブローの分量からだけでも、じつに勤勉な人だったことがわかる。
井上洋介は1931年、東京生まれ。東京大空襲のさなかに悲惨な光景を数々目にしたという。その時、単純計算で14歳。最も多感な頃だ。その体験が一貫して色濃く影を落としているようにみえた。
同時に、間違いなく大変な教養の持ち主だ。オーソドックスなデッサンの力量はもちろんのこと、同時代の美術の動向からも積極的に学ぶことを厭わない姿勢が見て取れる。これは、幼い頃から美術に親しめる環境で育ったことが大きいだろう。若くして(20歳前後、もしかして戦死?)亡くなった9歳違いのお兄さんが絵を学んでいたり、井上家の貸間に日本画を描く老人と油絵を描く若者が住んでいたり、美術雑誌や漫画雑誌などが家にあって、小さな頃から絵が特別なものではなかった、と語っていたインタビューを読んだことがある。小学生の頃にはルオーを知っていたらしい。長じてからは武蔵野美術大学で学んでいる。教養があるのは当たり前、と言える。
そしてなんといっても、絵を描くことが大好きだったことが並んだ絵画群からダイレクトに伝わってくる。
つづく→