テニスコートの横を通って行くと、つい笑ってしまいそうになる不思議な形の彫刻があった。ここにあの浦和高校があったことを記念して設置された“モニュメント”だった。作者は柳原義達。想定外のこんなことがあるので、いつもと違う道筋で歩くのは楽しい。遠足の醍醐味。
タマキンでは「森田恒友展」。予想以上に面白かった。
森田は、1881年現在の熊谷市の生まれ、というからピカソと同じ年齢だ。20歳の時、東京に出て、中村不折に師事するが、中村不折の留学により小山正太郎の塾へ移り、やがて東京美術学校入学。青木繁や熊谷守一とは二学年下。首席卒業。1914年渡仏。1915年帰国。1922年、春陽会結成。1933年、食道癌で死去。
最初期のデッサンから最晩年の風景画まで、デッサン、油彩、水墨、木版、挿絵、‥‥、そして文章、と驚くほど多彩な形式を自在に駆使している様子に驚かされた。その器用さだけでなく、この時代にはすでに様々な表現の「様式」を対象化してその都度選択できるようになっていたのだろうか。とはいえ、渡仏後のセザンヌへの傾倒ぶりと、次第に自分のものにしていく様子には、冷静でおられぬ迫力がある。とりわけ、“森田様式”ともいえそうな最晩年の風景画に至る様子は、静かながら大変な迫力を含んでいる。初期の1907年作の「湖畔」、この素晴らしい作品をものしたこの人にして、またこの凄まじいほどの制作量にして、ようやく到達し得たであろう1930年代の作品の持つ意味については、いずれきちんと考えてみたい。
そんなわけで、ヘトヘトになって京浜東北線・北浦和駅から電車に乗った。幸い座ることができてホッとした。バチが当たりそうなほどの満足感満載の遠足。一万歩軽く突破!
(2月8日、東京にて)