1970年、高校を終えて東京に出てきた。アパートは豊島区南長崎五丁目の三畳に決めた。大昔の話だ。
一人暮らしにも慣れた頃、何かの名簿で熊谷守一の家が近いことに気付いて、テクテク見物に出かけた。目指すは同じ豊島区の千早町。当てずっぽうだったが比較的容易に見つかった。なるほど、敷地には鬱蒼と樹々が生い茂っていて、それらの隙間から奥の方に黒く平屋が見えた。屋根にテレビのアンテナが立っていた。へえー、熊谷守一もテレビを見るのか、と思った。道からそれらを眺めているうちに、ひょっとするとこの庭に今、熊谷守一が座っているかもしれない、そう思って、なんだかとても満ち足りて帰路についた。
ということは、その頃には熊谷守一のことをもう知っていたわけである。が、どう知ったかは、朧げになってしまっている。
本屋の美術雑誌で見つけた安東次男との対談を立ち読みして、『朝のはじまり』という絵をめぐるくだりでビックリ仰天した記憶はある。目覚めてまぶたを開けた瞬間に光(熊谷は確か“あかり”と言っていた)がまずこう見える、それを描いた、だからこの絵は“抽象画”ではない、と熊谷守一は言っていた。朝、凡人の私が目を開けると、光ではなくただちにものの色や形、つまり具体的なものが見えてしまう。その前の“超瞬間”。すごい人がいるものだ、と思ったのだから。
その冬だったか、次の冬だったか、前日から雪がたくさん降って積もった朝、部屋から外に出て枝々の雪を見た時、熊谷守一の描いた雪だ! と驚いた。私の育った北海道東部に降る雪はさらさらのパウダー・スノー。無風で枝々に積もったとしても違う形になる。樹木の種類も違うから枝の形も違う。そして、積もった雪はすぐにあっけなく風で飛ばされてなくなってしまう。ああ、東京の雪はホントに熊谷守一が描いたかたちになるんだなあ、…ここはナイチなんだなあ、と思ったものだ(北海道のひとは本州の事を“内地”と言っていた)。
こんな事を思い出していると、なんだか当時の切ない気持ちもよみがえってくる。私は空回りばかりしていた(いまだに)。とっても貧乏だった(いまも)。いつもお腹がすいていた(これはかろうじて大丈夫)。
そんなこととは無関係に、熊谷守一の絵はずっと大好きだ。
ところで、私と同じくらい、いや絶対私以上だな、熊谷守一の絵のことを大好きなのが美術家の岡崎乾二郎氏である。そのことを、私は随分以前、テレビ番組で知った。そこにゲストで登場していた岡崎氏は熊谷守一について実に巧みに話をしていた。記憶にあるのは、『櫻』という絵の話と熊谷の絵のサイズについての話。あ、『ヤキバノカエリ』という絵についての話もあった。この絵のこの場面はいったい誰が見ているところなのか、という話だったと思う。『櫻』については、描かれている小鳥と桜の花との話が“落ち”のある構成で語られていた。“天狗の落とし札”(小出楢重の命名という)と言われた4号ほどの絵が多いことについては、顔がスッポリ入るギリギリの大きさだから、という説明だった。どれも岡崎氏独自の観点があって驚かされた。だから何でもすぐに忘れてしまう私にしてはこのテレビ番組のことはよく覚えている。
岡崎氏と熊谷守一といえば、昨年(2017年)豊田市美術館で岡崎氏が作り上げた『抽象の力』展でのことを述べておかなければならない。岡崎氏は、この展示とカタログテキストとでじつに様々な問題提起を行なった。その中のひとつ。なんと、熊谷とアルプとの作品とを隣り合わせに展示していたのである。それを前にして、私は思わず笑ってしまった。虚を衝かれたのだ。そんな時、ひとは笑うしか手がなくなる。岡崎氏は、熊谷とアルプ、彼らの作品からひとつずつ選んで隣り合わせにして展示する、たったそれだけで熊谷守一の仕事の意味をじつに鮮やかに示していたのである。同時にそこではアルプのやった事の意味も照り返されていた。二つの作品はとっても似ていてまったく違っていたし、まったく違うのにすごく似ているのだった。ここにはとても複雑でやっかいな問題がある。私にはいまだにうまく整理できていない。時間はどんどん過ぎていく。ああ、なさけない。ちなみに、岡崎氏による同展のカタログテキストはwebで読む事ができるし、同じく岡崎氏の手になる同展展示パネルの文章も雑誌『あいだ』234号で読む事ができる。その『あいだ』234号に収録された同文から熊谷守一に関する記述を書き抜いておきたい。
つづく→