藤村克裕雑記帳
2025-02-06
  • 藤村克裕雑記帳273
  • 佐川晃司個展
  •  拙宅の耐震補強・改修工事は、じつにやっかいな工事だったにも関わらず、粘り強い建築士と超人的な働き方をする工務店社長とのおかげで無事完成できた。支払いも、私と家人とがコツコツ準備してきた蓄えでなんとか完了できて、荷物の移動や整理など細かな片付けがまだ残っているものの、やっと気持ちもさっぱりとし、すでに杉花粉が飛び交っている街へといつでも繰り出せるようになったのである。う、う、う、うれしいっ!
     とはいえ、蓄えを使い果たした私どもが行けるところは限られて、一番手っ取り早いのが入場無料の画廊、それから美術館図書室や国立都立区立図書館、近所の公園などということになってしまった。外食などはもってのほかである。必要な時はおにぎりを持参する。高齢者のための東京都の無料パス(じつは有料で入手するんだけど)を極限まで有効利用して、どんどん繰り出していくのだ、という心意気である。
     そんなわけで、過日、久しぶりにいくつかの画廊を訪れてみると、おお、なんということだろう、見応えある展示が目白押しだったのである。

     まず、地下鉄・新富町駅に降り立って、7番出口から徒歩数分のヒノ・ギャラリー。
     「佐川晃司展『半面性の樹塊』ー1990年を中心に」。

     1985年から1999年の間に制作された油絵7点、ドローイング4点、合計11点を並べた自選展であった。
     1985年というと、その3月に、佐川氏や彼の同期の川俣正氏、田中睦治氏、保科豊巳氏が東京藝大油画の大学院の博士課程を満期退学した年である(私は“ぷー”だった)。佐川氏は、その年の4月から京都精華大学の専任教員となって京都に移り住み、今日に至っている。大学教員としての彼の仕事の方は2024年3月の定年退職まできっちり勤め上げた。この間、国公私立美術館などでの個展やグループ展、東京、京都、大阪の画廊での個展というように、作品制作と発表とを着実に進めてきた。  
     ヒノ・ギャラリーでの作品展示は2022年3月に続き2回目。前回の発表は、東京ではかなり久しぶりの個展であったが、今回は1985年からの京都での生活・制作が始まって少ししてからの五年間ほどの取り組みを中心にした展示で、この時期に佐川氏が今日まで取り組み続けているテーマや方向を見出し、自らの取り組みの確信を得た、ということを示している。
     今回の展示作品を時系列に沿って整理すれば、1985年の作品として「何処のドローイング」、1988年の作品として油彩「空き地F4号」、「空地No.3によるドローイング」「半面性の樹塊の原形ドローイング」、「しげみのスケッチ」、1989年の作品として油彩「空地120号」、同「空地F6号」、1990年の作品として油彩「半面性の樹塊No.2」、同「半面性の樹塊No.4」、同「半面性の樹塊No.5」、そして1999年の作品として「半面性の樹塊No.33」、ということになる。
     「半面性の樹塊」のシリーズの「原形」は1988年にはドローイングとして現れ出ていたことが今回の展示で明らかにされているが、それまでに「何処」のシリーズ、「空地」のシリーズがあったことも示されている。「半面性の樹塊」のシリーズは1989年〜1990年あたりから本格的に大型の油彩画で繰り返し制作されてきて、とうに100作を超えていると伝え聞く。
     となれば、1985年以前の作品は? ということにもなろうが、じつは、昨年(2024年)11月〜12月に京都精華大ギャラリーで、「Seika Artist File #2『Imagined Sceneries ー7つの心象風景をめぐる』」という展覧会が開催されて、ここに佐川氏は1981年〜2年頃に制作した作品を出品した(らしい)。つまり、この展覧会で、今回展示されている作品群以前の作品群が、ある程度まとめて公開されていたのである。
     残念ながら、私はこの文の冒頭に記した拙宅の工事があって、その展示を見に行くことができなかった。見ることができていれば、このヒノ・ギャラリーでの展示はまた違って見えただろうし、2024、25年という時期に、学生時代や京都における最初期の作品を並べた佐川氏の意図をさらに身近に感じ取ることができただろう。それを思うと、見に行けなかったことがいかにも悔やまれる。
     
     ヒノ・ギャラリーに踏み込んでまず目に飛び込んでくるのは、入り口右側壁に展示されている大型の絵画のヘリが壁面から僅かに浮いて展示されていることと、入口から対角線状の二つの壁に展示されていた「空地120号」(1989年)と「半面性の樹塊No.33」(1999年)であった。いずれも油彩の大作であるが、どちらかの作品から見始めなければならないので、私は横長の「空地120号」の方から見ることにした。
  •  この作品「空地120号」には彼の「絵画」への取り組みの変遷についての大事な問題が見え隠れしているように感じたので少し詳しく触れてみたい。

     わずかに緑味を帯びた絶妙な色調のマットな褐色の色面がピタッ!と拡がっているのが印象的だ。
     画面向かって右側に萌黄色が際立つ“滝”が介入し、画面左には暗緑色の垂直線が屹立している。豊かな階調を含む萌黄色・緑色の“滝”の方は、画面下辺にまで至らず途中で終わって、一部が画面下辺中央へと繋がっている。この“滝”の終わり方や、褐色の色面と“滝”との境界には、東京芸大に在籍しながら制作・発表していた時期の作品群には見られなかった“攻め”が見て取れる。ボカシに似た不定形の境界の出現、せめぎ合い。
     “滝”が下辺に届く途中で終わっているあたりでは、萌黄色に比べれば低明度で高彩度の緑が萌黄色の領域全体を下支えしており、それゆえ萌黄色・緑色・暗緑色の領域全体が、空間的な前後感、もっと言えばマッス(=量感)を持っているように感じられる。それは、モネが描く枝垂れ柳の葉の群れのような印象さえ生じさせているが、“滝”と喩えてきたのは、この部分の筆触=タッチが、すべて縦方向であるからだと思われる。さらに、この“滝”の領域にあらわな筆触=タッチは、マットな褐色面にはほとんど見当たらないこととの対比を生じていることも指摘できるだろう。
     先ほども述べかけたが、萌黄色・緑色の“滝”と褐色の色面との境界には、細やかな配慮がなされており、そこには、低明度の褐色や水色に近い青緑色の斑点さえ顔を覗かせている。
     そればかりではない。萌黄色・緑色の領域(=“滝”)の下部から画面下辺中央へ(=あるいは画面下辺中央から“滝”の下部へ)と、左下がり(=あるいは右上がり)に低明度の緑が線状の不定型の色斑を形成している(近寄って観察すると、褐色の色面の塗り込みがなされていないことで現われ出ている線状の色斑のように見える)。さらにまた、褐色の色面のなかを貫いている暗緑色の垂直線の下辺足元からほんの少し右寄りのところを起点にして右上に向けて(あるいは“滝”の足元から下辺左下に向けて、でもよいのだが)やはり暗緑色の直線が与えられている。
     これら(緑色の線状の色斑と暗緑色の直線)が画面下辺の右の領域に褐色の鋭角直角三角形の領域を形成して、画面全体の下方右側から楔が打ち込まれたような感じ、あるいは鋭角直角三角形に折り返しが生じつつあるような感じを生じている。とはいえ、緑色の斑の連なりの傾斜と直線の傾斜とのズレが“緩衝材”のような役割を生じていて、画面全体の中でこのあたりだけが過度な役割を果たさないような配慮をしているらしいことが見え隠れしている。この褐色の三角形の領域では“滝”の足元へと回り込んでいくようなイリュージョンを生じていることにも注目される。

     こうして見てくると、この絵を完成させた時の佐川氏の関心は、まず、大きな褐色の色面の拡がりにあっただろうことは容易に想像できる。
     色面がこの独特なニュアンスの褐色へと確定するに至ったのは、おそらくは描画の最終段階だっただろう。この褐色の色面を得るために、下層には青系の塗り、さらに緑系の塗りがあったことがキャンバスのヘリからうかがえる。それだけでなく、褐色の色面の下層には横方向の帯状の色面や線があっただろうことがマチエールの凸凹から読み取れる。つまりこの褐色の色面に至るまで、多くの“試行錯誤”があっただろう。
     ところで、画面に色面が拡がっているだけでは「絵画」が成立できるはずはない。ゆえに“滝”やくさびや垂直線、斜線などが登場しているわけだ。それらは佐川氏の「絵画」にとってどうしても必要だったのである。単色が画面いっぱいに拡がっているだけではオブジェとしては成立できたとしても、それはやはり「絵画」ではないのだ。
     また、それがどのように独特なニュアンスを備えた名状し難い色彩であっても、そうした色彩が単一で画面に拡がるだけでは、その色彩がその魅力を十分に発揮することも困難なのである。色彩の魅力を発揮するためには、複数の色彩が必要で、それらの複数の色彩が画面上で相互に関係し合うことをよく見据えて、その関係の現れを作者が納得できるまで追求し実現することによって、やっと色彩は説得力を持つに至る。言い換えれば、色彩には「かたち」が必要なのである。というか、「絵画」では、画面に色彩を与えれば、そこにはたえず「色のかたち」が生まれ出ている。ある色彩を用い始めれば、キャンバスの色と色材との「色のかたち」のせめぎ合いが始まるのだ。
     たとえキャンバスそのものの色あるいは一面に塗り込められた単一の色彩だけで「絵画」が成立できると仮定したとしても、その場合は、キャンバスや紙など支持体のかたちが「色のかたち」を成すことになる。すると今度は、そのキャンバスの「色のかたち」とそれが置かれた周囲の物品の「色のかたち」との関係が新たな問題として浮上し、その問題の解決を促してくることになるだろう。インスタレーションへと展開するまではもう一歩、というわけである。もちろん、インスタレーションが“偉い”などとか、バカなことを言いたいのではない。
     また、色彩のことを問題にしようとすれば、「絵画」という形式だけがこの問題の探究を保証できる。なぜなら、「絵画」であれば画面に物理的な陰影が介入しない。物理的な陰影が介入せずにいられる形式は「絵画」だけだ。厳密には、額縁の影や鑑賞者の影が画面に落ちる場合があるし、画肌の凸凹(=マチエール)は画面に生じる物理的な陰影ゆえに私たちに認知できるのだから、確かに陰影は画面に介入しているわけだが、それを認めたうえで言いたいのは、その陰影は彫刻作品や立体作品に生じる陰影とは役割がまったく異なっている、ということである。彫刻作品や立体作品から陰影を完全に排除しようとすれば、大変な手間ヒマを要するだろうが、「絵画」であれば明るいところに置くだけでよい(暗いところでは見えない)。
     さらにまた、「絵画」という形式だけが「画面」という不思議な“場”の問題を浮上させ続けている。
     私どもの学生時代(1970年代)は「絵画」という言葉の代わりに「平面」という言葉が用いられ、同時に「イリュージョン」ということや「制度」ということが大きな問題だった。「画面」という「イリュージョン」のことは、はなっから捨て置かれた。「画面」から「イリュージュン」を排除して「平面」とし、そのうえでどのような作品が作れるか、というような、暗黙の問題意識をかかえていた、といえる。が、「平面」になにか行えば、その痕跡は「イリュージョン」を呼び込み「平面」は「画面」に転じた。この問題の前で、たとえば私は苦しんだ。
     そうした状況の中、多くの者たちが「絵画」から離れて写真やビデオを媒体にしつつ身体や物体や環境に目を向けて新たな表現の方向を探ろうとした。佐川氏もその動きの中の先鋭的なひとりだった。当時は一眼レフ・カメラが一般化しつつある時代だったし、まだまだ高価だったビデオカメラが東京芸大でも油画教官室に配備され学生たちに解放されたということも背中を押していただろう。「絵画」以外の表現を自主的に試みるための「演習室」も彼らは学校の中に獲得した。こんなことを書いて(打ち込んで)いくとキリがないが、言いたいのは、佐川氏が絵画に再び取り組み始めるにあたっては、こうした背景があった。当時、「絵画」に正面から取り組むことはたやすいことではなかった。
     さまざまな価値観や暗黙の前提を根底から疑って、一度は「絵画」から離れ、さまざまな試行を真剣に重ねた時期があったうえで、佐川氏がキャンバスの前に立ち戻ったということは大変大事なことである。その時点からの誠実な歩みの一端をこの展示から感じ取ることができる。

     話題が少し横道にそれた。「空地120号」のことに戻れば、繰り返しになるが、この作品の場合、絶妙な色合いの褐色の色面が大きく拡がるだけでなく、描きこまれた画面右側の表情豊かな萌黄色・緑色の“滝”や画面左側の暗緑色の垂直線、そして、画面右下方の直角三角形の褐色面、この三角形を形成している緑色の斑の連なりと傾斜している直線、これらがどうしても必要で、佐川氏の「絵画」を支えている。 
     大事なことだが、佐川氏は、あらかじめ計算づくで周到に準備したあとに大型の油絵としての“効果”を読み切った手順に従って完成に至ったのではなく、この作品と取り組みながら「色のかたち」を見出し、見出しながら確定したのだ。

     この作品「空地120号」は、昨年(2024年)暮れに京都精華大学ギャラリーで展示したという学生時代の佐川氏の「無題」の作品群を踏まえて、それ以降、つまり京都移住以降、数年間の彼の展開をよく示しているように私には見える。この時期に彼は自分の作品の流れ=展開に大きく揺さぶりをかけていたことが伺える。
     この展示には「空地120号」制作された前年(1988年)に描かれた作品が「しげみのスケッチ」「空地No.3によるドローイング」「半面性の樹塊の原形ドローイング」そして油彩「空地F4号」と4点含まれており、“揺さぶり”の様子を窺うことができる。それらの中から「空地F4号」を示しておく。
  •  記憶がいささか曖昧になっているとは言え、今も覚えていることはある。
     京都移住前、東京で制作された佐川氏の「無題」の作品群は大型の油絵で、いくつかの矩形の色面と幅広の色の線(または色の帯)とで成り立つ油絵であった。それらはキャンバスの四辺の水平・垂直と四隅の直角に準じて水平・垂直の辺を持つ大きさや形状の異なるいくつかの矩形の色面と幅広の線=帯の色面とでかたち作られており、色面と色面、幅広の色の線と矩形の色面との境目は直線状の明快なハードエッジであった。ハードエッジといっても、テープでマスキングして形成したようなエッジではなく、双方の色面や色帯を丁寧に塗りこんで現れ出たエッジ。
     塗り込まれた油絵具による複数の色彩は、その色も組み合わせ方も、すでに佐川氏独自と言うべきものだった。一見純色に見えてもそこからは僅かにズレており、また、いわゆる色相対比、補色対比、明度対比というセオリーからも僅かにズレていた。幅広の色の線(=色の帯)も、低明度の不思議な色合いで画面のヘリや色面同士の境界に垂直あるいは水平に与えられ、ひとつらなりの場合なら直角にその方向を変えた。その先端は“角ゴチック体”のように処理されており、画面のヘリなどに対して“寸止め”されていて、その微妙な空隙が独特な印象を生んでいた。
     時に鋭角を備えた直角三角形の色面が登場していたが、それは彼の学部の卒業制作に由来しているように思われた。学部の卒業制作では、キャンバスの四辺の水平・垂直を基準に、それに対してごくごく僅かな傾きを持たせて設定した色面の拡がりを、直線や鋭角直角三角形の色面を画面のキワに現出させることで感じ取らせて画面を“揺らし”、そのことで「絵画」を成立させようとしていた。この当時からすでに、佐川氏は、斜線が画面で果たす役割に極めて敏感であった、と私には思える。
     また、京都移住後に制作された(らしい)「空地」のシリーズにおいては、直角を挟んだ長い方の辺を水平に設定し、もう一方の辺をキャンバスの垂直なヘリに共有させ、両者を斜辺で結ぶ黒に近い色面で明瞭な30度・60度を備えた直角三角形に近い形状も登場してきていたはずだが、今回は1988年作のドローイングのみの展示である。黒く塗られた直角三角形の周囲には緑色に塗られた紙が張り込まれているし、鋭角は緑色の紙の縦のヘリの垂直から僅かに距離を置いている。この左右にクラフト紙のような紙を一度貼り込んでそれを剥がし、さらに薄く白色を塗るなど、激しい試行のあとが生々しい。このシリーズは大型の油彩画のシリーズとしても展開されていたはずだ。
     こうした斜線への佐川氏の一貫した関心は、「空地120号」で画面下辺右の直角三角形の斜辺においても見て取れるだろう。
     ここで思い出されるのは、「空地120号」の画面右下に見受けられる巻き込むような空間的なイリュージョンである。それは色面同士の境界=エッジの処理の仕方が学生時代から明らかに変化して、筆触=タッチを生かそうとしているところに由来するだろう。ゆえに、「空地120号」においては、かつてのハードエッジは不定型の斑の連なりに変じて曖昧さを生じ、そこに重なるようにして、細かな震えを内包した細い直線が引かれている。
     今回展示されている「空地」シリーズにおける小品2点のうち「空地F4号」(1988年)では色面同士の境界は明快あるが、ナイフでの塗り込みとその方向性が強調されて色面で成立させているが、よく観察すれば、色面と色面との境界部には、その下に黒い線が引かれているような様子が見て取れるなど、複雑な様相を呈しはじめている。その後制作された「空地F6号」(1989年)では色面どうしの境界は筆の動きにまかせた不定型になっていて、これらの不定型の色面をまたぎながら決然と何本かの直線が引かれており、空間の重なりを暗示している。

     こうした作品を制作しながら、佐川氏は「半面性の樹塊」のシリーズに至るのだが、そこでは菱形に近い形状が見出されており、まさに今回の展示での主題になっている。
  •  ヒノ・ギャラリーのステートメントには次のようなところがあった。

     「滋賀県のなだらかな山に囲まれた田園の中にアトリエを構え」「そうした自然豊かな暮らしの中で、ある夕方、アトリエの周りを歩いていた時、それまで量感を持っていた木がふいに逆光でシルエットとなり佐川の目に菱形に映りました。また、春先には田植え前の水が張られた田んぼを見て、つい先頃まで耕された茶色い土くれの広がりであったものが、水が張られたとたんに、遠近感は保たれたままに、鏡面のように空を映し、『菱形』のフォルムが立ち上がって見えたと言います。そうした体験から、視覚的には平面でありながら、木々や空といった風景を深い量感で包み込む『菱形』というフォルムの中に何重ものイリュージョンを畳込めるのではないか、と佐川は確信しました。」

     なるほど、と思わせられた。
     この「菱形」の“発見”を契機に佐川氏の「半面性の樹塊」のシリーズがはじまり、以来、ゆうに100点をこえてシリーズは続いている、ということは既に述べた。それらのうち、「半面性の樹塊No.2」1990年、「半面性の樹塊No.4」1990年、「半面性の樹塊No.5」1990年、「半面性の樹塊No.33」1999年が今回展示されている。「半面性の樹塊No.33」を除けば、すべて1990年の制作で、驚くような集中のなか、このシリーズが始まったわけだ。
     「半面性の樹塊No.2」はシンプルながら額縁に収まり、大切な作品であることを思っても少し驚かされた。
     どの作品も濃密なマチエールに至る長時間の取り組みが明らかだが、「半面性の樹塊No.4」では「菱形」のキワに問題が集中しているようで、四辺がそれぞれ異なった表情を帯び、キャンバスの四辺と「菱形」の角との関係の作り方には神経が注がれているし、「菱形」の描出で必然的に出現する四つの直角三角形との関係を確定するためか、筆触=タッチの方向を変化させたりしながら注意を払っている。
     「半面性の樹塊No.5」では「菱形」は登場しない。代わりに「空地」のシリーズとの関係を詮索したくなる。とはいえ、画面の四辺と直線が一本垂直に引かれている以外に、直角や水平・垂直は画面に登場しない。一見、グレイと黒とのモノクロームのようでいて、多様な色相が随所に顔を覗かせている。奇妙な奥行き感に引き込まれるような印象もある。傾斜する形状と奥行き感との問題を確認しているようにも見える。画面右側の直線が、パステルとコラージュとによる「何処のドローイング」(1985年)の右側にさりげなく引かれた垂直線と呼応するように見えたのは私だけだっただろうか。
  •  「半面性の樹塊No.33」は今回展示されている他の作品から少し時間をおいた1999年の制作である。1990年から1999年までのあいだの佐川氏の「菱形」を手がかりにした濃密な取り組みが想像できるような気がする。
     ここでは、まず、画面中央のブルーの重厚な色合いと、この絵のために幾重にも絵具を塗り重ねて得られた激しいマチエールが目をとらえてくる。
    大型のキャンバスを縦に使ってそこに縦の「菱形」が四隅を画面の四辺からはみ出させて深いブルーで描かれている。言い方をかえれば、画面四隅に直角三角形をグレーで描いている、ということにもなろうが、マチエールを形成している筆触=タッチが、画面右下隅の直角三角形の領域を除いて、ほぼ同じ方向、左上から右下へ(あるいは右下から左上へ)とごく僅かに上方へ傾きながらパラレルハッチングのように並んでいることが特徴になっている。画面右下の直角三角形だけは同じ方向の筆触=タッチもあるものの、画面右上から左下(あるいは左下から右上)へとごくごくわずかに傾いたものになっている。
     ここでも、「菱形」とそれ以外との境界部には注意が払われており、繊細に処理されて、画面全体の拡がりを邪魔しないように、というか、画面全体が拡がりをもって迫ってくるような効果を生じている。
     「菱形」の領域には画面を覆う筆触=タッチだけでなく、おそらくは最終盤に黒で「菱形」の下方の頂点の方向へ緩やかに収斂するような線=筆触=タッチが加えられ、奇妙なクロスハッチングのような効果を生んでいる。そのことで、画面表面そのものが厚みを持った柔らかさを得ている。

     これら佐川氏の誠実な仕事ぶりの前でしばし佇むことになった。

    (2025年2月6日、東京にて)
  • 佐川晃司展 「半面性の樹塊」-1990年を中心に

    会期:2025年1月20日 - 2月8日
    会場:ヒノ・ギャラリー
    公式HP:http://www.hinogallery.com/2025/3499/


    写真1:佐川晃司展、ヒノ・ギャラリー入り口からの写真
    写真2:佐川晃司「空地120号」1988年、キャンバスに油彩
    写真3:佐川晃司「空地F4号」1988年、キャンバスに油彩
    写真4:右=佐川晃司「半面性の樹塊の原形ドローイング」1988年、紙に木炭、水彩)、左=佐川晃司「空地No.3によるドローイング」ミクスドメディア
    写真5:佐川晃司「半面性の樹塊No.33」1999年、キャンバスに油彩
  • [ 藤村克裕プロフィール ]
  • 1951年生まれ 帯広出身
  • 立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
  • 1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
  • 1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
  • 内外の賞を数々受賞。
  • 元京都芸術大学教授。
当サイトに掲載されている個々の情報(文字、写真、イラスト等)は編集著作権物として著作権の対象となっています。無断で複製・転載することは、法律で禁止されております。