ふだん東京で暮らしているが、大阪に仕事があったので兵庫県立美術館まで足をのばして『現代絵画のいま』展を見てきた。ねらいは野村和弘氏の作品で、これは十分に堪能させてもらったが、出品者の中に、スペースの一部を緑色の光で満たして、そこに額縁入りの作品などを展示しているひとがいた。そこでは当然すべてが緑に染まって見えた。作品のキャプションに、緑色の光のことは書かれていなかった。
そのスペースの中央の床には1メートルほどの高さのガラスケースが置かれていて、ケースの中のものにオレンジ色の光が映り込んでいた。なぜオレンジ色の光が映り込むのか、それが分からなくてまわりをきょろきょろ見回した。それらしき光源はどこにもなかった。しばらく戸惑って、なーんだ、と気がついた。ガラスケースの上部中央裏側にオレンジ色の光を出す照明器具が仕込まれていた。おう、やりおるわい、と思ったが、かえって分からなくなった。
やりおるわい、というのは、緑の光とその補色の光とを混ぜ合わせてケースの中のものを白色光で見せようとしたのだろう、と瞬間的に思ったからだ。しかし、緑の光の補色の光はマゼンタではなかったか。ここで分からなくなった。この作家は、二つの色の光をこうして使うことでいったい何をやりたいのか?
キャプションにはなぜ光のことが記されていないのか? そこで、その場所にすわっていた係の女性に、このスペースの作品のキャプションに光のことが記されていないのはどうしてですか、ときいてみた。その女性は、私たちには詳しいことが分かりませんので学芸員にきいてみます、と言って電話をしてくれた。伝えられた学芸員からの返答がふるっていた。作品がモノクロームで寂しいから色のついた光をつけてほしい、と作家が言ったので緑の光にしています、というものだった。
カチンときたが、がまんした。だって、監視役の善良な女性にあれこれ言っても仕方ないし、学芸員を呼べ!と求めたところで、偏屈なジジイがささいな事でかんしゃくを起こしている、と受け止められるのがオチだ。難儀やなあ…、当然予想されるそんな女性や学芸員の反応を乗り越えていくためには、私の方もストレスを背負いこまなければならない。そんな余分な元気はなかった。そのまま美術館から大阪に戻った。
「寂しいから」と言う理由だけで、緑色の照明をつけてほしい、と求めた作者も作者だが、はいはい、と応じる展覧会の責任者も責任者ではないだろうか。おまけに、キャプションに光のことを記すのを怠ったのはどういうことだろう。
ひょっとすると、記載を怠ったのではなく、この作者のこの程度の気まぐれを作品と認めるような軟弱さは持ち合わせていない、という責任者の決然とした姿勢の表明としてあえて記載しなかったのかもしれない。でも、それならば、あなたの作品に緑色の光を当てる必要なんかない、と現場で突っぱねればよい。「寂しい」とすればそれは作品がモノクロームだからではなくあなたの作品の問題ではないか、と一緒に考えればよい。そうせずに、スペースの一部を緑の光で満たしたのだから、そのことを意思的にキャプションに記さなかったのだとは考えにくい。ただ、忘れた、というか、わざわざ記すべき事柄ではない、というほどの認識の所在を示すようなことではないか。
ここまで考えて分かったことがふたつある。
ひとつは、美術の当事者間では作品に当てる光の色によって展覧会場の雰囲気が左右されることはさすがに常識化されているようだ、ということである。光を素材として用いてきた作家たちの営為の成果や、店舗照明・舞台照明などでの試みの成果などと連動してのあらわれだと思われる。ネオンやLEDなどの光素材がそう珍しいものではなくなってきたことが大きい。
もうひとつは、光は表現の媒体としてまだ積極的に捉えられておらず情緒的なレベルにとどまっているらしい、ということである。「照明」は美術館での作品展示で、あまりに当たり前の必要条件である。ふだん繊細に気遣っていることに比べれば、スペースの一部に緑色の光を放射する照明具を用いることなんて、どーってことないのかもしれない。でも、なんだかなあ、と思うのであった。
今、どこもかしこもイルミネーションの季節だ。大阪に戻って見た新聞には、神戸・ルミナリエが始まった、という記事が大きく出ていた。光に関する感度の鋭さでは、緑の光を許容しながらキャプションに記さなかった美術館より、イルミネーションの当事者たちの方に軍配が上がりそうである。
光のことにからめてあれこれをしばらくここに書かせていただくことになった。どうかよろしくお願いします。
(2012年12月14日、東京にて) 。