長い間、「雑記帳」をサボってしまった。まず、冒頭で言い訳である。
拙宅の耐震補強工事の計画のことを以前ここに少し書いた(打ち込んだ)。その工事がいよいよ6月から始まる(はずである)。
拙宅は、義父母が終戦後に建てた。増改築を重ね、木造二階建ての古くていささか変則的な家屋になって今に至っている。その一番古いところを中心に、今、やっと、補強しようとしている。古いところを補強するとバランス的に他の箇所の補強が必要になる(らしい)。結果、かなり大掛かりな工事になるようだ。
工事は私どもが建物に住みながら行なう。工事の間はどこかに仮住まいする、なんてことができる身分ではないからである。
まずは一階(私どもは二階で暮らしている)。真っ先に一階の床全部を取り払う(らしい)。なので、工事の開始までに、一階の荷物は全て、二階のどこかか一階にある私の仕事場や家人の仕事場に移動しておかねばならない。私の仕事場の一部も工事するのでそこも空っぽにしなければならない。そのためには、その移動先を片付けてスペースを作っておかねばならない。その片付けのためには、別のスペースを片付けなければならない、、、。えーん。
一階の工事が終わったら二階の工事である。その時は、工事をする二階の場所におかれた荷物を、工事が終わった一階、あるいは二階の工事しない場所に移動しなければならない。えーん。
つまり荷物の移動で毎日が過ぎていく。加えて、経費節約のために、壁や天井の塗装は自分ですることに決めた。できるかな。脚立から落ちないかな。これもやはり心配で、落ち着かない。
そんなこんなで、つい「雑記帳」を後回しにして、結果、サボってしまっていたわけである。
(言い訳はここまで。)
さて、そんな中、4月2日。快晴。
その前の週の雨の日に、うっかり忘れてきた傘をとりにいくことにした。目指すは上野・国立西洋美術館。傘はきちんと保管してくれている(らしい)。暖かな日だった。ついでに、やっと桜が開花してこれから大混雑するだろう上野で“お花見”も済ませてしまおう、というコンタン。家人と一緒に電車に乗った。
前の週の何曜日だったか、もう忘れている。だから日にちも分からない。ともかく、その日、出かけた時はかなりの雨が降っていた。
美術館に着いて、濡れた傘を傘置きの例の“装置”(名前が分からない)におさめ、“装置”の鍵をポッケに入れて、入場料2000円×二人分=4000円を支払って、「Does the Future Sleep Here? ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか? ー 国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」という長くて奇妙なタイトルの展覧会入り口を目指したのである。
このタイトル、英語と日本語とで意味が違うのではないか、と私は思うのだが、私の英語力はお猿以下だし、日本語力も怪しい。よって、その詮索は諦めて、二種類用意されていたその一方のチラシに印刷されたこの展覧会の開催趣旨を読んでみたのである。
件のチラシには、この展覧会の企画者=新藤淳(しんふじあつし)氏の署名文がある。
そこでは、まず、国立西洋美術館が「遠き異邦の芸術家たちが残した過去の作品群だけが集っている場」で、それらは「死者の所産」である、と書かれて(印刷されて)いる。「死者」はもう何も作ることができないのだから、「死者の所産」とはおかしな言い回しではないか、などと感じるが気にせず先に進めば、そうした場(=「異邦」の「死者」たちの作品たちを集めた場)に、「こんにちの日本で活動する実験的なアーティストたちの作品をはじめて大々的に招き入れ」る、と”宣言”している。
「招き入れ」られたのは以下の人々である。飯山裕貴、梅津庸一、小沢剛、小田原のどか、坂本夏子、杉戸洋、鷹野隆大、竹村京、田中功起、辰野登恵子、エレナ・トゥタッチコワ、内藤礼、中林忠良、長島有里枝、パープルーム、布施琳太郎、松浦寿夫、ミヤギフトシ、ユアサエボシ、弓指寛治。つまり20名と1グループ。
やがて、この妙なタイトルが、ドイツの作家・ノヴァーリス(私は読んだことがない)という人の文に由来することが明かされている。では、なぜノヴァーリスという人の“文”なのか?
その“文”は、「展示室は未来の世界が眠る部屋である」、「未来の世界の〔‥‥〕芸術家は、ここに生まれ育ちーここで自己形成し、この世界のために生きる」、という二つなのだが、これらが書かれたのが、ヨーロッパに「美術館」と呼ばれる制度が本格的に成立した時期=18世紀末だったから、と新藤氏は述べるのである(「生まれ育ち」のところに強調のための傍点があるが、原文にもあるのかな? 気になるが放置する)。
このノヴァーリスの二つの“文”を受けて、このたび、「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋たりえてきたか?」と国立西洋美術館が自問しているのであり、この展覧会への「参加アーティストたちへの問いかけ」てもいるのだ、というのである。
ノヴァーリスの“文”に触れる以前に、新藤氏は、この美術館のもとになったコレクションを成した故松方幸次郎氏が、それらを未来の日本の芸術家の制作活動に資することを望んでいた、ということを述べていた。さらに安井曽太郎の発言も引用しながら、「国立西洋美術館は未知なる未来を切り開くアーティストたちに刺戟を与えると言う可能性を託されながら建った」と確認したうえで、開館後65年を経た現時点で、「国立西洋美術館がじっさいにそうした空間たりえてきたかどうか」を問う、というのだ。そのために「今日の日本で活動する実験的なアーティストたちの作品を大々的に招き入れ」た、と。
かくして、国立西洋美術館で、はじめての”現役の”日本作家たちによる現代美術展(ただし、うち一名は京都在住のロシア人作家、故人も一名含まれている)を企画した、と説明している。
ふーん。英断だな。
展覧会受付でさっき購入したチケットを確認してもらって階段を降り、ロビーを経て、さて入場しようとして、あれま、、、と戸惑ってしまった。
出品目録はこのQRコードで読み取ってください。という掲示とそのQRコードが示されているものの、紙に印刷された出品目録がどこにもないのである。
つまり、スマホを所持していない者は出品目録を入手することから排除されているワケだ。
そんな馬鹿なことがあるか、とさっき降りた階段をまた登って展覧会受付に戻り、紙に印刷された出品目録が欲しい、紙でなければメモさえできないから、と受付近辺にいた係員らしきスーツ姿のお姉さんに訴えた。
紙の出品目録は、今回はないんです。
お姉さんは、そう繰り返すばかりだった。納得いかない、と食い下がったがお姉さんは鸚鵡のようでラチというものがあかない。アンケートが用意されていますから、ご不満はそれにお書きください、などと言う。お姉さんは、おそらくこの美術館の専任職員ではなく、業務の一部を委託されている外部の会社の人だろう。業務契約に忠実に従った仕事ぶりなのだ。
このお姉さんとやりとりしてもしょうがない、と思って、“吹き抜け”から下の階のロビーで私を待っているはずの家人を探したら、家人は警備員の一人に私と同じことを訴えているらしい様子が見えた。警備員はワイヤレスマイクでいずれかに連絡をとって、何か家人に言っていた。階段を降りて家人と合流して家人に聞けば、その警備員は、別の者が紙に印刷された目録を持って来ますので少しここでお待ちください、と家人に言ったらしい。待っているとやがてスーツ姿の紳士が紙に印刷された目録を2部持ってきてくれた。丁重にお礼を述べた。
が、釈然としない気持ちがわだかまる。わだかまりの理由は次のようなことだったろう。
一つには、観客はスマホを所持していて当たり前、QRコードで情報を読み取ることは当たり前、という暗黙の前提に対して。
次には、会場に配された係員によって対応が異なっていたことに対して。
さらに、紙に印刷した出品目録を会場入り口に準備さえしていないし、必要なら係員に申し出るように、とかの案内もない、ということ。
ひどすぎる! ぷんぷん!
私だって家人だって国税を納めているぞ(少しだけど)。
国立の美術館が、国民(納税者)をスマホで選別するようなふざけたことをするんじゃない!
会場の入り口にはQRコードだけじゃなく紙に印刷した出品目録を置いておきなさい!
ぷんぷん!
こうした思いがけないアクシデントを乗り越えていよいよ会場に入ったのだった。
(続く)