「1、闇の守一」では、1900年に入学した東京美術学校時代の1901年のスケッチから1918年の油絵『某夫人像』までほぼ20年近くに及ぶあいだの油絵13点、スケッチ5点、楽譜やハガキやノート類の資料が展示されている。この間、熊谷は制作だけに集中していたのではない。二度樺太調査に参加して、調査先で地形や産物などを捉えた絵を描き(関東大震災ですべて消失したとのことだ)、当該役所に出向いて仕事をしているし、故郷の付知(つけち)で「日傭(ひよう)」などの肉体労働に従事している。残されている作品数が少ないのも頷ける。
学生時代にはよく学んでいる様子が伺え、すでに形体把握ののびやかさとデリケートさが共に備わっていて、色感のよさもすでに充分に示されている。逆光の人体を描いた『横向裸婦』(1904年)では、当時美校の教員だった黒田清輝とよく似た筆遣いをさえ認めうる。総じて教場=室内の女性モデルなどに生じた陰影のドラマにじつにデリケートに反応できているが、1903年のある夜に遭遇した轢死事故現場でスケッチしている学生だった熊谷の姿を想像すると、デリケートさとともに剛胆さをも備えていることも分る。この現場でのスケッチが1908年の油絵『轢死』としてまとまって以降、1909年の『蝋燭』、1910年の『ランプ』というように、闇で描いた絵が続く。黒田らの外光派には全く飽き足らない、ということだろうか。それにしても、暗闇の中でいったいどうやって描いたものだろう。描きつつある絵が見えないではないか。昔、『蝋燭』をはじめて見たときからの謎が解けない(ゴッホにもいえることだ)。
また、1915年に再び上京して以降の作品などもこのセクションに含まれている。のちに妻となる秀子が『某夫人像』(1918年)で示され、音楽や音響学や色彩学などへの関心を示す1920年代の資料。『某夫人像』では幅広でほぼ同一方向の短い筆触で画面全体を埋めている。その筆触で陰影部にさまざまな色が穏やかではあるが見出されている。やはりただ者ではない。
「2、守一を探す守一」には、1919年作の『ポプラ』を含んで1920年代以降の作品が並んでいる。油絵80点、デッサン8点、加えて長谷川利行作『熊谷守一像』。しかし、正直に書くが、このセクションはいかにも見づらかった。「守一を探す守一」と言いながら、熊谷が何をどう探していたか、そしてどう「守一」に至ったのか、このテーマそのものが追いにくいのだ。なぜなら、すでに記したように、樹木・植物・花、人物・人体、風景、…、というようにモチーフ別にまとめられていて、結果、時系列がバラバラになっている。それによって、熊谷の“試行”が断片として見えてしまって、つぎつぎに生じる疑問が整理できないのである。その疑問の一端をメモしておこう。
例えば、「謎」②で「赤い輪郭線」を問うのであれば、なぜ『ひまわり』(1928年)を無視して『夜の裸』(1935年)を取り上げるのか? 前のセクションでの“闇”との“整合性”から? 風景の中に人体が見えてくるという熊谷の言葉の例示のため?
また、「謎」③「海外作家にまねぶ」では、『はま浪太』(1951年)とマチス『海景(海辺)』(1906年)との“まねぶ関係”を述べ、他にもドラン『ル・ペックを流れるセーヌ川』(1904年)と『ヤキバノカエリ』(1956年)との比較などフォーヴィズムとの“まねぶ関係”を述べている(ただし、会場の展示パネルやカタログで「フォーヴィズム」という言葉は一切登場していない)。が、ならば何故、『人物』(1927年)をはじめとする人体の諸作品や『風景』(1935年)などとマチスなどとの関係を述べないのだろうか? 会場パネルで指摘するように、1951年に東京で開催された「マチス展」や「ピカソ展」が熊谷を含めた当時の美術家たちに与えた影響はとても大きかっただろうが、上記のような1920年代後半からの熊谷のフォーヴィズム的な試行は熊谷にとってより重要だったように私にはみえる。その試行は1935年あたりには自らのものとして消化され尽くし、ピークを迎え、やがて『山形風景』(1938年)のように新たな試行が始まっていくように見える。つまり、色鉛筆による輪郭線、薄い塗り、塗りのあと加えられる引っ掻かれた線、薄い塗りから稠密な塗りへ、塗り残される線、塗って作られる線、グラデーションを含む塗りから単一な塗りへ、というように行きつ戻りつしているようである。
岸田劉生などのフォーヴィズム受容は1910年代はじめに集中しているから、熊谷守一がフォーヴィズム的な制作をしていたのは随分遅いと言ってよい。しかし、熊谷は1910年代はじめには闇の中のものの見え方と取組んでおり、その後は付知で労働にいそしんでいたのだから、“時流”からの遅れは当然だろう。熊谷は“時流”より自分自身の問題意識に忠実だった。再上京して以降試みられたフォーヴィズム的な展開は「まねぶ」よりも重要な意味を持つように思われる。いきなり1951年のマチス展を契機にフォーヴィズム的な展開を試行=「まねぶ」ことをしたわけではあるまい。それにしても、この時期、「三十分くらいで描きました」と熊谷自身が言う『陽の死んだ日』(1928年)に示される並外れたデッサン力と絵具の扱い、これはやはりただ者ではない。つづく→