バスで訪れた「スタジオ」は7つ。
どこもきちんとお客様を迎える体制を整えていた。
がっちりと立派な建物から、歪みつつある外観に驚かされてしまうような“仮設”の建物まで、その環境は様々だった。あるスタジオで、大槻氏らから、ここには唯一エアコンがあります、とわざわざ説明があったのは、うらやましさがにじみ出ていて、実に共感できた。私の仕事場にもエアコンはない。
「スタジオ」内部の、作品の“インスタレーション”も様々だった。日常の制作の様子をある程度とどめながら作品展示している「スタジオ」。そうではなく、一切の生活感を排除してしまうくらい展示に集中した「スタジオ」。展示されていた作品とともに、それぞれ面白かった。
「オープンスタジオ」という取り組みは、パリなどでも、当たり前のように定期的に行なわれているようだ。あちこちの美大でも、同じ呼び方で学生たちの日常の制作の様子を公開している。「教場」とか「教室」とか呼ぶべき場を、「スタジオ」としているのが面白い。つまり、「オープンスタジオ」それ自体は、珍しいというものではない。
また、かつて、美術館やギャラリーのような空間ではなく、自宅や日常空間の中で作品を発表する試みもあった。故榎倉康二氏、高山登氏、島州一氏、原口典之氏、藤原和通氏、長重之氏、藤井博氏、内藤晴久氏、八田淳氏、羽生真氏の10(ten)人で始められた「点展」、彦坂尚嘉氏が行なった「フロアイベント」(自室の床にラテックスを敷詰め、白濁したラテックスが透明になるまで立ち会ったというイベント)、山中信夫氏の行なった多摩川の川面を撮影した映像をその映像を撮影した現場の川面に映写する作品などがただちに思い浮かぶ。
越後妻有や瀬戸内など、まるで“地域おこし”のように各所で行なわれるようになった日常の生活空間でのアートフェスティバルや野外展示など、これらを、上記のような試みの“発展形”だ、とも考えうる。
こうしたものと違って、「オープンスタジオ」は、スタジオ空間自体を作品化しようとするものではない。ないが、作品がギャラリーや美術館にあるときと「スタジオ」に展示したときでは異なった相貌を帯びる。これが、実に面白い。
また、私がもしアートディーラーのような立場だったら、新人発掘の場にもなる。その場で展示作品の購入の交渉に入ることもできるだろう。さまざまなかかわり方ができそうだ。実際、ツアーに参加しているヒトの中にはそれらしきヒトもいた。
私の立場はシンプルだ。興味本位、それ以外に参加の目的はない。いま、若い人たちは、どんなところで、どんな作品を作りつつあるのかなあ、そういう興味だ。
スタジオには、作者もいてくれるので、いろいろ話ができるのも楽しい。若い人が、たとえば私が今まで考えたこともなかったことに取り組みつつある様子に立ち会えるのもうれしい。つい、大丈夫かなあ、と老婆心も起きるが、ご当人は、知ったことじゃないだろう。「スタジオ」の各所の、隠しようのない私的といえる領域、そのセンスの多様さを覗き見るのも、実に面白かった。悪趣味かな。
つづく