早稲田のshyは故室伏鴻氏の活動をアーカイブするカフェである。
私が最初に訪れたのは、中西夏之さんが亡くなってしばらくして、中西さんを偲ぶ座談会がそこで開かれた時だった。私を含む聴衆がギューギューだった中で、宇野邦一、林道郎、松浦寿夫の三氏が語り合ったのを聞いたはずだが、松浦氏が初めて中西さんと会った時の話だけ覚えていて、他の話は全部忘れてしまっている。この豪華メンバーでの話を忘れてしまったなんて、いかにももったいないことだ。では、なぜ、松浦氏の話を覚えているかというと、それまで彼の文章や作品の印象から得ていた彼への先入観が、この時、一挙に崩れ去ったからだと思う。松浦氏の話は確かこんなふうだった(細部が怪しい)。
中西さんから指定された駅(大森駅?)に降り立つと、スキンヘッドの男が現れて、ようこそいらっしゃいました、ご案内します、と中西さんのアトリエまで連れて行かれた。アトリエにはさらに怖そうな人たちがいて、すぐにでも帰りたかったが、〇〇さん(この名前も失念)の舞踏が始まって、帰るに帰れず、舞踏が終わってからも一刻も早く帰りたかったが、怖くて帰れなかった。そんな状況で初めて中西さんに会った。
松浦氏はそんなことをもっともっと上手にしゃべってみんなを笑わせていた。それを聞きながら、へえ、意外にいいやつそうだなあ、と私は思ったのだった。なので、shyというカフェは、私が知らなかった松浦氏の一側面を垣間見た記憶とどうしても重なってしまう。
その後も、そのカフェの近所に行く用事があった時に何度か立ち寄った。壁には一冊一冊白いカバーをかけられてタイトルが書かれている室伏氏の蔵書がずらりと並び、中西さんの絵が使われた室伏氏の公演のポスターなども置いてあった。テーブルには舞踏の研究者らしき人が傍にコーヒーカップを置いてパソコンと睨めっこしていることもあった。
一度だけお店の女性に、室伏氏が「背火」を旗揚げしたとき、中西さんの「コンパクトオブジェ」の木製の原型を炭にする、というイベントをやったそうですが、その炭は残っていますか? と尋ねてみたことがある。
その女性は、あれは失敗してしまって残っていません、と答えてくれたが、会話はそこで途絶えてしまった。私は確かに気が小さすぎるし人見知りだが、「コンパクトオブジェ」に木製の原型があってそれを「背火」の旗揚げの時に炭にしようとしたことを知っているこのジジイは何者か、と訝しがられたであろうことも否めないだろう。それで、会話が続かなかったのかもしれない。が、このジジイは、ただの古本好きで、たまたま「背火」の旗揚げ公演で配布された冊子をどこかで安く入手して中身を読んでいたに過ぎなかったのだが、そうした説明をするのは鬱陶しかった。結果、なんとなく気まずくなって、以来、訪れていなかった。
(また、前置きが長くなった。いつも長い。反省している。)
そんなわけで、久しぶりにshyに行ったのだが、行ったワケは、アンジェイ・ワイダが撮った『タディウシュ・カントルの《死の教室》』の上映会があったからである。
アンジェイ・ワイダやタディウシュ・カントルについては説明するまでもないだろう(カントルはカントールとも表記されることがあって、私もずっとカントールと認識してきたが、カントルという表記の方が良いようである。ワイダもヴァイダの方がポーランド語の発音に近いそうだが、ワイダと表記する)。
開場直後に到着しすぐに席をとったが、続々とお客がやってきて満員の盛況であった。東京外語大学名誉教授、ポーランド文化の専門家、関口時正氏がDVDを映写してくださる。72分間の映像である。
実は、私は1982年のパルコ劇場での『死の教室』の公演を見ていた。見てはいたが、座席が舞台から遠かったせいもあって、何が行われているかよく見えなかったし、筋も何も、理解できず、かろうじて、全体に漂う不気味さの印象と、精巧そうな人形、裸になったかに見えた役者が大きなチンチンのついた着ぐるみだったことなどを記憶しているばかりだった。ある種の悔いが残っていたのである。
また、私は1987年に「国際タピスリートリエンナーレ」という展覧会参加のためにポーランドを訪れたことがあって、10日間ほど滞在したと思う。ウッジという街を中心に、ワルシャワやアウシュビッツも訪れた。そのウッジには、以前ここにも書いたかと思うが、ポーランドで最初の「現代美術館」があって、そこにいくつかのカントルの作品があったし、その町の映画学校ではワイダが教えていた。、、、というようにさまざまな思い出が蘇っていた。
映像の冒頭、古めかしい廃墟のような地下の筒型ボールト天井の細長い部屋にカントルがいて、テーブルとベンチとが一体になった大道具が階段状に据えられている。
開場時間になったのだろう、外で待機していた観客が次々にカントルのいる部屋に入ってきて右側の長い壁に沿って並べられた席に位置を占めていく。
やがて、部屋の奥の暗がりから役者たちが現れて階段状のテーブル付きのベンチに座っていく。劇が始まるのだ。 と、書いて(打ち込んで)いるが、すでに記憶が曖昧で役者たちの登場の仕方や服装、特徴などをしっかりと明瞭に示すことができない(実にもどかしい)。
後方の高い位置になっているテーブル付きのベンチの役者が叫ぶ。と役者たちが、人差し指と中指とをくっつけて伸ばした手を上げていく。一斉にではなく、いくぶんかの時間差を持って。
カントールはこの劇に加わるでもなく無視を決め込むのでもなくただそこにいてうろうろしている、、、(それは終わりまで続く)。
というふうに始まっていくのだが、パルコ劇場で見た時に比べれば、役者たちの顔、仕草などははっきりと確認できる。が、劇中で起こっていることはやはり私には意味不明である。とはいえ、ぐいぐい引き込まれていく自分を感じている。気がつけば、終わって上映時間の72分が過ぎていた。
明るくなって、休憩後、関口時正氏の話があった。
最初に、二本の指を立てて手を上げていく、あれはポーランドの子供たちが学校で手を上げる普通の仕草です、とおっしゃった。だからこれは教室の出来事。歴史の問題が出されて(後方の役者の声による)、子供たちが答えています。問題の内容はポーランドでなら普通に覚えておかなければならないことです(泣くよ鶯、、、みたいなことか?)。と例をあげて説明してくださる。「黒色嘔吐」という戯曲の話、旧約聖書の話、ヘブライ語の話、ポーランド語の「数」の話、ポーランド語の発音の話、、そんな関口氏の話で、長年の“懸案”が解けた。なるほど、教室で次々に起きる出来事、、、。
関口氏は、私が見たパルコ劇場や確かその前の利賀村で上演された『死の教室』と、ついさっき見たDVDの『死の教室』とはまるで違うものだ、と言った。パルコや利賀村のは世界ツアーのために作り直されたもので、DVDの映像は1975年時の初演、、、。
関口氏は、この初演(1975年晩秋)をクラクフにあった地下室のクシュトフォリ・ギャラリーで見た、という(関口氏は留学生だった)。「すべてが終わった後、私は自分が誰か他人の脳に入り込んで他人の夢に参加していたかのような感覚を味わっていた」と関口氏はこの日会場で配布された文章で綴っている。そこには「並はずれて強烈な体験、そして文学的読解の拒否」とも書いてあった。「小学校の長椅子の上、ずんずんと予期せぬ形でそそり立ってゆく子供たち=マネキンたち、自ら抱えた窓から終始内部を覗き込む女、飼い葉桶の中で転がる球の重い轟くような音ーーーそれらすべてが一緒になって作用し、言葉を超えた力で迫ってきた」とも(同じようなことは、今さっき見たDVDの映像から私も感じさせられたことである)。
このDVDはかつて日本でも販売されていたVHSビデオと違って、画質をはるかに良く修正しており、日本語字幕も関口氏によって作り直されて、それまでのビデオでの省略や誤りが正された結果、情報量が随分増して正確になった、という。このDVDは、現在のところ、日本には関口氏の手元に一枚あるだけだそうだ。
そもそもアンジェイ・ワイダがこの撮影を決断したのは、初演当時『死の教室』を二度見に行ってのことらしい。その時、ワイダはクラクフで『大理石の男』の撮影をしており、当時のポーランドでは数少なかった良い撮影機器と貴重な35ミリカラーフィルムを持っていたので、ぜひに! と現場での『死の教室』の撮影を決断し、地下室での上演の様子以外に、屋外でのいくつかのシーンも加えて映画として完成させたい、と提案し、カントルの同意を得て作った、という。そうした「外でのシーン」のうち、カントルの妻マリア・スタングルがイディッシュで歌うシーンは、シナゴークとカトリックの教会が向かい合わせになって挟まれた特別な場所で撮られた、と関口氏が言ったことは大変印象深いものがあった。
また、関口氏は『死の教室』というタイトルについて、厳密には『死んだ学級ーー降霊会』とするべきだろう、と述べた。ということは、さっき映像の中で登場していたのはカントールの同級生だった死者たち、その同級生たちの霊を「降ろして」(霊が降りてきて)かつての教室の中で起こる(かつて起きた)さまざまな出来事を思い返している、と解釈もできる、と提案して下さったように思え、長年の謎が氷解したのであった。
企画は竹重伸一氏。この映写会の情報はSNSで得た。幸運であった。また機会があれば見たい。
(11月8日 東京にて)
Shy 室伏鴻アーカイブカフェ
https://kkunstwatanabe.wixsite.com/shys